「神奈川県 座間市 広野台」について
| 郵便番号 | 〒252-0012 |
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| 住所 | 神奈川県 座間市 広野台 |
| 読み方 | かながわけん ざまし ひろのだい |
| この地域の 公式HP |
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| 地図 | |
| 地方公共 団体コード |
14216 |
| 最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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| 周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「神奈川県 座間市 広野台」の読み方は「かながわけん ざまし ひろのだい」です。
- 「神奈川県 座間市 広野台」の郵便番号は「〒252-0012」です。
- 「神奈川県 座間市」の地方公共団体コードは「14216」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「広野台」の概要 from Wikipedia
広野台(ひろのだい)は、神奈川県座間市の町丁。現行行政地名は広野台一丁目から広野台二丁目。住居表示実施済み区域。
地理
神奈川県座間市の北部に位置し、一丁目北西部に1927年4月1日、小田急小田原線が開通、運行しているが最寄り駅はない。小田急相模原駅と相武台前駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩20分未満。
概略
旧地籍は、広野台一丁目が大字座間字元広野・元広野窪・南広野の行政道路以南、広野台二丁目が大字座間字元広野・南広野の鶴間街道以南、大字座間入谷飛地。
歴史
広野(ひろの)と呼ばれたこの地域は、芝原(しばあら)の一部で相模が丘同様、関東ローム層と言う火山灰土の不毛な土壌、その上、地下の水脈が約25mと深く農地に適さないので原野のままになっており、キツネやウサギが住み着く徳川将軍の鷹狩の一部に過ぎなかった。この原野には屋根を葺く萱、燃料になる雑木や葉、牛馬の飼料となる雑草、農作物の堆肥となる雑草や落葉が豊富なので、江戸時代元禄年間には芝原一帯が座間野の区域になり、座間宿村・座間入谷村の入会地とされた。江戸末期になって開墾が始まり、台地で平坦な相模が丘や小松原、相模原市南区相模台・新磯野、そして広野台一丁目・二丁目の元広野や二丁目の座間入谷飛地は広い面積の畑となったが、同じ広野台一丁目の元広野窪は目久尻川が流れ窪地・谷・崖・坂が多く畑になった面積は他の区域より小さかった。
戦前・戦中・戦後にかけて、幸い広野台・相模が丘・小松原は軍用地の接収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた。
終戦直後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ。その政策に基づき農業集落として広野台一丁目は緑ケ丘の一部とともに「相武台」に、二丁目は「小松原」に組み込まれた。
1950年代まで、広野台二丁目南部座間入谷飛地は座間入谷の人々が、一丁目・二丁目の元広野や元広野窪は座間の人々が各本村から毎日通いで耕作した。不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので主に桑園として利用され、大麦・小麦・甘藷・陸稲・大根なども作られた/古くから、厚木から武蔵国国府が置かれていた府中に通じる府中道(行幸道路)、大山道と神奈川往還(国道16号旧道)が交差する下鶴間宿へ通ずる鶴間街道、遠くは日本橋へ通ずる江戸街道、これらの街道が通っていたが、小田急相模原駅周辺の中和田新開や隣接する小松原新開のように移住して開拓する者はなく、専ら芝原台上耕作地への通過往来の地にすぎず、往古から集落は形成されなかった。
1957年から座間町は企業誘致を行い、1960年頃から工場が進出、荒地・耕作放棄地・畑・雑木林が混在した状態が1970年代はじめ頃まで続いた。
