郵便番号 959-3907
住所 新潟県 村上市 府屋
読み方 にいがたけん むらかみし ふや
この地域の
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地方公共
団体コード
15212
最寄り駅
(基準:地域中心部)
  • 府屋駅(JR在来線)
     …距離:629m(徒歩7分)
  • 勝木駅(JR在来線)
     …距離:3.6km(徒歩45分)
  • 鼠ケ関駅(JR在来線)
     …距離:5km(徒歩61分)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • 府屋駅(JR)《駅(JR在来線)》
  • 大川谷郵便局《郵便局》
  • 通年民宿長平《民宿》
  • 村上市山北支所《役所/役場》
  • 第四北越銀行山北支店《地方銀行》
  • 村上信用金庫府屋支店《信用金庫》
  • 山北総合体育館《体育館》
  • 村上市立山北中学校《中学校》
  • エネオス府屋SS《ガソリンスタンド》
  • 新潟県 村上市 府屋」の読み方は「にいがたけん むらかみし ふや」です。
  • 新潟県 村上市 府屋」の郵便番号は「959-3907」です。
  • 新潟県 村上市」の地方公共団体コードは「15212」です。

「府屋」の概要 from Wikipedia

…(7,393文字)

府屋(ふや)は、新潟県村上市の地名。

歴史的背景と言語環境

縄文・弥生・古代・南北朝・安土桃山等の遺跡/府屋を流れる大川右岸の河岸段丘Ⅲ上には、⑦上山遺跡(縄文後期~晩期)・⑥竹ノ下遺跡(古代・中世)があり、左岸の砂丘中央付近には④府屋遺跡:住居跡(縄文前期)・砂丘南端間の⑤間ノ内遺跡(弥生)がある。(全国遺跡報告総覧_大川城跡.pdfp6)/なお、府屋遺跡周辺は⑬縄文遺跡包含地となっている。(新潟県の遺跡一覧表 - 新潟県ホームページ (niigata.lg.jp)遺跡台帳 村上市(7) NO629)/また、越後瀬波郡絵図にふる城として描かれている①大川城跡、平時の居館:➁藤懸り館跡がある。(同上:大川城跡.pdfp8・図版16)/米沢市立図書館郷土資料担当:青木氏によれば“横浜市在住の立島氏より高岩寺についての問い合わせがあった折「立島氏と大川氏は大川次郎兼任の子孫と伝わっている」とのことです。”と記している。(平成24年(2012年)2月4日大川忠秀の問い合わせによる回答文書)。
江戸時代の地理学者 小田島允武翁は、“大川城 海府郷府屋驛山中ニ在、城主大川三郎二郎大川駿府守”と記している。(小田島允武 越後野志下 源川公章校訂 歴史図書 1974 p312 国立国会図書館デジタルコレクション 169/271コマ)/温故乃栞には“岩船郡小泉荘府屋(出羽境の深山より流れ出る荒川雷川合し大川と云へ海に注ぐ處なるを以て往昔は大川の[駅|驛]と云り)山の古城跡は海岸に瀕し金ヶ浦山に續き一夫能防ぐ時?萬夫も進むに能はざる要害あり建仁中より土着の勇士大川某なるもの此所に住し佐々木家に随へ城家の征伐に尽力せしを以て其谷入を賜ふ後上杉家へ属し出羽口を守る天文七年五月當代三郎二郎義に依りて長尾為景尓隨へ越中國に發向し栴檀野に討死す其後丹後守重漣は謙信に仕へ忠臣の名あり天正年中主家遺跡爭への砌り景虎に加擔せしとの讒口に罹り春日山へ謀誘され景勝の面前にて自刃を賜ふ是より廢城となれり”とあり、要害のことや上杉氏との関わりを記している。(温古能栞拾五編 古城跡乃部 府屋の古城跡 温古談話會 明治24年(1897年)p.13 国立国会図書館デジタルコレクション 温古の栞11編 - 16編 88/103コマ/山形県の温海町史に “府屋には大川氏、立島には立島氏がおったが、両氏とも本庄氏や色部氏のように新米の地頭ではなく土着の古い豪族であった”とある。