郵便番号 602-0881
住所 京都府 京都市 上京区 京都御苑
読み方 きょうとふ きょうとしかみぎょうく きょうとぎょえん
この地域の
公式HP
※「京都市」は、政令指定都市です。
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地方公共
団体コード
26102
最寄り駅
(基準:地域中心部)
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     …距離:256m(徒歩3分)
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     …距離:1km(徒歩12分)
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周辺の施設、
ランドマーク等
  • 丸太町駅(京都市営地下鉄)《駅(地下鉄)》
  • 京都御苑《花の名所》
  • 日本経済新聞京都支社《新聞社》
  • 日本キリスト教団室町教会《教会》
  • RAKURO KYOTO THE SHARE HOTELS《宿泊施設》
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  • ガスト京都丸太町店(から好し取扱店)《レストラン・食堂》
  • HOTEL KADO GOSHO-MINAMI KYOTO《ホテル》
  • hotel MONday京都丸太町《ホテル》
  • ノク京都《ホテル》
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  • ファミリーマート烏丸丸太町店《コンビニ》
  • 京都府 京都市 上京区 京都御苑」の読み方は「きょうとふ きょうとしかみぎょうく きょうとぎょえん」です。
  • 京都府 京都市 上京区 京都御苑」の郵便番号は「602-0881」です。
  • 京都府 京都市上京区」の地方公共団体コードは「26102」です。

「京都御苑」の概要 from Wikipedia

…(6,390文字)

京都御苑(きょうとぎょえん)は京都府京都市上京区にある環境省所管の国民公園。京都御所の周囲の緑地で旧公家町の一帯を指す。

概要

京都市の中心部に位置し、東西南北を寺町通・烏丸通・丸太町通・今出川通に区切られた区域。東西約700m、南北約1300mの範囲で、総面積は92ヘクタール。その内、環境省が管理する国民公園である京都御苑は65ヘクタール。江戸時代から遺る9ヶ所の外周御門と6ヶ所の切り通しを持つ。
明治の東京奠都の際、公家町として御所を囲んでいた公家屋敷の大半が引越し廃れてしまったため、その荒廃ぶりを悲しんだ明治天皇の命により緑化を行い住民憩いの場とした。約140あった宮家と公家の邸宅が撤去されて皇宮付属地として整備され、戦後、国民公園となった。
現在は京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館は内閣府が、それ以外は環境省が管理している。
多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所、皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所の他、一般社団法人国民公園協会が管理を行うグラウンドやテニスコートに各休憩所、資料館、レストラン、カフェ、土産店、大型駐車場などもあり、市民の憩いの場になっている。

