「京都府 南丹市 日吉町殿田」について
| 郵便番号 | 〒629-0341 |
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| 住所 | 京都府 南丹市 日吉町殿田 |
| 読み方 | きょうとふ なんたんし ひよしちょうとのだ |
| この地域の 公式HP |
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| 地図 | |
| 地方公共 団体コード |
26213 |
| 最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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| 周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「京都府 南丹市 日吉町殿田」の読み方は「きょうとふ なんたんし ひよしちょうとのだ」です。
- 「京都府 南丹市 日吉町殿田」の郵便番号は「〒629-0341」です。
- 「京都府 南丹市」の地方公共団体コードは「26213」です。
- ■f02: 小字毎に番地が起番されている町域。
「日吉町殿田」の概要 from Wikipedia
日吉町殿田(ひよしちょうとのだ)は、京都府南丹市の地名。2006年(平成18年)1月1日の南丹市発足以前は、船井郡日吉町の大字・殿田であった。もともと商店街があったことから、近隣の村と比べて農家が少ない。キャッチコピーは「ダム湖がつなぐ交流の里」。
本項では現在の地名について日吉町殿田、または殿田として記述する。地名の由来
日吉町の地名は、日吉神社に由来する。殿田の地名由来は不明だが、主だったものとして次の3説あがる。
荘園説/殿(有力者=荘園)の直轄田という意味。世木庄は荘園だった。
寺領説/殿(有力者=寺)の領有田という意味。成就院の農地(現・ヒノ谷墓園)が1876年(明治9年)まで免租地だった。
外野説/殿(外野)の田という意味。外野(との)に後から殿という字を当てた。近隣の殿田
殿田中心部から直線で3kmほどのところ、園部町佐切(かつての仙洞御領所)の小字に、殿田の地名がある。日吉町殿田との関係は不明。
小字名
南丹市が公示している日吉町殿田の小字の小字コード(住所コード)および小字名は次のとおり。この小字の前に「日吉町殿田」を付けたものが字名となる。
※井溝は雨水や湧き水などを排水する通水路に付けられる地目。
※昔、イチバは「市場」、ハジキリは「端切」と表記していた。立地
日吉町殿田は、南丹市の中部にある世木地区(地域)に位置し、淀川水系の上流・桂川右岸および田原川沿いに集落群を形成する。
世木地区の地形は右手の手のひらに例えられ、親指が桂川本流、人差し指が中世木川、中指が木住川、薬指が田原川、小指が胡麻川で、それら5河川が合流する一帯が日吉町殿田、中世木川沿いが日吉町中世木、木住川上流が日吉町生畑、下流が日吉町木住となり、これら4集落で現在の世木地域を構成している。親指に当たる部分にあった集落(日吉町天若と日吉町中)は、1972年(昭和47年)に着手した日吉ダムの建設で廃村している。
日吉町志和賀との境はアチラで、その語感から二度聞きされることも多いが、れっきとした地名。アチラは、殿田住民の新田として開拓された場所で、町筋の車橋や小牧の日吉橋から古道で山を越えたところにある。日吉町中との境は小道津で、かつて殿田と中村はひとまとまりの下世木之内とされたが、独立し単独で村を構成するようになった。日吉町田原との境は、東雲稲荷社のある小道。日吉保野田との境は、日吉駅前の藤林橋辺り。園部町船岡との境は、今井生コン先の紅春京都支店園部工場手前のカーブとなっている。
殿田の面積は約3.406km2で、南丹市161地域中54位。河川
桂川(かつらがわ)/河川コード:8606040167/桂川は、殿田東部を流れる淀川水系一次支流の一級河川。古代は葛野河(かどのがわ)と通称し、また大井川・大堰河・西河・葛河(かつらがわ)などとも記されることがあった。現在の殿田では、大堰川と呼称している。大堰川の名称は5世紀以降の渡来人である秦氏が一族をあげて葛野郡(現・京都市)に大堰(取水堰)を築いて用水開発を行い葛野大堰と呼んだことによるという。かつての殿田では、大川や世木川とも呼称していた。
京都府により、環境基本法に基づく環境基準の河川A類型(渡月橋より上流)と生物B類型(世木ダムより下流)に指定(1970年9月)されている。
日吉ダムの利水補給計画による殿田地点の確保流量は、5月1日〜9月30日が5.4m3/sから新庄発電所の使用水量を控除した量または2.67m3/sのいずれか大なる水量、10月1日〜4月30日が2.0m3/s。
豪雨翌日などの増水時、日吉ダムの放流で茶色になった桂川の濁水と、濁っていない田原川の流れは、合流しても色が混ざることなく2色に別れたまま流れることがある。
中世木川(なかせきがわ)/河川コード:8606040303/中世木川は、淀川水系二次支流の一級河川。日吉町中世木の西牧山・東牧山の水を集め西流、日吉町中の京都府道364号中地日吉線の東で大堰川右岸に注ぐ。
木住川(こずみがわ)/河川コード:8606040296/木住川は、淀川水系二次支流の一級河川。日吉町生畑北部山中の水を集め南西流、日吉町木住(こずみ)を貫流し、小道津橋下流で大堰川右岸に注ぐ。
田原川(たわらがわ)/河川コード:8606040249/田原川は、殿田集落群に流れる淀川水系二次支流の一級河川。出口王仁三郎(大本の教主輔)が大正から昭和初期にかけて口述筆記した『霊界物語』に殿田川という表現も見られる。車橋から曹源寺までの右岸に桜並木があり、そこから150mほど下流の殿田前田で大堰川右岸に注ぐ。
殿田を含む日吉町の一部の地域は、田原川から水道取水している。環境基準の河川A類型に指定(1996年3月)されている。
104軒が熱失した大火(1941年4月)を教訓に、日吉橋から曹源寺橋の区間には防火用の取水のための階段が18ヵ所ほど設けられている。
胡麻川(ごまがわ)/河川コード:8606040250/胡麻川は、淀川水系三次支流の一級河川。日吉町胡麻平原の分水界で由良川水系の畑川(畑郷川)と、桂川水系の胡麻川に分かれて流下、保野田で志和賀川が流入し、南丹市立殿田小学校前で田原川と合流する。田原川との合流地点には、舟先のような形状の背割堤(瀬割堤)が設けられている。岩・淵・瀬
岩・淵・瀬に付けられた名前は次の通り。
船岡峡谷
船岡峡谷は、殿田と園部町船岡の間にある大堰川(桂川)の峡谷。この区間の大堰川は、亀岡断層による隆起部を横断するため、穿入蛇行の河流状態になっている。また、狭いながら谷底低地が分布している。
現在の南流している園部川は、かつて園部から北東流し、内林、船岡峡谷を通り、殿田で南東から流下してくる大堰川に合流し、北西に流れて胡麻方面から由良川に合流していた。谷中分水界のある上胡麻新町の広い河岸段丘は、大堰川が北流していた当時の流路形状やその後の河川争奪の跡。立壁
立壁(たてかべ)は、船岡峡谷(殿田-船岡)の桂川沿いに設けられた切り立った堤防を示す通称。立壁にある第一大堰川橋梁を立壁鉄橋と呼ぶこともある。
山岳
殿田断層の北東側、殿田から千歳山(622.3 m=八木町神吉)・鎌ヶ岳(623 m=神吉・京都市右京区)・三頭山(728.2 m=右京区)と連なる山地は、その南東延長にある朝日峯(688 m=右京区)の名をとって、朝日峯山地と呼ばれている。
丹波高地
丹波高地は、南西縁を三峠断層、南縁を殿田断層、南東縁を亀岡断層、東縁を花折断層、北縁を熊川断層、北西縁を上林川断層の各断層で境され、独立峰が林立する高地。山々が定高性(尾根の高さがそろった山並み)の特徴を持つため、丹波高原や丹波山地とも呼ばれている。北東から南西方向に山地・低地が帯状に配列している。殿田断層が東西に横断している殿田は、北側半分が丹波高地に位置する。
※京都丹波高原国定公園の範囲は殿田を含まず、東方の小道津(日吉町中)から。殿田は国定公園の規制区域外。保安林
殿田地内にあるほとんどの山林が、地域森林計画対象民有林になっている。また、大向山の日吉大橋側と、日吉駅裏から日吉大橋までの山林(小牧山、城山、行者山、前山の範囲)が保安林となっている。
山