(温海町史上巻 温海町史編さん委員会 温海町 1978年 p69 国立国会図書館デジタルコレクションコマ番号 64/554)/立島氏・大川氏とは「色部文書」“越後国色部惣領秩父三郎長倫ながとも申す、瀬波郡(岩船)謀叛むほん人小泉左衛門二郎持永(村上市)・大河彦次郎将長(山北町府屋)・立島彦三郎実名を知らず(山北町立島)以下の輩のこと、勅命に任せ、且は守護御代官屋敷与一の催促により、長倫子息宝堂丸一族相共に、七月十二日持長城に押寄せ、かの党類等を誅落し訖おわんぬ。次に将長大河樺沢城に楯籠たてこもるの間、(以下略)”にある大川氏と立島氏のこと。(井上鋭夫編 色部資料集 新潟史学会 1968年 p20~21 22/171コマ 国立国会図書館デジタルコレクション)/永禄4年(1561年)川中島激戦で、“越後方では大川忠秀、志駄義時らが討ち死にした。”とある。 (新潟県史通史編中世 新潟県 p1986年p596)。府屋から春日山まで海岸線でも約200㎞。陸路となればそれ以上となる。春日山から川中島まで国道18号線でも80km。上杉家臣団としては最長距離の行軍となる。
早川 圭氏は“大川城跡は北端から南端まで全長約 1,000m にわたる規模”“軍事的緊張が高まった国境に、縄張り・防御施設が発達した城”とし、出羽と越後の“境目の城”(早川 圭 戦国城郭の多様性 境目の城」『季刊考古学 特集 戦国城郭の考古学』第 139 号 (株)雄山閣 20127年 p8)と位置付けている。
また、大川氏の経済基盤について田中圭一氏は“農業はもとより山熊田の砂金採取・大毎の金山活動”“製塩用の塩木生産”(田中圭一  中世の歴史地理 新潟県文化財調査年報 第9 岩船 新潟県教育委員会 1989年 p6)を上げている。
坂井英弥氏は“大川町は海岸部の山あいの地域のなかでは、比較的大きな川の河口にある。この地域にあっては比較的豊かな生産基盤があり、なおかつ経済的な要所。必然的な有力者がうまれるところであるし、その拠点が新たに築かれるとき、既に存在した中心的な集落を意識して選地した可能性は十分にある。”P163と記し、注には“大川の集落は城館が廃絶したのち、現代に至るまで、地域の中心集落としての町場を維持してきている、これらの集落は戦国期に城下集落として大きく発展し、その機能が後世まで維持された面も考えられるが、そもそも城館の存在がなくともこれらの集落が、成立する基盤を有していることを示している。”と記している。(坂井英弥 絵図に見る城館と町 中世の城と考古学 石井 進・萩原三雄 編 新人物往来社 1991 p163・167)/明治期の府屋村/府屋は現在、新潟県村上市府屋になっているが、明治政府が明治7年(1874)4月、各府県に村名等調査を5月30日まで提出するよう通達し、全国に村名をフリガナ付きで提出させた「全国村名小字調査書」に、「越後國別調 中 二十五第區 越後國岩船郡 第十小區 總四十一ヶ村の中に「府屋村」の名がある。
古代城柵・官衙/府屋の名が近年知られるようになったのは、日本書紀の斉明天皇 四年(658年)に“授都岐沙羅柵造闕名位二階、判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下”とある城柵が府屋にあったのではと言うことによる。このことは、2008年、新潟県・北海道・宮城県の公共機関が共同で発行した刊行物に、■城柵・官衙として新潟市沼垂付近の■は渟足柵・村上市岩船付近の■は磐舟柵、さらに新潟県側の村上市府屋(旧山北町)付近の■は都岐沙羅柵と理解できる提示がなされた結果、広く知れ渡るようになった。(古代北方世界に生きた人びと-交流と交易- | 新潟県立歴史博物館公式サイト (nbz.or.jp)都岐沙羅柵について山形県史には“断定の資料はないが、鼠ヶ関から山北町地内北部が適地。鼠ヶ関の湊津は評価”(山形県史 第1巻 山形県1982年p322)とし、鼠ヶ関は湊の機能面をあげ、柵は山北町北部が示されている。髙橋 崇氏は“新潟県・山形県境あたりか”(髙橋崇 蝦夷  中央公論社 1986年p87)とし、工藤雅樹氏は“この時期の日本海側の城柵は大きな川が海に注ぐところが一般的”“都岐沙羅柵の新潟県北部あるいは山形県庄内地方の河口付近” (工藤雅樹 蝦夷の古代史 平凡社新書 2001年 p91)と記し、渡辺育子氏もまた“山形県史の見解はおおむね妥当”(渡部育子 七・八世紀の庄内と秋田 国立歴史民俗博物館 研究報告 84集2002年 p43 rekihaku.ac.jp)と述べている。
