「大阪府 大阪市 中央区 南船場」について
郵便番号 | 〒542-0081 |
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住所 | 大阪府 大阪市 中央区 南船場 |
読み方 | おおさかふ おおさかしちゅうおうく みなみせんば |
この地域の 公式HP |
※「大阪市」は、政令指定都市です。
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地図 | |
地方公共 団体コード |
27128 |
最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「大阪府 大阪市 中央区 南船場」の読み方は「おおさかふ おおさかしちゅうおうく みなみせんば」です。
- 「大阪府 大阪市 中央区 南船場」の郵便番号は「〒542-0081」です。
- 「大阪府 大阪市中央区」の地方公共団体コードは「27128」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「南船場」の概要 from Wikipedia
南船場(みなみせんば)は、大阪府大阪市中央区の町名および地域名。現行行政地名は南船場一丁目から南船場四丁目。
地理
現行住居表示の南船場は1丁目から4丁目まであり、東横堀川から堺筋までが1丁目、三休橋筋までが2丁目、御堂筋までが3丁目、西横堀川(現在は埋立。阪神高速1号環状線北行き)までが4丁目となる。
4丁目が高感度なショッピングエリアとなっており、ファッション誌などで「南船場」と紹介される場合は通常4丁目を指す。元々は繊維問屋街として発展したが、産業構造の変化で衰退しつつあった1990年代前半、オーガニックビルなどいくつかの新しい建築が話題を集め、デザイナーなどが集まり出した。1990年代後半より4丁目には心斎橋やアメリカ村などから店舗が移転、さらに20歳代後半以上向けの高級衣料店やカフェ、レストランが次第に集まり始め、高感度な地区として認識されるようになった。さらに御堂筋や長堀通沿いに海外の高級ブランドの路面店が集まり、南船場はその地位を確立した。
2000年前後に若者向け商業地区となった点で、堀江などと共通する点はあるが、堀江が当初東京のセレクトショップなど大阪外部の店舗が集まったのに対し、南船場は大阪の地元資本による衣料やカフェなどの出店が目立つこと、また堀江にはない高級ブランド店の存在など、堀江に比べて客層の年齢がやや高いことが挙げられる。
心斎橋筋が縦断する3丁目は、心斎橋筋北商店街、丼池筋商店街のように旧来の格安の衣料店や衣料問屋などが主体であるが、御堂筋や長堀通に面して高級ブランド店が立ち並び、レストランやギャラリーなども増えつつある。2丁目・1丁目は、目覚ましく発展した4丁目・3丁目に続く発展エリアとして注目され、カフェやプライベート施設が隠れるように多数存在している。河川
東横堀川
歴史
本来の南船場は、船場のうち本町通以南(本町を含む)を指す。江戸時代の大坂三郷では南組に属した。
明治に入り三郷から四大組に改編された際、船場は当初全て東大組に属したが、1870年(明治3年)に順慶町通以南(初瀬町・浄国寺町・順慶町5 - 1丁目を含む)の所属が南大組に変更された。以降は南区時代を通じて境界変更はなく、1982年(昭和57年)に南区が「南船場」の住居表示を実施したこともあって、近現代では順慶町通以南を指す場合が多い。
順慶町通以南の南船場では、1872年(明治5年)に以下の町名に改編された。
順慶町通4 - 1丁目 ← 初瀬町・浄国寺町・順慶町5 - 1丁目/安堂寺橋通4 - 1丁目 ← 北勘四郎町・安堂寺町5 - 1丁目/この安堂寺町は、1982年(昭和57年)に上町側(東横堀川以東)の内安堂寺町通が改称した現行町名の安堂寺町とは異なる。
塩町通4 - 1丁目 ← 南勘四郎町・車町・塩町4 - 1丁目/末吉橋通4 - 1丁目 ← 長堀平右衛門町(西横堀川以東かつ長堀川以北)・長堀10丁目(長堀川以北)・長堀心斎町(同左)・長堀次郎兵衛町(同左)・長堀橋本町/横堀7丁目 ← 五幸町/1982年(昭和57年)に南船場の町名に改称されたのちも、各通りの名称として使用されており、末吉橋通は現在は埋め立てられた長堀川跡まで拡幅されて長堀通となっている。順慶町