1955年に町営水道が給水開始。翌年には行幸道路沿い元広野窪上小池坂にキャンプ座間在勤者専用住宅「座間コート(Zama Court)」が竣工、広野台に初めて住戸が完成し人が住み始めた。ダイエー相武台店になっている位置には、座間町の企業誘致により1961年、無線通信機の工場が進出。その後、工場は移転。跡地は1960年代後半のボウリングブーム到来により、1970年に相武台ボールダイヤモンドレーン(通称・相武台ボウル)が開店。しかし第一次オイルショックやレジャーが多様化しボウリングブームは数年で終焉し役目を終え、その後1975年9月21日、スーパーマーケット忠実屋相武台店開店→1980年12月にディスカウントストア・サンエム1号店の相武台店が開店した。
1962年4月1日に創立し座間中学校体育館に間借りしていた座間第三小学校(座間市立相模野小学校)が、同年11月19日元広野の現在地に本館完成し移転、全児童入校式を挙行。11月25日には竣工式と第1回大運動会を開催し、同日を開校記念日とした。1966年4月4日には座間第三小学校近くの座間街道に、児童が安全に登下校できるよう座間町内初の歩道橋である相武台歩道橋が竣工。座間第三小学校は、小田急相模原駅周辺の座間市域である相模台地区、相武台地区の学童を持つ父兄と自治会の新校設立陳情から開校まで4年の歳月を要した。それまで児童は、座間第一小学校まで相模台から片道4.7キロ、相武台から片道2.3キロの道のりを徒歩で通学していた。
1961年、近隣の相模原市新磯野にて神奈川県住宅供給公社が相武台団地建設予定地の土地買収開始、翌年用地造成工事が開始。同じ頃、行幸道路と座間街道が接続する周辺に住戸が点在・散在しはじめる。
1969年3月31日、神奈川県と座間市主体【都市計画道路 3・3・2 号 広野大塚線】新設の都市計画が決定。1960年代に入り、広野台二丁目旧元広野に日産自動車座間工場進出、隣接する相模が丘や、近隣の旧新磯野であった相武台団地・相模原市南区相模台、そして大和市中央林間西が急速に発展していくなかで、広野台一丁目とりわけ旧元広野窪の小田急線南側が他の地域より開発開始・宅地市街地化が著しく遅く停滞した。地形・交通不便が理由であるとともに、上記の区域が新設道路起点になったことも起因している。未着手だが2024年12月13日現在もこの都市計画は存続中。
1974年11月1日、座間市は当該地域の各大字小字を統合し広野台1丁目・2丁目を新設*広野台が大字、1丁目・2丁目が小字の字丁目方式。
1999年9月13日には住居表示を実施、大字広野台を町丁に改編し広野台一丁目・広野台二丁目となる。年表
江戸時代/元和年間 - 領主内藤清成は、慶長8年(1603年)、八王子往還を発展させるため、この道筋に内藤家菩提寺宗仲寺を建立し、徳川家康と親しい源栄上人を初代住職に招聘した。慶長13年(1608年)に清成が亡くなったため、その子内藤清次が父清成の遺志を継ぎ、八王子往還付近の開発を更に進展するため、元和年間(1615年~1624年)のはじめに、当時の座間村周辺の集落(長宿・星の谷・皆原・羽根沢など)から農民を移住させ、座間新宿を設けようとした。慶安の頃に至って整備が成ったことから座間村から座間新宿を分村する気運が生まれた。
正保4年(1647年) - 相模野を草刈場として利用していた座間村と両・鶴間村(下鶴間村・上鶴間村中和田分)の間で境界をめぐる争い『夏草騒動』起きる。
寛文2年(1662年) - 領主久世廣之大和守の検地の際から、高座郡座間村は座間新宿の地域を分村し座間宿村と座間入谷村が起立。
元禄4年(1691年) - 座間入谷村の村民が、「7ヶ村(座間5ヶ村以外新戸村・磯部村)入会地秣場(新戸・磯部分の区域である現・相模原市南区相武台辺り)」の夏草と冬の「萱」を新戸・磯部2ヶ村の了解なしに刈り取ったことから、座間入谷村対新戸村と磯部村が結束し出入となった。この件について座間4ヶ村の名主や中和田村・谷口村の名主が仲人になって示談にしようとしたが調停不成立で、新戸・磯部両村は老中に訴え裁判となった。翌、元禄5年に老中の申し渡しがあり、座間入谷村名主は始末書を取られ名主他組頭は総辞職した。座間5ヶ村のうち1ヶ村役人の総辞職は後にも先にもこの一件だけ。