具体的に府屋の地名が記されたのは、新野直吉氏の“都岐沙羅柵は勝木・府屋などの地も充分に柵的基地の所在地たり得る。”があり、(古代東北の開拓 塙書房 塙選書 1969年 p60) また、田中圭一氏の“府屋は古代における国府の機関が置かれたのではないか。この問題は私達が一度ならずして考えたことであった。”がある。(田中圭一 中世の歴史地理 新潟県文化財調査年報 第9 岩船 新潟県教育委員会 1989年 p10)府屋の名称/地理院地図(電子国土web)の検索によれば、「府屋」の地名は全国で一カ所しかない。
大漢和辞典に「府」は16通りの意味が示されている。その一つに「つかさ。官省。役所」がある。これらの意味を含む熟語として、府舎・府地・府庭などがあり、「府」は「役所」の意味として使われている。特に【府館】フクワン「役所のやかた」(p559上)がある。(諸橋徹次 大漢和辞典巻四 大修館書店 修訂第二版第五刷平成11年:1999年p558~561)/新編大言海には「ふ」の項に「府」があり、6通りの意味を記しているなかで、「官人ノ事務ヲ執ル所。ツカサ。役所。」があり、“倭名類聚抄、五四官名「府、近衛府、衛門府、太宰府、鎭守府」「國府」”(p1764下)と、その出典を示している。(新編大言海 故大槻文彦 大槻清彦 冨山書房 新編藩初版第二刷 昭和57年(1982))/大漢和辞典の「屋」は10通りの意味の中で、「や、いへ・すみか」がある。関連する熟語に、【屋形】 貴族の居宅をいふ。殿舎がある。(同書p150中)/新編大言海の「屋」は10通りの意味を示し、「や、いへ、すみか」がある。屋の熟語として「やかた屋形(p2090)があり、その意を「家處ノ義」と説明している。
家處について大漢和辞典では、家處(同書3巻p1026)を、「家居を見よ」とあり、【家居】には「住居をいふ」(同書3巻p1023)とある。
府屋の言語環境/府屋周辺はいわゆるズーズー弁。ズーズー弁は中舌母音で、イの段が2種の6母音ある。5母音はア・イ・ウ・エ・オ。だが、6母音はア・イ・イï・ウ・エ・オとなる。ピーナッツのピは5母音、6母音はピïーナッツと発音する。「いいじゃないか」は「いïいïじゃないか」と発音し、「い」が「リ」に聞こえる。加治工 真市は“中舌母音[ï]は、琉球諸方言と東北地方や出雲地方のズーズー弁などで認められる特徴的な母音。琉球諸方言では、奄美諸方言と宮古・八重山諸方言に認められる”と琉球地方も中舌母音と述べている。TVの地方中継でも高齢者に中舌母音が聞かれる。
昭和30年ごろまで、府屋周辺の中継や勝木の人達は「府屋」(ふや)を(ヒヤ)と発音した。現在でも高齢者は府屋沢を「ヒヤゾウ」という。そのほかにも「髭」(ひげ)を「フゲ」と発音した。生成AIは「ふ」と「ひ」が音の発音が似ているため混同されていたとしている。現在は混同がない。
大川の南、神明宮が位置する山と、戦国時代に大川氏が築城した山の間/に府屋沢がある。地元では「ヒヤゾウ」と呼ぶ。地理院地図電子webで「そう」・「ぞう」を検索すると、山形2:荒沢アラソウ・薬師沢ヤクシゾウ・新潟3:沢海ソウミ・小沢倉沢コゾウクラサワ・河沢コウゾウなど多くの個所がある(検索ではまだ多くの「そう」・「ぞう」がみられたが、ルビのないのは省略)沢をサワと言わずソウ・ゾウと呼ぶ範囲は熊本県から山形県にまで及ぶ。その地元に入れば、地図にはない多くのソウ・ゾウが予想される。ルビはないが、府屋付近では府屋沢:ヒヤゾウを始め、地図にないが大川水系の中継川・荒川塔下の、樺沢:カンバゾウ ・荒川口のワンゾウ・ 朴平の中面沢:ナカズゾウ・間の内川の桂沢:カツラゾウ・新津の蒲ヶ沢ガワソがある。沢をソウ・ゾウと言う人たちは広範囲にわたるが、その人たちはどこから来たのかはわからない。地理院地図検索の中で、府屋より北には見られない。