大向山(おむかいやま)/大向山は、殿田の南に位置する標高357mの山。大向山と天稚神社の景観が、「南丹市 景観の小窓」(第35景)に選ばれている。山の北側にある天稚神社から登山道に入り、日吉ダムを上から眺めることができる。下部はスギの植林地だが、上部には雑木林が残っている。山頂付近の日吉ダム側(東側)に京都府立大学の日吉演習林があり、マツタケの発生を促進する環境整備などが行われている。
城山(しろやま)/城山は、殿田の西にある標高285mの山。山頂付近に城跡がある。危険度判定Cの山腹崩壊危険地、危険度判定Bの崩壊土砂流出危険地になっている。
行者山(ぎょうしゃやま)/行者山は「ぎょうしゃさん」とも呼ばれている。2022年(令和4年)から2023年(令和5年)にかけ、階段やチェーンスタンド設置などの山道の整備が住民の手で行われた。
前山(まえやま)/標高291m。山頂の真下の海抜184mの位置に新前山トンネル(JR山陰本線)がある。
上ノ山(うえのやま)/公示では上ノ山だが、山陰本線のトンネルなどでは「上野山」と表記されている。中腹には梅若家屋敷跡があり、屋敷跡周辺にミツバツツジが植栽されている。
旭山(あさひやま)/小牧山(こまきやま)地質・地層・地下水
殿田の地質は、秩父古生層に属する輝緑凝灰岩・チャート・頁岩・粘板岩・黒色千枚岩・砂岩で構成されている。丹波層群が基盤を成し、砂岩を特徴とする粘板岩層(殿田層)がある。珪石鉱床もあり、昭和初期から中期にかけて珪石の採掘が大向山で行われていた。
河床
殿田東方の大堰川河床には下位から上位に向かって塊状溶岩、枕状溶岩、ハイアロクラスタイトという一連の地層の連なりが繰り返す露頭がある。
緑色岩
河床に緑色岩類が見られ、塊状溶岩と枕状溶岩が主で、石灰岩を伴わないところから、比較的深い海底に静かに噴出したものとされ、この噴出形式は殿田型と区分されている。殿田や京北町中地などに分布する緑色岩は、サマリウム-ネオジム法(Sm‑Nd法)による年代測定で、334-339Ma(3億3400万〜3億3900万年前。古生代石炭紀)の値がでている。
河岸段丘
殿田と周山(現・京都市右京区京北)付近では、大堰川の河岸段丘の堆積物が発達している。殿田では 3 段に大別され、高いものから高位段丘・中位段丘・低位段丘と呼ぶ。そのほかの河谷にも小規模な河岸段丘礫が点在する。
高位段丘堆積物/殿田東側や、その北方の下保野田には、標高220-250 mに厚さ10 mほどの礫層の堆積面がある。この礫層は南へ傾く覆瓦構造(底面の礫などが河川の流向に向く構造)を示し、大堰川がこの辺りで北流し、由良川に合流していたことを示している。また、この時代の由良川は福知山から現在の加古川への流路をとっていたことが知られている。大堰川が亀岡盆地に流れこむようになったのは、旧石器時代にあたる約30万年前とされる。
中位段丘堆積物/殿田付近で中位段丘堆積物は明瞭に識別でき、標高180-190 mの面を作っている。高位面との比高は40-60 mで、厚さ5 m程度の大礫より形成されている。
低位段丘堆積物/殿田付近と周山付近に河谷沿いの低位段丘がある。殿田付近では標高150 m前後の面をつくり、殿田東方の世木林で殿田断層によって変位している。マンガン
殿田を含む日吉町の各所にマンガンの鉱床がある。殿田鉱山(西村平三が稼行していたことから平三殿田鉱山とも呼ぶ鉱山)では、40トンのマンガンが採掘された記録がある。
珪石
大向山に珪石の鉱床がある。
殿田活断層
船井郡京丹波町中台付近から南丹市日吉町上世木南方にかけて殿田活断層(殿田断層)がある。
殿田断層は、約15kmにわたって連続した西北西走向の断層で、北側隆起と左ずれの変位が特徴となる。横ずれ地形は日吉町志和賀付近で顕著で、左ずれの累積は約200mとなっている。また、殿田付近では地質境界の右ずれも見られる。縦ずれについては、殿田付近の高位段丘で30–36m、中位段丘で12–15mの変位を見せ、世木林(日吉町天若)では低位段丘を切る低断層崖の発達が見られた。1997年(平成9年)、世木林地区でトレンチ調査が行われ、最新の断層活動が紀元前395年から紀元後100年の間に起こったことや、1万1000年前から現在までの間に3度の活動があったことが判明している。平均活動間隔は、3,500年~5,600年と推定されている。
世木林地区で見られた断層地形やトレンチ地点は日吉ダムの完成で天若湖に水没し、「殿田断層崖(世木林地区)」は京都府レッドデータブックで「消滅」のカテゴリーになった。しかし、殿田断層のはぎとり標本とトレンチ調査の結果は、ダム堤内のインフォギャラリーで展示されている。地下水
日吉町の地下水利用高(GU)は、1日0.25mm以下。殿田の涵養年間可能量(降水量から可能蒸発散量を引いた量)は、1988年(昭和63年)~1997年(平成9年)の10年間の平均値で、800~1000mm。
気候
殿田は山陰内陸性気候に属している。気候区分では右表のように分類される。
夏季の気候
梅雨期から台風期までの夏季は高温多湿で降水量が多い太平洋側気候の特徴を示し、京都市などの盆地に比べ比較的に涼しい高原的気象で昼夜の寒暖の差が大きい。
殿田水文観測所が観測したこれまで(1972年〜2021年)の最大雨量は、1日単位では2018年(平成30年)7月5日の182mm(7月豪雨)、3時間単位では同年8月24日1時からの91mm(台風20号)、1時間単位では1999年(平成11年)9月15日12時からの66mm(台風16号)。冬季の気候
冬季は冷え込み日較差が大きい内陸性気候を示す反面、日本海側気候の影響を受けて季節風が吹き、降雪や積雪がみられるが、丹波地方の北部に比べると比較的温暖で降霜・降雪量は少ない。晩秋から冬にかけては時雨れる日が多く、10~30cm程度の積雪がある。
木本
山林の植生区分は暖帯常緑広葉樹林(ヤブツバキクラス域)に属しているが、ほとんどがスギとヒノキの植林による代償植生となっている。
ニホンジカによる食害で、下層植生や植林木(幼齢木・成齢木)に影響を与えている。特用林産物(マツタケ・クリ・タケノコなど)については、南丹市全域の傾向として収穫時期に集中して被害が発生している。
主な樹種は次の通り。在来種
京都府レッドリスト準絶滅危惧種/京都府レッドリスト要注目種/フユザンショウ/京都府レッドリスト管理維持/アベマキ(LC)/大向山のアベマキ群落が京都レッド(管理維持)になっている。
その他の在来種/スギ/スギは1982年(昭和57年)に制定された日吉町の「町の木」で、林業やその運搬で栄えた殿田では、今でも植林されたスギが多く残っている。
コバノミツバツツジ/ミツバツツジ/ツツジは1982年(昭和57年)に制定された日吉町の「町の花」。それにあやかり、もとからミツバツツジが殿田の山中に自生していたことから、上ノ山の梅若屋敷跡周辺にミツバツツジが約150本植樹されて保護が続けられている。
シラカシ/樹高約20m、樹誕1911年~1931年と推定されるシラカシが小牧山観音堂(日吉町神社)にある。枝腐れから幹腐れに進行している。
オニグルミ(NE)/ジャケツイバラ/シダレザクラ/JR山陰本線の線路沿い、殿田ふれあいパークに枝垂桜の並木がある。
ソメイヨシノ/桂川や田原川沿いに桜並木がある。外来種
総合対策外来種/ナンキンハゼ
草本
桂川沿いの平地の大部分が水田雑草群落となっている。
京都府全域と同様に殿田でも山地を中心にニホンジカの食害が広範囲に進行し、シダ植物ではまだレッドリストのランクレベルでの影響は少ないが、種子植物では影響が大きい。
主な草本は次の通り。在来種
京都府レッドリスト絶滅寸前種/フジバカマ(NT)/京都府レッドリスト絶滅危惧種/京都府レッドリスト準絶滅危惧種
外来種
特定外来生物/重点対策外来種/セイタカアワダチソウ/総合対策外来種/その他の外来種/キダチダリア(皇帝ダリア)
魚類
殿田では、キタノメダカやミナミメダカ、オヤニラミなどが生息している。桂川下流域では見られない由良川水系の魚がいるのは、地殻変動のなごりという。もともと殿田の川は今と違って日本海に流れており、地殻変動による縦ずれで殿田付近の高位段丘を30–36m、中位段丘を12–15m変位させて太平洋側の亀岡盆地に流れこむようになった。太平洋側に流れるようになったのは、約30万年前と考えられている。
特定外来生物のオオクチバス(ブラックバス)が1997年(平成9年)・1998年(平成10年)のモニタリング調査で確認されたが、それ以降では見られない。特定外来生物のブルーギルは断続的に確認されているが、増加傾向にはない。日吉ダムの下流である殿田では近年見つかっていないが、ダム上流には生息している外来生物(国内外来種を含む)として、ゼゼラ、ワタカ、カムルチー、ニゴロブナ、サツキマス(アマゴ)、ワカサギ、オオクチバスがいる。