元禄12年(1699年) - 幕府は「夏草騒動」の教訓を生かし、元禄年間はじめに相模野を10の区画に分け、区画毎に近隣の村々の共同使用として、正式に入会野の権利を認めることにした。座間地域が所有する芝原(しばあら)が座間野と呼ばれるようになったのはこの頃からで、各区画には、野元(管理権)と呼ばれる入会野を管轄する村を設け入会野の運営に当たらせた。この座間野で、野元の座間宿村・座間入谷村に対し、新戸村・磯部村が「冬草刈」をめぐり訴訟を起こした事件『冬草騒動』起きる。幕府は新戸村・磯部村の訴えを却下する裁定を下した。
享保11年(1726年)11月 - 武蔵国小山村の伝七と与惣左ヱ門という者が座間野を開墾して新たに畑を開きたいと願い出たので、代官日野小左衛門が座間野の検分をし、宿泊所の下溝村名主藤助宅に座間野に関係する各村の代表を集め、意見を聴取したところ、開墾反対の意見であったので開墾は中止されたが、代官日野は座間野(面積400町歩・約400ヘクタール)の検地を行い関係の各村に分割することにした。
嘉永6年(1853年) - 芝原の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し、座間宿村・座間入谷村の各戸に、平等に分割され畑とされ耕作が始まった。不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので桑園として利用されていた。
明治/1868年 - 高座郡座間村、座間入谷村・栗原村・新田宿村・四ツ谷村・新戸村飛地、神奈川府を経て神奈川県に所属。この年、「小池窪」(現・座間市相武台二丁目)東方に広がる台地で辰街道までの「広野」と呼ばれた地域に「北広野」「中広野」「南広野」(以上相模が丘一丁目~四丁目)、「元広野窪」(広野台一丁目)「元広野」(広野台一丁目・二丁目)以上の小字名が付けられ、座間村の管轄になる。
1877年 - 中和田新開(小田急相模原駅北口一帯)の開拓が始まる。
1880年 - 中和田新開に開拓者が移住。
1894年 - 座間中宿出身者1人が、中和田新開の座間村域北広野に居を構え入植に加わる。
1889年4月1日 - 町村制施行により、この地は高座郡座間村大字座間字元広野・元広野窪・南広野の一部、大字座間入谷飛地となる。
1899年 - 座間入谷皆原出身者2名が通いで、飛地小松原の開拓を始める。
1905年 - 小松原に開拓者2名が移住。
昭和(戦前・戦中)/1927年4月1日 - 小田原急行鉄道小田原線開通。座間駅(現・相武台前駅)開業。
1937年/6月1日 - 座間駅が士官学校前駅と改称。
9月30日 - 東京府東京市牛込区市ヶ谷台より陸軍士官学校が座間に移転完了。 /12月20日 - 陸軍士官学校の卒業式昭和天皇行幸につき府中道が改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成(未完の士官学校正門~座間上宿ほか全面完成は1938年11月)。
12月20日 - 座間村が町制施行し高座郡座間町となった。人口6,555人。
1938年6月1日 - 小田原急行鉄道がバス事業営業開始。士官学校前駅(相武台前駅)⇔江戸街道 ⇔小池窪⇔鶴間街道⇔南林間都市駅(南林間駅)間・士官学校前駅(相武台前駅)⇔陸士正門前。
1939年/11月28日 - 士官学校前駅踏切前起点(高座郡座間町座間字大坂台4515番地) ⇔ 江戸街道 ⇔ 小池窪 ⇔ 鶴間街道 ⇔ 下鶴間(旧国道16号・高座郡大和村下鶴間字乙三号2137番地)の道路、県道座間下鶴間線と認定される(路線認定告示で用いられる整理番号142)。
12月22日 - 八カ町村で「相模原軍都建設連絡委員会」結成。第1回総会は神奈川県庁3階の第2会議室で開かれた。『相模原市史第4巻』p633●軍都計画と八か町村の合併。
1941年/1月1日 - 士官学校前駅が相武台前駅と改称。
3月1日 - 小田原急行鉄道が小田急電鉄と改称。
4月29日 - この当時、人口8,072人の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口4万8,482人の高座郡相模原町が成立。座間町の区域は相模原町の一部となる。
昭和(戦後)/1945年/8月15日 - 終戦。正午、玉音放送。
9月2日 - 日本国政府が降伏文書に調印、大東亜戦争・第二次世界大戦終結(日本の降伏)。連合国軍占領下により日本国の主権が停止。
9月5日 - 日本国政府の降伏文書調印に基づき、陸軍士官学校が米軍に接収されキャンプ座間となる。