地形・地質 

全体の地形と藤懸り館周辺の地形/国土交通省の5万分のⅠ 都道府県土地分類基本調査地形分類図(新潟県 温海・勝木)1522L.jpg (3086×2134) (mlit.go.jp)によれば、府屋は南北約1000m、東西最大幅約600m、北の大川左岸から東・南山裾までの広さ約0.3㎢の三角状の海岸段丘の上にある。海岸段丘上には南北約800m、東西最大幅約300m、最大標高約18.7m(地理院地図計測)の被覆砂丘がある。砂丘はクリオネが北に向いているような形で、北端から約300m南附近に頂上があり、頂上から南約700mまでなだらかに続く。
大川右岸の山裾には河岸段丘Ⅲと旧河道(1)が見られ、その下に河岸段丘Ⅳと旧河道(2)が見て取れる。大川左岸には東側河岸段丘状の下に山裾に沿ったW型の旧河道(3)が見られる。図ではW型だけが示されているが、この旧河道(3)は南側山裾を通り西砂丘から北に折れたあと、クリオネの頭頂部付近から海に流れたものととらえることができる。また、左岸W型旧河道(3)付近の標高は約6m。この場所から渚までの距離は約680mある。渚から右岸河岸段丘Ⅲ下旧河道(2)までの680mの地点は標高6mあり、底辺が約350mの二等辺三角形になる。このことから、右岸旧河道と左岸W型旧河道は同一時期に、幅350mの間を左右自由に流れ河口に向ったことが見て取れる。
現在の大川左岸に、「中島通り」の名がつく場所がある。ここは砂丘西端と東側河岸段丘下の間に位置する。通りの長さは約50m、道の両側に家屋が建ち並ぶ。中島通りは「中島にできた通り」の意。大川が左右自由に流れていたときに、「中島は中州」と、県内大学の河川専門家は言う。現在の標高は約5m。西が砂丘と東は河岸段丘下でつながっており地名だけが残っている。中島通りを府屋沢が貫くその場所は、瀬波郡絵図に「欄干付きの橋」が描かれている。この頃からすでに中島の東西はつながっていたことになる。
社家で新潟県内尋常小学校・国民学校校長を務め1945年(昭和20年)に退職した増子久雄氏は“当地の神職増子家の記録によって知ることの出来るのは即ち府屋村神明宮は由緒に淳和天皇の御宇天長元(註824)甲辰大川草創地主藤原大夫なるも者伊勢神宮より勧請し一社を建立す(要約”)“而して当時の人は神明宮付近に居住したといはれている。”(p3~4)“今より五六百年以前は荒川山熊田小俣三筋の川合流して済々たる大川の流れ社前を流れしも其後村の北部に移れり。” と記している。(増子久雄 大川郷誌昭和45年(1970年)発行者 増子久雄 非売品p4:初版は1930年頃のガリ版刷り:原本不明か/ところで、“慶応4年(1868、9月明治改元)3月維新政府は祭政一致の方針にそって全国の神社・神官を神祇官の附属とし、神仏分離令を達し、神社の整備にはいり、明治3年1月、神道を国教とする方針を示した。この書上げはその過程での小諸城内大宮司小林主殿による書上げ。”と解説した「神社書上帳 写」の一文がある。(信州デジタルコモンズ (ro-da.jp)。増子久雄氏の大川郷誌にも「神社書上帳」が記載されている。それには、“明治二年十ニ月・明治三年十ニ月 両年提出の神社書上帳抜粋として“神明宮 越後国岩船郡府屋町鎮座」とあり、神名宮に合祀された6社が記載されている。末尾には“右者大政官御規則に付職大小の神社御取調の砌り村上社祠より御役所江書上に相成申し候 明治三年午十二””とある。