日吉ダムによる湛水後、緩流域の砂礫底を好むイトモロコなどは減り、流れのある礫地を好むアジメドジョウ(LC)(地域名:ゴリン)は見られなくなった。また、水産上有用種であるアユの放流に伴って移入したヌマチチブ(緩流域から止水域を好む回遊魚)が増加傾向にある。
以下は、モニタリング調査(独立行政法人水資源機構、1996年-2000年)、河川水辺の国勢調査(2001年-2010年)、殿田区自治会殿田区集落支援事業推進委員会(2021年)により、殿田で確認された27種の魚類。在来種
京都府レッドリスト絶滅寸前種/京都府レッドリスト絶滅危惧種/京都府レッドリスト準絶滅危惧種/その他の在来種
外来種
特定外来生物/ブルーギル/重点対策外来種/タイリクバラタナゴ/総合対策外来種/ハス(VU)(国内外来種)/国内外来種(生態系被害防止外来種を除く)
底生動物
日吉ダムの湛水後、石礫底に多く生息する造網性のトビケラ目や、流水域に多く生息する刈取食型カゲロウ目の増加傾向が見られる。
モニタリング調査(1996年-2000年)、河川水辺の国勢調査(2001年-2010年)、生物調査(殿田中学校科学工芸部、2018年)により、171種が確認されている。以下、確認された底生動物の一部。在来種
京都府レッドリスト絶滅危惧種/京都府レッドリスト準絶滅危惧種/京都府レッドリスト要注目種/その他の在来種
外来種
条件付特定外来生物/アメリカザリガニ/生態系被害防止外来種/その他の外来種/オオマリコケムシ
鳥類
樹林性優占の植生のため、森林や林縁を好むヒタキ科やアトリ科などの鳥類が確認されている。また、河川内に草地や中低木がモザイク状に分布することから、ヒヨドリやホオジロなどが確認されている。カワウ、アオサギ、セグロセキレイの個体数が増加傾向にある。
モニタリング調査(1996年-2000年)、河川水辺の国勢調査(2001年-2010年)により、95種が確認されている。以下、確認された鳥類の一部。猛禽類
京都府レッドリスト絶滅危惧種/京都府レッドリスト準絶滅危惧種
水鳥や水辺性の鳥
京都府レッドリスト絶滅危惧種/京都府レッドリスト準絶滅危惧種/京都府レッドリスト要注目種/ウミネコ(LC)/その他の水鳥や水辺性の鳥
その他の在来種
京都府レッドリスト絶滅危惧種/京都府レッドリスト準絶滅危惧種/その他の鳥
両生類
日吉ダムより上流では、ウシガエル(特定外来生物)が確認されている。また、チュウゴクオオサンショウウオ(特定外来生物)とオオサンショウウオ(特別天然記念物)の交雑による遺伝子汚染は、世木ダムが防波堤となり下流域(保津峡までの範囲)に拡散していない。その一方で、上流の人造湖(天若湖)には、遊漁や営利の目的で特定外来生物オオクチバス(ブラックバス)が持ち込まれた。1996年(平成8年)のモニタリング調査ではすでに生態が確認されている。
河川水辺の国勢調査(2003年)などにより、以下6種の両生類が殿田で確認されている。在来種
京都府レッドリスト要注目種/その他の在来種
爬虫類
ミシシッピアカミミガメ(条件付特定外来生物)が日吉ダムより上流では確認されていが、殿田では未確認。
河川水辺の国勢調査(2003年)などにより、以下5種の爬虫類が殿田で確認されている。在来種
京都府レッドリスト要注目種/その他の在来種
陸上昆虫類等
クロバネキノコバエが2014年(平成26年)、カメムシが2023年(令和5年)に大量発生している。
サクラ、ウメ、モモなどのバラ科樹木に被害を及ぼすクビアカツヤカミキリ(特定外来生物)が2024年(令和6年)7月以降、京都市や福知山市、綾部市などで見つかっているが、今のところ殿田での発生は確認されていない。
河川水辺の国勢調査(2003年)により1,514種(クモ目23科133種を含む)、そのほか地域の観測会で数種の陸上昆虫類が確認されている。以下、その一部。在来種
京都府レッドリスト絶滅危惧種/京都府レッドリスト準絶滅危惧種/京都府レッドリスト要注目種/その他の在来種
哺乳類
特定外来生物のアライグマが2003年(平成15年)から継続して確認されている。
河川水辺の国勢調査(2003年)や目撃情報などにより、以下18種(飼育動物を除く)の哺乳類が確認されている。在来種
京都府レッドリスト絶滅寸前種/ツキノワグマ(ニホンツキノワグマ)(VU)/丹波個体群は絶滅危惧地域個体群/京都府特定鳥獣保護管理種(第二種)/環境省指定管理鳥獣/京都府レッドリスト準絶滅危惧種/ホンシュウカヤネズミ(LC)/京都府レッドリスト要注目種/ニホンザル(ホンドザル)(LP)/京都府特定鳥獣保護管理種(第二種)/ホンドギツネ/その他の在来種
外来種
特定外来生物/重点対策外来種/ハクビシン(LC)
世帯数・人口
2025年(令和7年)4月1日現在の世帯数と人口、およびエリアごとの殿田人口割合は以下の通り。
人口の変遷
以下は、国勢調査の人口の推移。1975年のみ住民基本台帳。1995年以降は小地域集計。
世帯数の変遷
以下は、1941年(昭和16年)以前の戸数。
以下は、国勢調査による世帯数の推移。1975年のみ住民基本台帳。1995年以降は小地域集計。殿田に多い姓
旧日吉町の世帯別で多い姓は、湯浅・吉田・塩貝でほぼ同数、次に宇野や小林と続く。湯浅、井尻、吉田を「世木の三姓(世木の三苗)」といい、いずれも外来の有力者で14世紀~15世紀初頭に世木に入った。殿田では人口流動が多い集落特性から極端な偏りはないが、次の順で多い。
殿田区自治会
殿田地内の自治は、認可地縁団体(法人)「殿田区自治会」が治めている。2005年(平成17年)に施行した規約では「殿田区」の名称だが、南丹市が設置する行政区との区別を図るため、「殿田区自治会」と表記されることが多い。
南丹市にある多くの集落では、区民総会で選ばれる自治会の代表(自治会長)が、南丹市が委嘱する行政区長を慣例として兼ねている。南丹市成立(2006年)以前より殿田内には2つの行政区(殿田上区・殿田下区)が設置され、それぞれに市から委嘱を受けた区長が存在し、殿田区自治会においては副自治会長的なポジションを担ってきた。2024年(令和6年)の殿田上区・殿田下区の統合により両区長を廃止し、自治会長が行政区長を兼務することになった。
2022年(令和4年)から2年間、自治会運営の見直しが行われた。その一つとして、2023年(令和5年)12月より、殿田区自治会の事務の一部をとのだofficeworksに委託している。合意形成
殿田区自治会では、全会員による直接民主制の区民総会と、年6回ほど開かれる組代表(組長)による間接民主制の組長会により住民総意が図られている。
年度
殿田区自治会の年度は、4月1日に始まり、3月31日に終わる。
役員
組長からの互選で以下の役員候補者が選出され、区民総会で承認される。任期は1年。
自治会長/副自治会長/庶務・会計特徴的な取り組み
公募型助成制度/殿田区自治会は、既存団体への既得権益として支出してきた補助金を廃し、住民有志の新設団体や殿田外の団体でも申請可能な公募型助成制度を2024年(令和6年)よりはじめた。補助金に合わせ、情報や場所についても開かれた制度になっている。この制度では、自治会が持つ情報伝達手段(回覧板、全戸配布、屋外掲示板、無線放送など)や自治会管理施設を、「殿田住民にとって特に有益であること」を基準に無料等で利用できる仕組み(申請主義の制度)になっている。
施設のオンライン予約システム/多目的ホールや集会所、コミュニティ広場などの施設の予約受付をオンラインでも対応できるシステムを導入している。組構成
殿田区自治会のほか、各組(町)で組織を構成し、隣組単位の独立した自治も行われている。殿田区内は大きく2つの範囲に分けられ、その中に計9つの組(町)が存在している。石橋町と下ノ町はかつて別々の組だったが、世帯数の減少により合併している。
殿田上/殿田下殿田区自治会が加盟する組織
日吉町地域自治振興会/日吉町地域自治振興会は、旧日吉町内にある34行政区の代表で組織する連合会組織で、殿田区自治会も加盟している。通称は日吉町区長会。南丹市が主催して毎年4月に開催される行政区長への委託事務説明会を指して「日吉町区長会」と呼ぶこともある。
世木地域振興会/世木地域振興会は、旧世木村を範囲とする地域運営組織(RMO)。2006年(平成18年)に設立し、殿田区、中世木区(なかせきく)、生畑区(きはたく)、木住区(こずみく)のほか、地域内の有志によって組織されている。
2014年(平成26年)に世木地域振興会の里づくり委員会で各区のキャッチコピーが考案され、殿田区は「ダム湖がつなぐ交流の里」に決まった。前田橋近くの桂川沿いにキャッチコピーを記した看板が設置されている。地縁由来の有志組織