1946年月日不詳 - 米軍の軍用道路として相武台新道工事着工。
1953年/10月 - 【相武橋(そうぶばし)】(相武台跨線橋)完成。
12月 - 山王原跨線橋完成。相武台新道全面開通。
1954年/10月15日 - 県道座間下鶴間線廃止、神奈川県から高座郡座間町へ移管。
10月26日 - 相武台新道が県道に認定され神奈川県道50号座間大和線となる(起点:座間町座間字元広野窪5170番地⇔終点:大和町下鶴間字乙三号2137番地)。
1948年9月1日 - 旧座間町域(座間市域)が相模原町から分離独立し、高座郡座間町が再置される。人口12,032人。
1952年4月28日 - 日本国主権回復/1955年1月1日 - 座間町営水道給水開始。
1957年1月 - 「座間町工場誘致の奨励措置に関する条例」制定。座間町が企業誘致を開始。
1959年4月20日 - 行政道路(神奈川県道50号座間大和線)以北を大字相模台として設置。
1962年4月1日 - 高座郡座間町立座間第三小学校創立(座間中学校体育館内に併設開校)。
11月19日 - 本館完成により、高座郡座間町座間字元広野5054番地の現在地に移転、新校舎に全児童入校式。
11月25日 - 校舎竣工式、第1回大運動会開催、開校記念日とする。
1963年7月 - 日産自動車、地元地権者と用地約15万坪売買契約締結。
1964年1月 - 農林省の転用認可交付される。
1964年3月12日 - 会社側で地鎮祭執行。
1964年4月20日 - 起工式。
1964年12月 - 高座郡座間町座間字元広野5000番地に日産自動車座間工場が一部完成・操業開始。
1965年4月12日 - 日産自動車座間工場よりオフライン1号車、座間町役場に記念贈呈。車名は「ニッサン・ジュニア」2トン積・小型ダンプカー。
1965年5月26日 - 日産自動車座間工場竣工式。
1965年5月30日 - 座間電報電話局管内の電話、全国ダイヤル自動即時化。市外局番0462・市内局番51。
1966年4月4日 - 相武台歩道橋竣工。
※座間町内初の歩道橋/1967年/4月5日 - 『座間広報』第104号 昭和42年4月5日発行p4に勤労者積立分譲住宅の募集「相武台団地」記事記載。
7月22日 - 座間町立広野プール開設。
1968年/6月1日 - 大字座間字元広野5052番地2に大和警察署相模台駐在所(座間警察署相模が丘交番)開設。
7月1日 - 町内の郵便番号が付与される(〒228)。
1969年/3月31日 - 【都市計画道路 3・3・2 号 広野大塚線】新設が決定(
※幅員22m・国道246号大和厚木バイパスと同じ幅員)。
10月 - 座間町の人口が5万人を超える。町の花を「ひまわり」と決定。
1971年11月1日 - 高座郡座間町、市制施行し座間市となる。人口62,740人。
1973年4月1日 - 市内3校の小学校(座間一小・座間二小・座間三小)校名変更し、それぞれ、座間小学校・栗原小学校・相模野小学校となる。
1974年11月1日 - 当該地域の大字小字を統合し広野台1丁目・2丁目を新設。住所の表記は従来からの地番を使用(例・広野台1丁目xxxx番地の1)。
1975年3月 - 相模台歩道橋竣工。
1984年4月 - 相模野児童館開館/1985年12月24日 - 座間市の人口が10万人を超える。
平成/1999年9月13日 - 大字を町丁に改編し住居表示実施(例・広野台一丁目x番1号)。
2001年 - 電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化(東京23区03・川崎044・横浜045と違い桁ずらし3桁化)。0462-51-xxxx→046-251-xxxx。
2010年4月1日 - 相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。
2018年3月13日 - イオンモール座間内郵便局開局。大字小字・飛地の整理に関して追記
日産自動車座間事業所内には、行政地名として大字「座間入谷」飛地字西二ツ塚・字松ノ東・字出口の松・字老場東通り・字老場中通り・字老場台、大字「栗原」字東原・字中丸の大字小字が実存している。
世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通り。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は、以下の通り。