歴史

京都御苑の歴史は明治時代に始まるが、御苑の中心をなす京都御所の禁裏としての歴史は平安時代の土御門内裏(東洞院土御門内裏)にまでさかのぼることができる。その後、歴代の天皇がここを御所としたのは、明徳3年(1392年)に南北朝が合一した際、土御門内裏が正式な御所として確認されて以降、明治に至るまで。この間の500数十年、建物は何度も火災で焼失するなど幾多の盛衰があり、特に室町時代から戦国時代にかけては見る影もなく荒れ果てた。
これらの修築、再建を始めたのは上洛してきた織田信長で、この時代に内裏はかなり大規模な建造が行われたよう。続く豊臣秀吉の時代には修造のみならず内裏周辺の整備にも力が入れられた。天正年間、秀吉は大規模な都市改造の一環として堂上公家をあまねく禁裏(御所)周辺に移住させた。ただし、近年の研究では公家の集住政策は織田信長から引き継いだもので京都の改造とは直接的な関係はないこと、新家の設立による土地不足や経済的な問題によって全ての堂上公家がこの地域に住めた訳ではなかったことも指摘されている。
このように、市内の町々に混在していた多くの公家屋敷が禁裏御所を中心に集められて公家町を形成し、江戸時代には御料など所領の策定がなされて、仙洞御所や女院御所など、殿舎が充実するに至ったが、現在の京都御苑と比べるとまだ随分と狭いものだった。その後、これら公家町の拡張整備のきっかけとなったのが京都の中心部を焼失させた宝永5年の大火(1708年)。この火災によって内裏をはじめとした諸御所や公家屋敷78軒のみならず、大名屋敷24軒のほか、禁裏役人の役屋敷などをことごとく焼失した。大火後の復興にあたり、丸太町通以北、烏丸通以東に食い込んでいた町家区域を立ち退かせて、その跡地を公卿らに分与し、現在の京都御苑の原型となるような区画が整えられた。ただし、四方の大通りに面して9つの門を配し、それらを石垣でつないで周囲に巡らせた、現在見られるような整然とした矩形に整備されるのは明治に入ってからになる。
明治になると明治天皇に従って多くの公家が東京へ移り、華族制度の発足と共に全ての華族の東京移住が義務付けられたことで、公家屋敷はもぬけの殻となり、京都御所周辺は急速に荒廃していった。この状況を憂慮した岩倉具視は、旧慣保存のためにもなることを理由に明治10年(1877年)、御所の保存を建議した。これを受けて京都府は御所を囲む火除け地を確保することを目的に、軒を連ねる旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を開始した。これが京都御苑の始まり。
当初は周囲の土塁と堀を整備するにとどまったが、その後も整備は徐々に進められ、明治16年(1883年)に御苑の管理が京都府から宮内省に移管され後も続けられた。大正天皇の大礼が京都御所で行われることになると整備は急進展を見せ、建礼門前大通に大規模な改修工事が施されてほぼ現在の姿になった。
戦後、宮内省が解体されると、昭和24年(1949年)には厚生省の管理運営のもと御苑は国民公園となった。
昭和34年(1959年)、新たに「京都御苑」の町名が設置された。市街地において屈指の広さをもつこの新しい住所(区画)によって一線を画された町は上京区で23町、中京区で14町にのぼる。
昭和46年(1971年)に各省庁で環境や公害に関係する部署を統合して環境庁が創設されることになると、厚生省の大臣官房国立公園部も環境庁に移ることになり、これに伴い御苑も同庁の所轄となった。これが環境省に引き継がれて今日に至っている。

隣接する二つの神社

京都御苑に隣接して西に護王神社、東に梨木神社が鎮座している。護王神社には平安京最初の天皇である桓武天皇の忠臣和気清麻呂、梨木神社には幕末期の京都で過ごした最後の帝である孝明天皇の重臣三条実万がそれぞれ祭神として祀られており、いずれも京都御苑の保存が決まったのちの明治18、9年に至って、現社地に遷座あるいは建立されたもの。御所の保存に尽力した岩倉具視は、自身の最晩年には、御苑内の旧仙洞御所跡に桓武天皇を祀る平安神宮を建立する考えを持っていたとされ、岩倉の没後も宮内省の官辺はこの構想の下、平安神宮に近侍する形で二つの神社を建立する発想があったものと思われる。結果的に平安神宮はより広い敷地が確保できた岡崎の地に建立され(明治28年)、梨木・護王の両神社が御苑の東西に残った。大正4年(1915年)、両神社は京都御所において執り行われた「大正天皇即位の礼」の祝賀の一環としてそれぞれ祭神を一柱加えた(梨木:三条実美、護王:和気広虫)。一方、桓武天皇と孝明天皇を祭神に祀る平安神宮は、毎年の例祭において二基の神輿(鳳輦)を岡崎から京都御所の建礼門まで神幸させて、祭典を執り行っている(参照時代祭)。

中山邸跡

中山邸跡 - 嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産んだ中山家の産屋と明治天皇の幼少時代の名前「祐宮」にちなんだ井戸「祐井」(さちのい)が現在も遺構として残っている。

桂宮邸跡

桂宮邸跡- 邸宅の築地塀と表門と勅使門が現存している。明治期まであった御殿跡地の一部が2022年5月20日に公開された。御殿跡地には間取りが復元されている。

外周御門と蛤御門

9ヶ所に建つ江戸時代から遺る公家町からの京都御苑の外周御門・「高麗門」( 堺町御門、下立売御門、蛤御門、中立売御門、乾御門、今出川御門、石薬師御門、清和院御門、寺町御門の9門全て現存)と京都御苑を囲む石垣が往時の公家町の広さが偲ばれる。
上記の蛤御門は、元々「新在家御門」といい、開かずの扉であったが、1788年の天明の大火の際に初めて開門された。この為、「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門と呼ばれるようになった。
また、1864年(元治元年)に尊王攘夷派(長州藩)と徳川幕府(会津藩)の戦いである蛤御門の変(禁門の変)が勃発した。現在でもこの戦いの傷跡である銃弾の痕がこの高麗門に残されている。