殿田区自治会とは別に、地縁を由来とする団体が活動している。
殿田区子ども会/殿田に住む子どもおよびその保護者で組織された任意団体。中世木区子ども会と合同で活動している。
消防団/南丹市から委嘱を受けた住民らが、非常勤特別職の地方公務員として組織する集まり。殿田にあるのは、南丹市消防団日吉支団第1分団第1班。略称は「殿田班」。
消防協力隊/日吉町全体の元消防団員で組織された団体。
南丹船井防犯協会殿田支部/殿田に置かれた南丹船井防犯協会の支部。年末警戒パトロールなどの防犯啓発活動を行っている。
殿田セーフティネット/府民協働防犯ステーション「殿田セーフティネット」は、殿田駐在所の呼びかけにより、単位PTAや殿田区自治会など12団体で2011年(平成23年)8月29日に構成された組織。子どもたちの見守りや特殊詐欺の被害防止活動など、自主的な地域防犯活動の取り組みが認められ、2019年(令和元年)には南丹船井防犯協会の総会で「京都府防犯まちづくり賞」(京都府知事賞)を受けている。
大向営農組合/農事組合法人大向営農組合は、1995年(平成7年)設立の前身組合を基盤とし、2007年(平成19年)に農家27戸の参画により集落型農業法人として設立された。農作業の受託、黒豆栽培、貸農園(大向なごみ農園)、加工品(納豆餅、弁当、巻き寿司、鯖寿司等)の販売などを行っている。区域内農用地面積は6.3ha。JAグループ京都農業法人協会の会員になっている。
同組合の加工部は法人設立前の2001年(平成13年)、組合の女性たちで、日吉町で栽培されていた壬生菜を使った漬物を作りはじめたところからスタートした。2007年の法人化と合わせ、本格的に弁当などを生産する加工部となった。加工部が作っていた「日吉の味覚弁当」は、京都府(健康対策課)の「健康ばんざい京のおばんざい弁当」としての認可を2009年(平成21年)に受けていた。
2011年(平成23年)に豊かなむらづくり全国表彰事業で近畿農政局長賞を受賞している。
2013年(平成25年)より、伝統食品や特産品を使って地域振興を図る京都丹波・日吉伝統の味プロジェクトの構成団体となった。
2023年(令和5年)11月、殿田中学校の2年生と龍谷大学の学生がコラボ開発した鹿肉壬生菜チャーハンとビビンバ風チャーハンを大向営農組合が商品化して販売した。食材には、日吉町生畑のブランド米「日良し米」などが使われた。
殿田農家組合/殿田の農家組合。かつて毎年11月ごろに催されていた殿田いなか祭りで、運営の中心を担っていた。
殿田水利組合/小牧池などを管理する水利組合。
日吉神社氏子総代会/殿田上小牧にある日吉神社の氏子総代会。
殿田商友会/旧殿田商店街にある商店事業者らで構成された団体。
殿田を美しくする会/花きや花ぼくを育てることにより、町内の美化や生活環境を整備することを目的に1995年(平成7年)12月に有志45人で発足。発足時に府道沿いにサクラやサツキを植樹し、翌年の1996年(平成8年)に市道殿田旭山線、2009年(平成21年)2月に日吉ダム周辺施設にサクラを植樹している。定例活動として、殿田から日吉駅まで沿道、日吉ダム周辺、老人福祉施設(はぎの里)前、南丹市役所日吉支所前などにパンジーやペチュニアなど季節ごとの花を育てている。また、年間800本の苗を育成して配布していた。2009年(平成21年)には、環境省の地域環境美化功績者として表彰を受けている。
あけぼの会/青年・壮年の男性により構成された任意団体。
バンジー企画/高齢者を対象とした交流事業や、高齢者による地域貢献事業の企画運営を行う任意団体。会員互助の老人会とは違い、非会員の高齢者も対象に事業を企てるのが特徴。名称は、ババア・シジイをもじったもの。2023年(令和5年)、バンジー企画の発足により、旧来から続く老人会(長寿会)は解散した。
草刈り隊/川草刈りなどの作業を請け負っている住民有志の任意団体。
殿田男性ボランティア/1988年(昭和63年)に結成された男性住民有志によるボランティアグループ。南丹市日吉殿田コミュニティ広場(交流広場 殿田ふれあいパーク)や梅若家旧墓所、道路端などの清掃活動を無償で行っている。
殿田いきいきサロン支援グループ/ふれあい委員に協力し、ふれあい・いきいきサロンの開催を支援するグループ。2021年(令和3年)、社会福祉事業ボランティア功労者団体として京都府知事表彰を受けた。
サロンは、1993年(平成5年)4月にはじまった。およそ毎月1回開かれ、花見や七夕、クリスマスなどの季節行事や、キーボードとオカリナの伴奏で生オケが行われる。
殿田お助けたい/殿田お助けたいは、住民共助を目的とする任意団体。殿田区自治会の特別委員会として設置された殿田区集落支援事業推進委員会の活動をきっかけに、2023年(令和5年)2月11日に発足した。障害者や高齢者、病人を対象に、御用聞きや軽作業、送迎などのサービスを行っている。
殿田ゲートボール同好会/南丹市日吉殿田コミュニティ広場(交流広場 殿田ふれあいパーク)を拠点に練習するゲートボールの競技団体。
劇団 殿田の案山子/2005年(平成17年)に発足した、殿田住民を中心に組織する演劇集団。南丹市文化協会に加盟している。
殿田の歴史を考える会/地域住民の有志で2014年(平成26年)に設立し、殿田の歴史を冊子にまとめる活動や、歴史資源を活かした取り組みを行っている任意団体。
世木の伝統芸能を守る会/地域住民の有志で2015年(平成27年)に設立し、能楽の梅若家にゆかりある史跡の保存および活用と、小学生を対象にした能楽体験などを行っている任意団体。
梅若家屋敷跡保存会/上ノ山にある梅若家屋敷跡を整備、保存する目的で組織された任意団体。
ブラックビーンズ殿田/都心部から来た中学生の農村体験学習の受け入れなどを行っている。
とのだofficeworks/殿田区自治会の事務を請け負うことを主目的とし、移住者らで2023年(令和5年)に発足した任意団体。自治会の下部組織ではないため、主体的な企画も行う。
美鈴会/自遊自感/パンジー解散した組織
在日本朝鮮人連盟 日吉町殿田支部/日本在住の朝鮮人によって1945年(昭和20年)に組織された在日本朝鮮人連盟(朝連)の支部。殿田にあったマンガン労働者の飯場を拠点として活動していた。1949年(昭和24年)9月8日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命令で朝連は解散した。
労務組合/炭づくりをアチラで行っていた。
日吉町殿田老人会「長寿会」/南丹市老人クラブ連合会(市老連)に加盟していた老人会の単位クラブ。2023年(令和5年)に解散。
青年団/市場女講/1761年(宝歴11年)9月に建てられた日吉神社にある常夜燈には「當村女講市場女講中」とある。地縁由来の委嘱人材
組織とは別に、殿田区自治会からの推選を受け、行政機関や社会福祉協議会より委嘱を受けた住民が活動している。
民生委員・児童委員/慣例により南丹市では、民生委員と児童委員は兼務している。殿田では殿田上と殿田下に各1名配置され、協力して活動している。
ふれあい委員/南丹市社会福祉協議会からの委嘱を受け、殿田内の福祉的な地域の困り事の解消のために活動する委員。殿田上・殿田下に1人ずついる。住民の孤立解消を目的とした、ふれあい・いきいきサロンの開催などを企画している。
環境美化推進委員/地区ごとに南丹市からの委嘱を受け、身近な環境の保全や健康増進を目的に活動する人材。任期は1年。殿田では、ごみ集積所やリサイクルステーションの管理などを行っている。沿革
701年(大宝元年) – 大宝律令により船井郡内10郷の一つとして田原郷(多八良郷)がつくられ、世木村(現在の殿田・木住・中・中世木・天若・生畑)・胡麻郷村・五ヶ荘村の範囲がひとまとまりの郷となった。
934年(承平4年) – 丹波猿楽の梅津家(のちの梅若家)直系の畑六郎が丹波船井郡殿田の郡司代官に任じられる。
1158年(保元3年) – 源頼政に二條天皇より鵺退治の恩賞地として丹波国五箇荘(日吉町から園部町川辺にかけての地域)の領地が与えられた。頼政の五箇荘領有は22年で終わった。
1185年(元暦2年) – 那須与一に源頼朝より五箇荘が与えられた。1190年(建久元年)、与一は死亡。
1186年(文治2年) – 五箇荘は後白河院の仙洞御領となる。
南北朝時代(1336年~1392年) – 世木郷(庄)の一村として殿田がある。 1351年(観応2年)の足利義詮の下文『佐々木文書』に初めて世木の地名が現れ、佐々木秀綱が足利義詮より世木郷を与えられたとある。