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
鉄道
一丁目北部に1927年、小田急小田原線が敷設され運行しているが、町内に鉄道駅はない。
乗り合いバス
神奈川中央交通の路線 - 北相武台バス停/(台01)相武台前駅 - 相武台団地循環 - 相武台前駅/(台13)相武台前駅 - 総合体育館前 - 北里大学病院・北里大学/(相27)相模原駅南口 - 北里大学病院・北里大学 - 相武台前駅/座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線/(B)小松原・病院経由コース/(C)相模が丘コース/廃止路線/神奈中バス/相武台前駅 - 座間日産正門/座間四ツ谷 - 相武台前駅経由 - 行幸道路 - 北相武台バス停 - 行政道路 - 下鶴間 - 旧国道16号の「亀の甲山」(横浜市旭区上川井町)経由 - 鶴ヶ峰駅経由 - 横浜駅西口行き(平日昼間週一回一往復)。
道路
神奈川県道50号座間大和線 - 1946年、米軍の軍用道路として着工。1953年12月山王原跨線橋竣工を以て全面開通。1954年10月26日に神奈川県道50号座間大和線として認定。通称:相武台新道→行政道路→ダンプ街道→座間日産通り→座間県道→座間街道。
東京都道・神奈川県道51号町田厚木線 - 通称:府中道・町田街道→行幸道路。1937年9月30日、東京府東京市牛込区市ヶ谷台より座間に移転した陸軍士官学校の卒業式(同年12月20日挙行)昭和天皇行幸につき、府中道が改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成(未完の士官学校正門~座間上宿ほか全面完成は翌年11月)。難儀した村富線
出典元:『三十周年誌・相武台歴史同好会 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行』p26
※原文ママ/『村富線は相模原市中心部と南部を繋ぐ初めての道路です。相模原台地の東、鳩川筋と西、鳩川沿いには街道がありましたが人家のない台地上には東西を結ぶ道はあっても南北を繋ぐ道はありませんでした。県と市は南北を縦断する重要道路として昭和31年9月24日村富相武台線を都市計画道路として決定、告知しました。昭和33年8月1日首都圏整備法による市街地開発地区第1号に指定されました。
一方道路の方はその後地元説明会、物件調査、用地買収等を経てようやく昭和44年工事施工となりましたがそれ以前の昭和42年1月より入居していた相武台団地住民は団地の真中に1日に何万台も車が通る道路が出来ると初めて聞いて驚きました。当然大反対です。交渉は10年の長期にわたりました。4車線を2車線に変更し、遮音壁を設置し、歩道橋を架け、広場を整備する等で昭和56年5月合意しました。その間付近の住民より団地のエゴだと非難もありました。昭和60年3月24日供用開始しました。今では主要幹線道路として活用されています。』村富線年表
1956年9月24日 - 「村富相武台線」都市計画街路(幅員11m・2車線)として決定・告示。
1958年8月1日 - 相模原市、首都圏整備法に基づく市街地開発区第一号に指定される。
1961年月日不詳 - 新磯野にて神奈川県住宅供給公社による相武台団地建設用地買収始まる。
1962年1月 - 団地用地取得。
1964年7月 - 相武台団地建設着工。 /1965年9月3日 - 都市計画街路「村富相武台線」と団地造成との関連を神奈川県が住宅公社と相模原市と協議(ルートの変更、幅員を11m2車線から18m4車線に変更、街路は団地と出来うる限り平面交差を少くする、美観上からグリーンベルト及び植樹を行う。)。
1966年11月30日 - 団地内部、都市計画街路「村富相武台線」団地内部を協議通り造成。都市計画街路を除く団地内街路と行幸道路・行政道路が接続。
1966年12月15日 - 都市計画街路「村富相武台線」計画変更(1965年9月の協議通りに変更)。
1967年1月17日 - 相武台団地竣工(分譲第1次)。
1968年3月30日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内)事業決定。