建造物・遺構

御所・京都仙洞御所および京都大宮御所以外にも、京都御苑には公家の邸宅をはじめとする遺構が数多く残されている。9ヶ所の京都御苑外周門の他に宮家のものとしては南西部に閑院宮家の邸宅が保存されている。北部には桂宮邸跡の邸宅の築地塀と表門と勅使門が残る(内部の建物群は二条城の本丸に移築保存されている)。

閑院宮邸跡収納展示館

閑院宮載仁親王が明治10年(1877年)に東京に移住するまでの邸宅であるとされているが、現在の建物との関連性は詳しく分かっていない。明治16年(1883年)5月に閑院宮邸内に宮内省京都市庁舎の建設がはじめられ、同年12月には現在の形態に近いものが完成した。その後、所管を宮内省から厚生省、環境省と移しながら現在に至る。
建物は、中央の中庭を四つの棟で囲む平面構成となっている。東棟は正面入母屋造千鳥破風の車寄せ玄関がある。南棟は資料展示室・収蔵室になり、南側全体に庇を付けた大きな瓦屋葺きの反り屋根を持つ。西棟はレクチャーホールで北棟が事務棟となっている。小規模での修繕が繰り返されてきたが、建物全体の破損や狂いが大きくなってきたため、平成15年(2003年)に全体の修復整備を行うこととなった。外観は建設当時の状態の保存をはかりつつ、後補の不必要な部分や内部の模様替え部分を撤去・整備する方針で行われた。平成18年(2006年)3月に完成し、現在の姿となった。
京都御苑の自然や歴史を学ぶことのできる収納展示室があり、庭園を見ることもできる。

猿ヶ辻

京都御所の東北角、御所の鬼門にあたるところに御幣を担ぐ山王権現日吉社の猿が浮き彫りにされている。また、角が直角ではなく一部をへこませている。文久3年(1863年)、尊攘派の公家・姉小路公知が暗殺された場所でもある(朔平門外の変)。

その他の遺構

上記の建造物以外には以下のようなものがある。
賀陽宮・西園寺・鷹司・有栖川・土御門・近衛・一條などの各公家邸宅跡。
白雲神社- 西園寺家の邸宅跡の横にあり、宗像三女神の一柱、市杵島姫命を祀る。
宗像神社 - 公家(花山院家)の邸宅内にあった鎮守社で、筑紫の宗像大社から勧請されたと伝わる。
縣井・県井(あがたい) -京都御苑の北西に位置し五摂家のひとつ、一条家の邸宅跡に遺る井戸。 宮内庁京都事務所の西側に位置している。明治天皇の皇后となった一条美子(はるこ:昭憲皇太后)のうぶ湯に用いられたと伝えられており、古くから名水とされてきた。 併記して、地方官吏に任命されたいと願う人々は、この井戸で身を清めてから社に祈願し、宮中に参内したと伝わる。
厳島神社 - 五摂家の一つである九条家の鎮守社で、安芸宮島の厳島神社から勧請されたと伝わる。同じく旧九条家の遺構・茶室「拾翠亭」が隣に残る。また、九条家の庭園にある大池は九条池と呼ばれ、池を囲む庭園は保存されており、かつての摂家であった最高位の公家の生活を今に偲ぶことができる。
二条御所(二条古城)石垣 - 足利将軍の「花の御所」と呼ばれた往時から城の僅か石垣が遺り復元され当御苑内「京都御苑」及び「元離宮二条城」に両設し遺構を伝えている。
出水の小川/元は女院の御所で、のちに嘉陽宮家が一部を使用していた邸宅の庭園の遺構が残り、曲水の宴を催すことができたであろう小川がある。
学習院跡 - 幕末の京都に公家の教育機関として設けられた「京都学習院」の跡。京都御所の東側にある建春門近くに「学習院跡」の石碑と案内板がある。
近衛家跡 - 江戸時代に近衛家は、烏丸今出川の京都御苑内にあった。その場所は、同志社大学今出川キャンパスの向かいに位置する。築地塀や建物はないが、池を囲む庭園は保存されており、九条家址の九条池に対し近衛池とよばれている。池の周囲には、有名なしだれ桜である「近衛桜」があり、御花見シーズンには市民でにぎわう。