1401年(応永8年) – 足利義満(室町幕府第3代征夷大将軍)が京極高光の所領であった世木村の諸公事・臨時課役・守護役・段銭を免除して守護使の入部を停止した。
1477年(文明8年)ごろ – 世木村は常徳院領であったが、常徳院監寺の奥延の借物の代わりに土倉籾井が下代官職に就いた。
1478年(文明9年) – 奥延の死去に伴い、世木村は常徳院の直務に返された。
江戸時代(1603年~1868年) – 丹波国船井郡の村として殿田村がある。村高は『元禄郷帳』251石余、『天保郷帳』300石余、『旧高旧領取調帳』286石余。
1619年(元和5年) – 小出吉親が移封され、園部藩を立藩した。それにより、世木村は園部藩の所領となる。ただし、生畑村の小字上稗生のみ旗本の士である梅若六郎の知行になる。
1871年(明治4年) – 園部県(7~8月)を経て、11月に京都府に編入/1879年(明治12年) – 郡区町村編制法により、殿田村と中村の2村で職合戸長役場を殿田に置く。
1884年(明治17年) – 殿田・中・中世木・木住・生畑・天若の6村の職合戸長役場を殿田に置く。
1889年(明治22年) – 町村制の施行により、殿田村・中村・中世木村・木住村・生畑村・天若村の区域をもって世木村が発足。殿田は世木村の大字名となる。
1955年(昭和30年) – 五ヶ荘村・胡麻郷村・世木村が合併し、日吉町が発足。殿田は日吉町の大字となる。
2006年(平成18年) – 日吉町・園部町・美山町・八木町の4町合併による南丹市誕生に伴い、南丹市日吉町殿田となる。
2024年(令和6年) – 南丹市による行政区分であった殿田上区と殿田下区を、住民からの要望により廃止。行政区分としても殿田区に統一される。古代〜中世
白鳳時代(645年~710年)に上流の周山廃寺(京都市右京区京北にあった古代寺院)の造営に際して上桂川(桂川)で筏流しが行われた記録がある。平城京の寺院建築にも丹波地方の材木が使われていたことから、奈良時代(710年〜794年)には上流から下流への筏流しが行なわれていたと考えられている。
長岡京・平安京の造営のために、大堰川(桂川)の水運を利用して材木が多量に京都へ運ばれた。
1547年(天正16年)にはすでに、豊臣秀吉が殿田の筏に朱印状を発給している。1634年(寛永11年)に提出された桂(現・京都市西京区)の材木屋株の由緒書(所有:保津五苗財団)には、秀吉が大坂城の築城に際して関村(世木村)、田原村、保津村、篠村に木材の運送を命じる朱印状を発給したことが記されている。のちに流通の拠点として筏問屋が形成される大堰川筋の宇津、世木(現・天若)、殿田、保津・山本の各村は、秀吉から諸役免除されていた。近世
1606年(慶長11年)、朱印船貿易で有名な角倉了以(嵯峨居住)が轆轤や火薬の特殊技術を用いて大堰川の殿田から下流の開削工事を実施した。それ以来、殿田の川筋集落は発展した。近世初期(16世紀後半〜17世紀前半)、筏流しの流通が増えたことに伴って、中継点となる筏問屋が成立したといわれている。宇津・上世木・殿田・保津・山本の5カ所に筏問屋が設けられている。
伐り出された木材は、大堰川上流や中世木川、木住川などから小筏や管流で、いったん殿田に集められた。ここからは流れが緩やかになり水高が増すため、殿田の長淵で大筏に組み替えられた。この地は瀧頭津(たきかつらつ)とも呼ばれた。筏は殿田を出たのち、下流の船岡(園部町)・鳥羽(八木町)・保津・山本などの中継地を経て京都まで運ばれた。洛西の嵯峨・梅津・桂は、丹波材の揚陸地となり、「三ヶ所材木屋(三ヶ所問屋、三ヵ所仲間)」として特に江戸時代に隆盛をみせることになる。そのころの運賃は、殿田から保津まで3人で2日間かけて運ぶのに銀9分、保津から嵐山まで3人で運ぶのに銀4匁2分だった。
筏が流せる期間は農業との兼ね合いから9月15日~5月15日とされていた。
嵯峨・梅津・桂の三ヶ所に集荷された丹波材木は、京都市中15ヵ所の材木屋に売り捌かれていた。
丹州52ヵ村(組織)/丹波木材の生産地は、大堰川本・支流地域の川筋によって山国・黒田筋、弓削筋、大谷筋(大谷・田原・佐々江・田貫の4谷)に別けられる。また、生産地における筏荷主(出材業者)の団体は近世初期から俗に丹州(奥筋)52ヵ村(または山方)と呼ばれていた。丹州52ヵ村に組織されたのは遅くとも延宝期(1673年〜1681年)とされる。
52ヵ村は、嵯峨・梅津・桂の材木問屋を組織している三ヵ所仲間に筏材木を売る権利を持っている村で、河川工事費や訴訟諸費用などを共同出資することにその権利は基づいていた。筏問屋や三ヶ所材木屋との交渉には52ヵ村から惣代を選出していた。
山方と保津・山本の対立/筏問屋は、52ヶ村(のちに84ヶ村)といわれる山方(筏の荷主)から輸送を委託されている立場のため、力関係で言えば山方が優位だった。しかし、保津川の筏流しを独占している保津・山本は徐々に発言力を増していた。
山方は1696年(元禄9年)、運賃の直接支払者になることにより運賃の引き下げ交渉を行うねらいで、「運賃の支払を奥に受け取りに来るように」という指示を保津・山本にしている。これに対して保津・山本は「昔からの三ヶ所材木屋で指賃を受け取りたい」と送付し、山方が運賃の直接支払者になることを拒んでいる。同年、運賃に関して山方と保津・山本が対立する。山方の主張は「殿田の筏士(指子、差子ともいう)が保津・山本まで筏を運ぶ場合と、保津・山本の筏士が嵯峨まで運ぶ運賃を比べると、輸送区間が短いにもかかわらず、保津・山本の方が2倍以上高額ではないか」というものだった。これに対し保津・山本は「運賃には上流の筏士の宿泊費や荒川造の費用を含み、保津渓谷の通行は容易ではない」と反論している。山方は筏を大きくすることも訴えが、京都奉行所の裁定により、1682年(天和2年)の規格となった。その後も度々対立するようになり、ときには強硬手段に及ぶこともあった。近代~現代
桂川の筏流しは、明治~大正期の山陰本線の開通やトラック輸送の普及で次第に衰退。世木ダム建設着手による河川分断で1950年(昭和25年)ごろ一度完全に絶たれた。
一度は途絶えた世木の筏流しだが、2009年(平成21年)7月26日、森林・環境ネットワークが主催する子ども向けの催しで、ヒノキを運ぶ4連の筏が小道津(日吉町中)から500m下流(殿田)まで流れた。約60年ぶりの筏流し復活には、特定非営利活動法人プロジェクト保津川と保津川遊船企業組合が協力した。
山樵と筏関連用具/南丹市が収蔵する「丹波日吉の山樵及び筏関連用具115点」は、京都府暫定登録文化財になっている。世木城
世木城(関城)は、湯浅五郎兵衛(幕末の勤皇派志士)の先祖が旭山に構えたとされる城。湯浅家は1393年(明徳4年)、紀伊守護湯浅有重の子孫である湯浅宗朝が世木庄を賜って紀伊国阿氏河荘から丹波国旭山(上ノ山)に移り住んだ、後の木住の郷士。世木城は湯浅家の屋敷と砦(物見櫓)の一群を指すのではないかと考えられている。旭山の山頂には、円形に整地された所が2ヵ所あり、そこからは大堰川の上流と下流、田原川、胡麻川方面の様子が見える。だが、一説によれば、世木城は世木林にあったとも言われている。
世木城の戦い/1538年11月10日(天文7年10月19日)、丹波守護細川晴元に背いた丹波守護代内藤国貞(ないとうくにさだ)のいる八木城を、波多野秀忠・三好政長の連合軍が攻め込んだ。12月1日(11月10日)、八木城陥落。国貞は城を捨てて逃げだし、1545年(天文14年3月)に湯浅宗貞(ゆあさむねさだ)を頼って世木城に入った。9月3日(7月27日)、波多野秀忠は晴元の支援で三好政長・三好範長たちの援軍を得て、国貞が籠城する世木城を攻めた。世木城は落城、国貞は降伏した。
1570年(元亀元年)には、湯浅宗貞が世木城を畳んで木住に帰農した。殿田城
殿田城(とのだじょう)は、曹源寺の西背後にある城山(標高約280m)にあったとされる城で、明智光秀が築いた砦跡と伝わっている。三方急峻な城山には、尾根に沿って整備された平地30~40mの城趾が広がっている。土塁や、高低差2mの堀切、片堀切、縦堀を伴う空堀などがある。殿田城跡周辺は、文化財保護法による周知の埋蔵文化財包蔵地になっている。城跡への山道は整備されていない。
丹波猿楽 梅若家
猿楽の梅若家の系譜は、奈良時代の橘諸兄(たちばなのもろえ)からとされている。橘諸兄から九世を数える橘友時(888年没)は梅津氏の元祖とされ、梅津村(現・京都市右京区梅津)に住居を構えた。友時は朝廷より大志麻(現・綾部市大志麻)を拝領し、承平年間(931-938年)に子孫が移り住んだとあり、一門は綾部周辺から和知、美山、周山、殿田に散在し、室町時代の初期まで丹波守や若狭守などの役職に就いたとされている。