その後、明治16年新潟県令永山盛輝に報告した神明宮は、由緒に「天長元年、或云 天慶元年」とし、神官は岩船郡岩嵜村増子左右貢とある。岩船郡岩嵜村増子左右貢を神官とした報告書は他にもあり、氏子総代の筆跡が神官と同じものも多い。このことから由緒の「天慶元年」や「神官は増子左右貢」は、府屋の社家が書いたものでないことがわかる。しかし、明治初の誰が書いたのかはわからない。ちなみにこれらの多くは、赤筆で✖が入れられているものが多い。(神社明細帳 ( 現市町村名 ) 村上市 ( 旧市町村名 ) 朝日村・荒川町・山北 30-2整理番号1050 村社 神明宮 山北町府屋 村上市 新潟県立図書館/新潟県立文書館 越後佐渡デジタルライブラリー⦆/<検索手順:新潟県立図書館➡越後佐渡デジタルライブラリー➡結果の表示方法:画像有のチェックを外す➡下の明細帳をポチッ➡右の資料名に神社明細帳と入力して検索➡56の神社明細帳をポチッ➡内容一覧:整理番号1051・NO51の画像マークをポチッ><内容一覧にもどるには、画像右上の✖をポチッ>/大川の流れが変わったあと、社家は村人とともに中島通りに移り住み、現在に至っている。これらのことから「5~600年前、社前を流れていた大川の流れ」は「地形分類図のM型旧河道」と重なる。大川の流れが変わったのは人為的か自然かは分からない。しかし、1970年から5~600年前となれば、1370~1470年頃。大川城城築城の頃となる。工事は築城だけではなく家臣団の住まいも必要となる。その地割図は田中恵一氏の図に従えば、府屋沢を境に居館を囲む配置になっている。(田中恵一 山北中世の歴史地理新潟県文化財団年報 第9 岩船 新潟県教育委員会 1969年 p3)その結果、越後国瀬波郡絵図の府屋沢に掛けられた橋から東は内町:武家屋敷であり、橋の西は外町(とまち):庶民の町と区分けされている。
表層地質図/府屋南の山の左右中心線のようなところに府屋沢がある。府屋沢西の塊は、シルト岩・泥岩・凝灰岩。東の塊は、泥岩・砂岩・褐炭。東塊の北側に道路造成で削られたところからは、常に水が滴り落ちている。高岩寺(標高約8m)の上、現在村上市山北支所一帯(標高約15m)に水田があったと住職を住職は話す。小さな池でもあったという。大川河口近くには岩崎には玄武岩が伸びて、砂丘と玄武岩で川の出口を狭めている様子が見て取れる。

交通

JR東日本 羽越本線・府屋駅

参考文献

加治工真市「南琉球方言概説」『琉球の方言= 琉球の方言』第40巻、法政大学沖縄文化研究所、2016年3月、107-200頁、CRID 1390009224828583040、doi:10.15002/00013678、hdl:10114/13026、ISSN 1349-4090。 /「田中圭一 「中世の歴史地理」」『新潟県文化財調査年報』新潟県教育委員会〈第9〉、1969年、10頁。 NCID BN03050907。 /新野直吉『古代東北の開拓』塙書房〈塙選書〉、1969年。doi:10.11501/9568832。全国書誌番号:73001445。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9568832。

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