1968年3月31日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内南側)舗装新設160m、配水管工430m敷設。
1968年9月20日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路村富相武台線の一部設計変更の請願」を行う。昭和43年9月20日受理。
1968年9月24日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の設計変更についての請願」を行う。昭和43年9月25日受理。
1968年12月12日 - 上記請願二件「不採択」。
1969年月日不詳 - 村富相武台線団地内4車線で着工。1967年1月より入居していた団地住民が大規模なバイパス反対運動起こす。工事途中中断。
1970年9月11日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の路線変更についての請願」を行う。昭和45年9月14日受理。
1971年3月8日 - 上記請願「不採択」。
1971年9月17日 - 「相武台団地の交通公害についての請願」を行う。昭和46年9月17日受付・受理。
1971年12月7日 - 上記請願「採択」。
1976年3月30日 - 工事中断中の「村富相武台線」、神奈川県道507号相武台相模原線と認定される。神奈川県告示第247号・248号・整理番号139。
1981年5月 - 所轄官庁と住民が合意。
1985年3月26日 - 村富線全面開通。施設
イオンモール座間/座間市立相模野小学校
日本郵便
郵便番号 : 252-0012(集配局 : 座間郵便局)。
参考文献
『座間市史第4巻』/『土地宝典』「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和3年12月25日刊行/『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行/『座間の語り伝え 村制編1村の起こり』編集者:語り伝え聞き取り調査団・企画課市史編さん係 発行者:座間市企画財政部企画課市史編さん係 発行日:昭和57年4月1日/『座間むかしむかし第1集』発行:昭和32年10月15日 発行者:座間町教育委員会/『座間むかしむかし第3集』発行:昭和49年5月20日 発行者:座間市教育委員会/『座間むかしむかし第6集』発行:昭和57年1月16日 発行者:座間市教育委員会/『座間むかしむかし第7集』発行:昭和58年3月31日 発行者:座間市教育委員会/『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会/『相模野小学校五十周年記念誌』発行者:相模野小学校創立50周年記念事業実行委員会 発行日:平成23年11月25日/『広報ざま縮刷版 第1巻』/『広報ざま縮刷版 第2巻』/『相模原市史第2巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和42年3月/『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日/『相模原市史現代資料編』発行者:相模原市史編さん室 発行日:平成20年3月25日/『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行/『大和市史研究 第9号』 鶴間新町のルーツを探る —座談会—(岩崎房吉・小松一男 ・杉崎貴重・関水義治・高橋治作・高橋冨蔵・市史編さん事務局)…昭和58年3月発行/『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行/『小松原開拓百年史』総著者/大塚喜代治・小松原稲荷神社氏子一同 平成16年10月吉日発行/『三十周年誌・相武台歴史同好会』 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行
関連項目
相模野台地/相模原市/南区/上鶴間/南台/相武台団地/新磯野/新戸/磯部/麻溝村/麻溝台/新磯村/下鶴間/南林間/中央林間/中央林間西/林間都市/高座郡/キャンプ座間/陸軍士官学校/相模原軍都建設計画/相模原町から市制施行へ