丹波国に移り住んだ梅津家が猿楽を始めた時期は明らかになっていないが、室町時代に書かれた『看聞御記』の1416年(応永23年)3月9日の条に「仙洞に猿楽あり梅若仕」とある。1481年(文明13年)、三十七世梅津景久(かげひさ)が後土御門天皇の前で芦刈を舞って、菊の紋の付いた下白の幕と「若」の一字を賜り、梅津一族はこのときから梅若に改姓した。
景久の子・直久(なおひさ)は、上林(現・美山町宮脇)に住み、尾張の織田家に仕えた。直久の子・三十九世梅若広長(ひろなが)は声の良さから"妙音太夫"と呼ばれていた。1582年(天正10年)5月19日、安土において織田信長が徳川家康をもてなした饗応(接待)のなかで安土御山総見寺で舞と能を鑑賞する席を設けられ、梅若大夫の能がひどく信長が折檻・叱責したと、『宗及他会記』『宇野主水日記』『信長公記』『川角太閤記』に記されている。この時、舞や能を手配したのは明智光秀だったとされている。梅若大夫とは、丹波の梅若家猿楽師の芸称で、梅若家の者が代々継承する呼び名。広長は元武士で、本能寺の変(同年6月)で明智光秀方に付き、山崎の戦いで負傷して亡くなった。広長は、梅若家の菩提寺である曹源寺に葬られている。
光秀が羽柴秀吉に敗れたあと、梅若家は一時没落したが、四十世の梅若氏盛(隠居後に玄祥)が細川幽斎の推挙によって徳川家康に仕えることになる。これにより、梅若家は徳川家の能楽師となり、能楽観世座のツレ方を務め、徳川家康から100石を与えられたといわれ、上稗生村(現・日吉町生畑)117石余を江戸時代を通じて知行した。氏盛(うじもり)は大坂冬の陣の際、徳川家康が本陣を構えた茶臼山で舞っている。
梅若家屋敷跡/四十一世梅若氏久(うじひさ)が上ノ山に作った梅若家の屋敷は、「世木の御殿」と呼ばれていた。屋敷跡地には、日吉町の花だったツツジにあやかってミツバツツジが植樹されている。屋敷跡に現存している古井戸は直径1.8mで、正面には梅若家の家紋になっているタチバナが植えられている。
梅若家旧墓所/殿田地内に残る梅若家の墓標。墓所の中央にあるのは、梅若実(五十二世梅若六郎)が1887年(明治20年)に、梅若の始祖「梅津兵庫頭友時」の千年祭を記念して建立した「従五位下梅津兵庫頭橘友時碑」。1975年(昭和50年)10月には、「丹波猿楽梅若家旧墓所」の碑を五十五世梅若六郎が建立している。また、梅若家家臣の篠田家と岡本家の墓もある。殿田男性ボランティアグループが墓所の清掃などを行っている。
梅若広長と氏盛の墓碑は見つかっていない。現在の墓所のほかにもう一ヵ所梅若墓地があったが、砂防工事の際に壊されたとされている。
梅若家の菩提寺/殿田地内にある曹源寺は、梅若家の菩提寺で、三十九世梅若広長がいた時代に創建されている。
梅若稲荷跡/上野山トンネルの横、東町踏切そばの坂道(追手門道)を登ったところに、梅若家鎮守の稲荷(国司稲荷)跡の石組みや陶器の狐がある。
1920年(大正9年)ごろ、住民の自費によって四尺余り(約120cm)の朱色の祠が建てられた。しかし、1941年(昭和16年)の大火で祠は熱失した。世木の鮎
大堰川の鮎は「世木の鮎」と呼ばれ、京料理の有名料亭で食されてきた。6月から9月までの農閑期、世木の多くの人が鮎に関係した。鮎を獲るアユトリ、鮎を運送するアユモチなど。
1950年(昭和25年)に天若のダム建設が始まると「世木の鮎」は姿を消した。
なお、殿田より上流(天若)では、ヒッカケ漁のほかに、ヤナ漁も8月の土用から筏流しが許される9月15日(ボウデン)まで行われていた。メス鮎と鰻は出荷換金され、オス鮎や雑魚(ジャコ)は分け合って食べられていた。また、さらに上流の山国八村(本郷の範囲:下、鳥居、辻、塔、中江、比賀江、大野、井戸。現・京都市右京区)の鮎は、室町時代中期から朝廷に御用鮎として献上されるようになり、明治初期まで献上鮎の制度が続いていた。献上鮎は、天日干しされた乾物だった。
活鮎の工夫・運搬/活鮎(生きた鮎)でなければ商品価値がなくなるため、さまざまな工夫がされた。そのため、アユトリは竿釣やヒッカケで獲る方法が主流だった。問屋から依頼を受けた仲買の農家が上世木と世木林にあり、夕方になると殿田で獲った鮎もイケタゴでここに運ばれ、仲買のイケスに大小分けて集められた。仲買が集めた鮎は、翌朝に京都へ運ばれていった。アユモチは50~70匹を入れたアユモチオケ(水を張った桶)を天秤棒で担ぎ活きたまま、約26kmの道のりを何度も水を入れ替えながら嵯峨鳥居本の鮎問屋まで運んだ。世木林から嵯峨鳥居本までの道のりは「鮎の道」と呼ばれていた。
山陰線の開通(1910年)後は、殿田の料亭「錦水亭」の店主・村上氏が漁師から友釣りの鮎を買い付け、殿田駅から京都へ汽車で運んでいた。1時間半ほどの道中、鮎は大きな桶に入れられ、手じゃく水を動かして鮮度を保ったという。
漁撈(ぎょろう)用具/南丹市が収蔵する「大堰川上流域の漁撈用具76点」は、京都府暫定登録文化財になっている。以下、漁具の一部。
イケス/運搬前の鮎を一晩活かすために入れる容器。畳1枚ほどの大きさで、家庭用と販売用があった。イケスの上を少しすかして川につけ、鮎が死なないようにした。家庭用のイケスは背の低い箱型で、杉や檜で作られていた。
イケタゴ/鮎を活けたまま入れて運搬する用具。昭和に入るまでは木製の桶で、内側は鮎がぶつかって鼻先を痛めないよう墨で黒く塗られていた。40匹ほど入る。
カンカン/獲った鮎を入れる用具。昭和に入ってからは、ブリキ製のカンカンも使われるようになった。内・外側ともに黒く塗られ、口に付けられた網が二重になっていた。友釣りで獲られた鮎が、ここに入れられた。たくさんの鮎が釣れるとイケタゴに移したが、数が少なければカンカンのまま運ぶこともあった。
アユモチオケ/鮎を活けたまま入れて運搬する用具。アユモチオケには杉材が使われ、イケタゴよりも薄くて軽い。20cmまでの鮎なら片方40匹、大きければ35匹ほど入れられて京都に運ばれた。アユモチは、鮎が死なないように、途中の谷水を杓で少しずつ桶に入れていた。船運の発展
角倉了以(本姓:吉田、幼名:与七)による1606年(慶長11年)の大堰川開削によって、殿田から嵯峨までの30数kmの水路が完成した。発展した船運では、高瀬舟によって千把や柴などの当地の産品が京の都へ運ばれた。殿田に数ヵ所あった船着場(浜)では、物資を積荷していた。
殿田にあった浜/桂川 – 3ヵ所:小道津浜、寺坂浜(成就院の下)、啓治浜(啓次浜)/田原川 – 6ヵ所/大堰川開削前の1596年(慶長元年)時点では30戸ない村だっが、船運による繁栄で近隣から人が移り住み、1707年(宝永4年)には77戸、1789年(寛政元年)には94戸・402人の町になった。兵右衛門、甚五郎、五郎兵衛、与兵衛などの廻船業者の名があり、その持ち船も10余船あり、鉄道開通まではその実権を握っていた。1799年(寛政11年)の丹波国大絵図には殿田について「山城嵯峨より殿田まで通船あり」と注されている。嵐山の千光寺の碑文には「嵐山から世木まで」と書かれている。
明治時代まで船が運行していたが、他の交通機関の発達によって船着き場の役目を終え、今では岩しか残っていない。幻の由良川・大堰川連絡輸送計画
江戸時代、大坂は全国から年貢米や物資が集積する都市として発展した。その背景には、17世紀中頃に河村瑞賢が開いた西廻海運の存在がある。この航路は、日本海側から下関を経て瀬戸内海を通り大坂へ至る海上輸送路であり、大量輸送を可能にした一方、冬季の日本海における海難事故や輸送日数の長さが課題となっていた。
このため、日本海側と京都・大坂方面を短距離で結ぶ輸送路として、由良川と大堰川(桂川)を接続する計画が繰り返し立案された。南丹市日吉町胡麻付近には由良川水系と桂川水系の分水界があり、この地点を陸路で結ぶことで、日本海側と淀川水系を連絡しようとしたの。
1759年(宝暦9年)には、京都の商人・長柄屋次兵衛らが通船計画を進めた。次兵衛が鳥羽村(現・八木町)に提出した文書には、「嵯峨川筋(大堰川)は殿田村まで、和知川筋(由良川)は黒瀬村(現・京丹波町下山)から丹後国由良湊(現・宮津市)まで」と記されており、由良川支流の黒瀬川(高屋川)沿いに舟着場を設け、黒瀬村から殿田村までを陸送する構想であった。しかし、この計画は幕府の許可を得られず、1770年(明和7年)および1776年(安永5年)にも同様の計画が提出されたが、いずれも実現しなかった。