自然

京都御苑内には500種以上の植物がある。苑内には約5万本の樹木が生育しており、多くは明治以降に植栽されたもの。マツ、ケヤキ、シイ・カシ類、イチョウなどのほか、ウメ、モモ、サクラ、サルスベリなどの花の咲く木も多く、これら多彩な樹々が御苑の風格と四季の彩りをなしている。また、スミレ、タンポポどの草花やキノコ類も多く見られる。キノコ類は400種以上が確認されており、一年を通じて観察できる。
苑内には動物も多く見られる。野鳥の観測地として知られ、100種以上の野鳥が確認され、そのうち約20種は苑内で繁殖されている。代表的な鳥としてはアオバト、ビンズイ、トラツグミ、ゴイサギなどがあげられる。昆虫類も多く見られ、チョウ類55種、トンボ類26種、セミ類8種などが確認できる。
苑内には、自然に親しむ場所として「母と子の森」「トンボ池」「出水の小川」などが整備されているほか、「母と子の森」内の「森の文庫」では植物や生物など自然についての本が置かれたり、閑院宮邸跡の収納展示室で自然や歴史について解説とともに学ぶこともできる。
仙洞御所の池には魚類が生息している。ハゼ類の研究者として知られる上皇明仁は、ここで採取したヨシノボリの遺伝子解析により、ビワヨシノボリとシマヒレヨシノボリの交雑種であることを明らかにした論文を2019年発表した。
こうした環境が京都市内の中心部にあることで、散策や花見のほか、バードウォッチングや自然観察会などに多くの人が訪れる場となっている。

催事

葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。催事は京都御苑の建礼門前大通りから出発地点となる。
時代祭(じだいまつり)は、平安神宮の例大祭(10月22日)に附属する年中行事。神宮創建と平安遷都を祝して明治時代より始められた京都三大祭りの一つ。催事は京都御苑の建礼門前大通りから出発地点となる。

その他

京都の住民は、京都御苑の区域を指して単に「御所」と呼ぶことが多い。
公園内ではのんびりと散歩を楽しむ人やバードウォッチングをする人もいる。御苑の北隣には同志社大学と同志社女子大学(両校とも今出川キャンパス)があるため、ベンチで寝転ぶ学生の姿をよく見かける。また、住民の通り抜けルートにもなっているが、通路部分は舗装されておらず、砂利が敷き詰められているため自転車では走りづらい。しかし、自転車の走行跡が砂利道にできて走りやすくなっている部分もある。この走行跡は御所の細道と呼ばれることがある。ただし、走行跡は自転車一台分の幅しかないため、対向車が来た場合は譲り合う光景が見られる。
公園内は京都府警や皇宮警察が常に見回りをしていて、京都御所や仙洞御所の塀に近づくとセンサーが反応し、すぐに注意される。
公園内への放置自転車が、2010年代に入って目立つようになっている。主に、近隣の京都市営地下鉄丸太町駅の利用者が停めているものと見られている。地元住民からは、公園の美観を損なうなどとして撤去を求める声が強いが、公園内は京都市の撤去条例の対象外となっており、公園管理者である環境省などは対応に苦慮していたが、中立売休憩所付近に駐輪場が設けられた。

アクセス

京都市営バス/京都市営地下鉄烏丸線 : 丸太町駅、今出川駅/京阪鴨東線 : 出町柳駅、神宮丸太町駅

参考文献

環境省京都御苑管理事務所編 国民公園協会京都御苑編『国民公園京都御苑 自然と歴史』環境省京都御苑管理事務所、2006/尼崎博正、旧九条邸園池の変遷、瓜生:『京都芸術短期大学紀要』、1983、pp. 1 – 17

関連項目

元離宮二条城本丸御殿 - 御所北東部にあった桂宮邸跡の旧桂宮御殿を移築したもの(重要文化財)

外部リンク

京都御苑-環境省/京都御苑 | 一般財団法人国民公園協会/京都御苑 広報 (@kyotogyoen_info) - Instagram/京都御苑 広報 (@gyoen_info) - X(旧Twitter)

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