順慶町通は筒井順慶の屋敷があったことに由来し、江戸時代には新町遊廓へ至る新町橋が架けられ夜市で賑わった。『摂津名所図会大成』巻之十三には「当所の夕市は浪花の一奇観として四時とも絶ゆることなし黄昏時より内店出舗万燈をてらし己が種々に品を飾りてこれを商ふ」と記されている。心斎橋の賑わいもこの順慶町の夜店と関係をもっていたもので、江戸時代の心斎橋筋の中心はこの心斎橋筋と順慶町との交叉する辺りであった。
安堂寺町
安堂寺町の称は安曇(あずみ)寺の訛伝であるといわれている。太古はこの辺りは長汀曲浦の地で安曇江(あずみえ)と称した。安堂寺町通には金物屋が古くより多かった。釘やはりがねやその他多くの金物商が集まっていた。心斎橋筋の安堂寺町には売薬屋の浮田桂造五龍円があった。
大阪市中央公会堂を建てた岩本栄之助は安堂寺橋通2丁目(109番屋敷)で生まれ、帝塚山学院高等女学校を開校した山本藤助は安堂寺橋通1丁目10番地に住んでいた。塩町
塩町通には砂糖問屋が多く、1925年(大正14年)には大阪砂糖取引所が設置された。
塩町通3丁目の内である旧車町にはかつて御堂があり、弘法大師の作という薬師仏を祀って難波薬師または蘆間薬師と呼んだ。蘆間池のあった所であるが、堂は他に移り池は明治7年(1874年)に埋められた。池は一名丼池といったとも伝える。蘆間池は古歌にも見えている勝区であり、芦池小学校の名もこれに由来する。
この辺りは割合に静な所で、船場とはいいながら、忙しいことそれ自体を生命とするような問屋の町ではなかった。
他、大阪音楽大学を創立した永井幸次は当町で音楽学校を開いていた。末吉橋通
平野郷町の豪商末吉孫左衛門は御朱印船貿易や銀座頭役として活躍した家柄。末吉橋西詰角屋敷がその旧邸で、末吉孫左衛門町の名はそれに由来した。末吉橋は孫左衛門が在邸中通行人の便をはかって架設したもの。元は孫左衛門橋と呼んだが、後に末吉橋と呼ぶようになった。
末吉橋西詰より鰻谷東の町に通ずる長堀川に架している安綿橋は総年寄の安井九兵衛と綿屋某が道路の便のために架けたものという。心斎橋
心斎橋は江戸時代初期に山城伏見の岡田心斎が、長堀川が掘られた時に架けたと伝えるが確かではない。これは、元来「心斎町」に由来するのではないかといわれる。
安永9年(1780年)、大阪市中の町橋135橋を大きさによって6級に分類したときには、心斎橋は第3級として、317橋の中にあげられていた。しかし、なんといっても心斎橋筋という繁華街に架かっているため、著しく著名な橋になってきた。なお、心斎町というのは長堀心斎町と江戸時代にはいったもので、これは後の心斎橋筋とは異なる。長堀の北側と南側の心斎橋と三休橋の間、つまり鰻谷の浜側と北側の長堀橋通の中この北と南の二カ町が心斎町。
明治5年(1872年)、心斎橋は新たに市内最初の吊鉄橋として架かった。この鉄橋は名所絵の好題材となった。明治42年(1909年)には現在の石橋に架けかえられ、大阪最初の石造橋として喧伝された。新しい心斎橋には瓦斯灯がついており、気品のある瓦斯の灯が水におち、華美な広告燈の裡に超然とした気品を示していた。世帯数と人口
2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通り。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
事業所
2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通り。
施設
心斎橋筋商店街/クリスタ長堀/大阪観光局/浜崎健立現代美術館
史跡
橋本宗吉絲漢堂跡/大阪書籍館跡/渥美高等家政女学校跡
鉄道
心斎橋駅(Osaka Metro 長堀鶴見緑地線・御堂筋線)/長堀橋駅(Osaka Metro 長堀鶴見緑地線・堺筋線)
道路
高速道路/阪神高速1号環状線/国道/国道25号(御堂筋)/国道308号(長堀通)/主要地方道/大阪府道102号恵美須南森町線(堺筋)/三休橋筋
日本郵便
〒542-0081(集配局:大阪南郵便局)
関連項目
船場 (大阪市)/心斎橋/御堂筋/堀江 (大阪市)/大阪写真会館
参考文献
宮本又次『船場』ミネルヴァ書房(風土記大阪第1集)1960年
外部リンク
中央区/浪花名所図会 順慶町夜見世之図広重