1827年(文政10年)には、山城国淀の河村与三右衛門が新たな計画を提出した。綾部藩重臣・平和家に残る『通船之条目并問屋株訳書』(1830年)によれば、由良湊から由良川を遡上し、福知山・綾部を経て黒瀬まで通船し、畑川(黒瀬川の水源)の鷹巣で陸揚げしたあと、胡麻川の隅田(現・胡麻駅付近)までの16町(約1.745km)を牛馬で輸送、再び舟積して殿田村から大堰川へ連絡する計画であった。
この計画では、由良湊、福知山、綾部、黒瀬、殿田、嵯峨、京都、大坂の八か所に番所を設置し、船株・車株による運営体制を整備することが定められていた。また、由良湊から京都・大坂までの距離、荷物運賃、船頭・水主の賃金なども詳細に規定されていた。
河村家は1770年(明和7年)にも同様の計画を提出していたが、幕府の許可は得られなかった。そのため文政年間に再出願が行われ、1828年(文政11年)にかけて幕府役人による実地調査や沿岸村落との交渉が進められた。さらに1830年(文政13年)には、与三右衛門が「由良川筋新規取開通船支配」に任命され、由良川上流部で航路開削工事も実施された。しかし、通舟は一部区間にとどまり、由良川・陸路・殿田・大堰川を結ぶ全体ルートの開通には至らなかった。上河内・松尾・藁無との山論
1752年(宝歴2年)、殿田村と、現在の園部町船岡にあたる上河内村・松尾村・藁無村の三ヵ村との間に山論が起きた。発端は、三ヵ村の入会山(共同利用の山)であった斧本山(よきもとやま)に、殿田村の住民たちが境界を越え、新たな道を作って芝草を刈り取ったことによる。殿田村は斧本山に「はかの尾」と名付け、「いぼ石」の道境まで自村分と主張した。
三ヵ村は殿田村に問いただして、数回にわたって双方の村役人らの間で話し合いが行われたが解決に至らず、奉行所に訴えることになった。
三ヵ村が主張したのが、1707年(宝永7年)の岡田村との山論において、京都町奉行所より下された裁許の結果。このときは奉行が検分を行い、係争地以外も東西南北の山境を確認して裁許を下したもの。この争論時には村境を示す絵図が作成された。殿田村との山論でもこの絵図も証拠のひとつとして利用されたであろう。殿田村と三ヵ村の争論の結末は史料を欠き明らかになっていない。殿田村一件
1809年(文化6年)の殿田村で、藩政の末端であった庄屋や町年寄による村政疑惑に対して村民から園部藩に改革を訴えた一件がある。
殿田村は、水運業により船井郡で最も高額所得の村だったが、天明の大飢饉(1782年~1788年)以来不況が深刻化。村民は、減らない高税(最高時7割)に苦しんだ。百姓たちは新田開拓費・庄屋事務費・村落行事明細などで村政に不信感を抱き、「役人が杜撰な記帳で役得を稼いでいる」と言って税滞納が長期化し高額となっていた。
一揆には至らず、船越喜平次を中心とした代官添役の庄屋が村役人と百姓の仲介役を務めて和解・落着した。伊能忠敬測量隊
伊能忠敬第8次測量隊の永井甚左衛門を隊長とする支隊が1814年(文化11年)4月13日、丹波国測量道中の殿田村で郷士の井尻五郎兵衛と井尻甚七の家に止宿した。昼休は千手間総八。殿田村以降の支隊経路は、浮井村、細川下村、小野郷上村、紫竹大門村千束、京都神泉苑町だった。
<支隊の経路:八木村 → 殿田村 → 細野下村 → 小野郷上村 → 鷹峰千束町 → 京都>弓
源頼政などとの関わりから、丹波国は古から弓が盛んだった。殿田にも明治時代まで弓場や馬場があり、今でも地名として残っている。平安神宮(京都市左京区)の時代祭で行列の最後尾となる桑船弓箭組列は、平安遷都1100年記念事業で始まった初回の1895年(明治28年)から1942年(昭和17年)まで、世木村の住民で構成された中八幡神社の八幡講の男子が中心となり勤めていた。その名残で、今でも南丹市立殿田中学校の校章のモチーフに三本の矢が使われている。
※桑船弓箭組とは、戊辰戦争(1868年)の際、新政府鎮圧軍として馬路村に駐留した西園寺公望のもとに集まった丹波の郷士を中心とする弓射連中らで、「弓箭組」と命名され山陰道鎮撫使に随行した。さらに昔の桓武天皇の平安遷都(794年)の際にも護衛で弓箭組の列隊があり、こちらが時代祭のモデルとされる。マンガン景気
日吉町域のマンガン鉱は「殿田マンガン」と呼ばれ、電池用の二酸化マンガンと製鋼用の炭酸マンガンに大別された。電池用は製鉄用に比べて3培の高値だったが、生産量は1割程度であった。殿田駅(現・日吉駅)周辺には、マンガンの選鉱所や、労働者のための飯場(はんば)があった。マンガン景気で、殿田駅前の料亭では、鉱石の取り引きや接待で昼間から三味線の音が聞こえたという。
丹波盆地、三陸海岸地帯、宇和島は日本におけるマンガン三大産地とされていた。丹波マンガンは、不純物のリンや硫黄が少ないことから、戦争拡大による重火器の増加と産業発展により採掘が拡大し、日本一の採掘量と鉱山数になった。殿田鉱山(新鉱業開発)など277ヵ所ほどの鉱山数があり、かつての日吉町・美山町・京北町・丹波町の範囲で、1889年(明治22年)から1983年(昭和58年)までに1万5,000~2万の坑道が掘られた。丹波マンガンの鉱山労働者は3,000人に及んだ。日吉町でも鉱山労働者の多くが被差別部落の人たちで、朝鮮人や中国人の動員、山林を持たず農地も少なく生活の糧を求める地元住民も働いた。
日吉町では、戦前大日本帝国陸軍が管轄していた帝国マンガン(のちの昭和興業)と辻中鉱業が主に集鉱していた。山陰線を丹波マンガン産地に寄せるために設けられたのが殿田駅で、駅にマンガンの集積所が作られた。駅前には選鉱所ができ、日本通運や丹波貨物が鉄道で鉄鋼各社に運送した。
朝鮮の解放後、1945年(昭和20年)に在日本朝鮮人連盟が結成され、マンガン労働者の飯場を拠点として朝連の日吉町殿田支部が活動した。
外国から安価なマンガンの輸入が増え、マンガン鉱山はしだいに衰退し、1965年(昭和40年)ごろになると鉱石も枯渇して採掘割れとなり、日吉の鉱山は1970年(昭和45年)には姿を消した。丹波で最後に残った新大谷鉱山(北桑田郡京北町。現在の京都市右京区)も1983年(昭和58年)に閉山した。戦争遺跡
殿田にも防空壕や記念碑などの戦争遺跡がある。
防空壕/小牧山の日吉神社の山道入口(殿田西小牧)にある地蔵の裏に防空壕が残っている。防空壕の横、地蔵との間には、禪徳院忠道清節居士と彫られた碑がある。
井尻昌三碑/日吉神社境内にある石碑には、明治以降に殿田で最初に戦死した井尻昌三の名前が刻まれている。
“表面:陸軍歩兵上等兵 功七級 勲八等 井尻昌三碑/裏面:明治参拾七年九月参日 於遼陽(中国東北部にある遼寧省の都市)戦死 父井尻土岐之助建”/天若従軍記念の碑/天稚神社の境内に従軍記念の石碑と、その隣に天若の従軍者20名の名前が刻まれた石碑がある。1896年(明治29年)4月3日の建立と彫られている。
世木村忠魂碑/1919年(大正8年)に建立された忠魂碑が、成就院の隣接地にある。世木村忠魂碑または日吉町世木地区忠魂碑と呼ばれている。南丹市内に22ある忠魂碑の中で6番目に古い。碑文は、帝国在郷軍人会の川村景明会長によるもの。
台石は、旧世木小学校前の川から引き上げ、世木村青年団や各部落の人が日役(住民の共同作業)で運搬された。建立まで約1年間にも及ぶ作業だった。
忠魂碑を挟むように4基の石碑があり、明治の戦死者7名、昭和の戦死者113名の名が刻まれている。そのなかで、太平洋戦争前後に戦死した殿田出身者は30名。船井初の女医・吉田医院開業
船井郡で初となる女性医師・吉田八重野によって1916年(大正5年)、吉田医院(現・殿田尾崎8)が開業した。
吉田医院の開業当時、診療は内科・小児科・産婦人科で、地域住民を対象とした医療を担った。記録によれば、舞鶴・福知山・京都方面からも受診者があったとされ、広域からの利用がみられた。
船井郡世木村殿田には、八重野と同時期の医師として、1920年(大正9年)に京都府立医学専門学校(現・京都府立医科大学)を卒業した内外科医・国栖教量もいた。
吉田八重野/世木村の吉田八重野は、口丹・中丹地域初、京都府では第5号の女医。
吉田家は代々医家の旧家で、祖父・半之丞まで医業を継いでいたが、父・彦七は農業に従事した。八重野は1886年(明治19年)8月24日、次女として生まれた。彦七は早世し、彦七の弟・半之丞が家を継いだが、遺産は十分でなく、姉妹を連れて京都へ移住し、郵便局員らの簡易宿泊所を営んで生計を立てた。
姉は新庄村(現・南丹市八木町)の西村平太に嫁いだ。八重野は家の再興を志し、大学病院で看護婦として働きながら学ぶが思うように進まず、上京して書店に奉公しつつ語学の勉強に励んだ。そのあと、牧師の家に奉公することになった。そして自分の胸の内を話したことから、牧師の同情を得て独学を続け、前期医術試験に合格する。
1911年(明治44年)、日本医学専門学校(現・日本医科大学)を卒業し、翌年8月に医術開業試験に合格(登30413号)。以後、東京の愛国婦人会育児院小児科、杏雲堂医院内科、神戸市鳥越病院産婦科に各1年勤務。1916年(大正5年)、29歳で胡麻郷村保野田に吉田医院を開業し、叔父の半之丞と同居した。
開業後は医業のほか、学校医、戸主会顧問、基督教婦人矯風会支部長、京都府教育委員も務め、育児法研究を趣味とした。1941年(昭和16年)に死去。珪石の採掘
京都府から兵庫県にかかる丹波地域で採れる珪石は、二酸化ケイ素が95%以上で純度が高く、「丹波珪石」と呼ばれて製鉄用コークス炉などの耐火煉瓦に使われていた。
殿田地区にある珪石の鉱床は1930年(昭和5年)前後または1937年(昭和12年)ごろに開発されたといわれている。殿田にあるのは、丹波の他地区の鉱床と同じく、上盤のチャート層と下盤の輝緑凝灰岩層との間の、レンズ状ないし層状の鉱床。丹波赤白珪石の酒梨市島地区・多紀郁地区・芦淵川合地区の鉱床群に比べて鉱石の品質が悪く、鉱量も乏しかった。しかし、大向山や、その近くの船岡山は、鉱床の規模が大きく、品位も良好のため、殿田地区のほかの鉱床が休山や終山するなか、開発当時から断続しながらも稼行が続けられていた。
殿田地区で最大の鉱量だった大向山では1953年(昭和28年)ごろ、山口薫三郎が露天掘りや坑道掘りで稼行し、労務者8名で月産150t、日新耐火工業株式会社に送鉱されていた。その後、閉山した。殿田の大火
1941年(昭和16年)4月27日(日)、当時130軒ほどの殿田で、その大半となる家屋104軒(蔵や納屋を含めると226棟)が熱失し600人を超える被災者を出す火災が発生した。この火災で、園部町船岡に続く山林50haも延焼した。
出火の原因は、12時38分に殿田駅を出発した京都駅行の蒸気機関車が殿田小牧町を通過した際、汽車の煙突から出た火の粉が路線そばにあった散髪屋の茅葺き屋根に落ち、強風にあおられて燃え上がったとされている。
住居を失った人たちは、世木国民学校や青年道場、神習教敬神廣春支教会、丹波教会殿田会堂、親戚縁者宅などに避難した。大火直後の殿田区長に吉田正夫が就任。正夫直系の家には大火に関する資料が保管されている。
復興に際して義捐金は集まったが、資材不足の影響もあり、町の形が整うまでに約3年を要したという。
防火設備の義務化/大火を教訓として殿田では家屋を建築する際に「隣家に面する側に防火設備を設ける」ことになり、具体的な条件が義務化した。
袖壁(そでかべ)という外壁を両側に付ける。
屋根の軒も木に火が付かないよう土で塗り込める。
家は道から二尺(75.8cm)引いて建てる。
数軒おきに田原川に避難ができて消防車も通れる道を造る。
貽訓石(いくんせき)/大火から一年後の1942年(昭和17年)春、祖先が子孫のために残す教えを意味する貽訓石が小牧町の出火跡に建てられた。彫られた筆字は、当時の京都府知事 安藤狂四郎によるもの。碑文には次のことが記されている。
“此の火滅すと雖も、且つは放心する勿れ 無災を恃まず、用意の深きを恃め”/語りべ人形/「殿田の大火」の証言を伝えるために作られた高さ50cmほどの6体の人形。殿田の歴史を考える会の依頼により、日吉町在住の人形作家・空閑早百合が2023年(令和5年)に制作したもの。小学6年生で大火を経験した住民の話がモデルとなっている。住民を対象に、人形を使った証言朗読会が行われている。日吉ダム建設に伴う移転
1961年(昭和36年)に建設省は、洪水調節・不特定利水・水道用水供給の機能を持つ多目的ダムを作る計画「宮村ダム構想」(のちの日吉ダム)を発表した。それに対して住民は、188世帯が水没することに反対して日吉ダム対策協議会天若同盟を結成した。24年間の反対運動の末、1984年(昭和59年)9月に補償交渉が妥結した。1987年(昭和62年)に日吉ダム離村式が開かれた。
1988年(昭和63年)2月25日に移転が完了した。移転したのは、水没する宮村、世木林、沢田、楽河、上世木の5集落と、隣接地の中村、小茅の2集落の家など154世帯499人。集団移転が95世帯(天若67、中村28)、個人移転が59世帯(天若54、中村5)で、集団移転先の一つが殿田の一画(前田と旭山)。世帯のほか、天稚神社、平尾寺、盛林寺、墓碑、文化財などが殿田に移転した。他所には、日吉町中にあった八幡神社が、日吉台から少し離れた亀岡市大井町小金岐に氏神として移転。上世木にあった小雨若神社は日吉町保野田に移転している。
1988年(昭和63年)に日吉ダム着工、1998年(平成10年)に竣工、ダム湖(天若湖)に274haが水没した。天若湖アートプロジェクト
天若湖アートプロジェクトは、日吉ダム建設によってできた天若湖(ダム湖)の場所に住んでいた人たちの思いや、社会の在り方についてアートを通して考える取り組み。京都造形芸術大学の大学生の提案で2005年(平成17年)から始まり、毎年夏に行われるメインプログラムの「あかりがつなぐ記憶」では、天若湖に水没した5つの集落(宮村、世木林、沢田、楽河、上世木)にあった約120家の灯りをLEDライトで再現している。同プロジェクトの一環で、殿田西小牧にあった旧・日吉郵便局の建物が「殿田郵便局ギャラリー」として活用されたこともある。
令和の田原川流出事故
殿田は令和に入ってから2度、重油や廃液の流出事故で水道が断水している。流出原因となった両事業者からの住民への賠償などはなく、流域の自治会による抗議などが行われた。
令和第一流出事故
農用重油流出事故 農業用温水施設のタンクから田原川支流の深山川上流に重油が流出する事故が、2020年(令和2年)10月21日に発生。田原川から取水している殿田・片野・和田の3浄水場が停止した。
令和第二流出事故
製紙工場廃液流出事故 日吉町殿田浄水場取水箇所上流の田原川沿いにある製紙業工場から廃液が流出する事故が、2022年(令和4年)2月24日に発生。事故を起こしたのは神奈川県茅ヶ崎市に本社を持つ大村紙業株式会社の段ボール製造工場で、流出した廃液には銅などの重金属が含まれるインク成分が混じっていた。
この事故により、殿田浄水場の給水区域(日吉町殿田、保野田、志和賀など)で水道が最長で7日間断水した。ほかにも3小中学校での給食提供中止、飲食店や道の駅スプリングスひよし温泉施設の休業、給湯器の故障などの影響があった。
南丹市は大村紙業に「地域の方に対しては誠実かつ適切な対応をされるよう」と要請した。特に影響があった殿田を中心に3区連名で大村紙業に直接の説明や謝罪、各世帯への賠償が求められたが、1年後に各区(組織)に数万円ずつの寄付があるに留まった。曹源寺和尚が伝えた蛭除の秘法
江戸時代、現在の兵庫県丹波篠山市当野から大沢にかけての9つの村(大沢新・初田・犬飼・矢代奥・矢代口・矢代新・波賀野・当野・栗栖野)の田圃は、そのほとんどが泥田で、数多くのヒルが生息していたという。
春になると、多くの女性たちが田植えに精を出したが、ヒルのいない村から嫁いできたばかりの女性は、田に足を踏み入れるなり悲鳴を上げ、畦へ跳んであがる始末だった。足はもちろん、手にまでヒルが食いついて血を吸う有様で、村の人たちは困り果て、何か良い方法はないものかと口々に話していた。
そんな折、大沢村の庄屋・杉本直右衛門は、船井郡殿田の曹源寺に戒誉和尚という禅僧がいて、「蛭除けの秘法」を知っているとの噂を耳にする。直右衛門はさっそく殿田を訪ね、和尚からその方法を授かった。その秘法とは、石造の地蔵菩薩を建立して蛭除けの本尊とし、災いとなるヒルを退けてくれるよう祈願するというものであった。
村へ戻った直右衛門は、ヒルに悩む10ヵ村の役員に会合を呼びかけ、その席で秘法を伝えた。これを聞いた役員一同は賛成し、建立場所を相談した結果、10ヵ村の田が見渡せる矢代村(南矢代)石ヶ坪の山裾にある通路の上で、三尺五寸四方に決定した。しかし、藩の許しなく勝手に菩薩を建立するわけにはいかず、10ヵ村の役員それぞれが印判して「蛭除け地蔵尊建立願い状」を南組の代官宛に差し出した。
1830年(文政13年)に、願いは許可され、さっそく石ヶ坪の山裾に通路より何段かの石段造り、蓮花台の上に地蔵菩薩像を祀った。像は地蔵としては珍しい半跏像で、台石正面には「地蔵菩薩」、右側面には「大沢村、同 新村、初田村、犬飼村、矢代奥村、同 口村」、左側面には「矢代新村、波賀野村、栗栖野村 文政十三年 三月吉日」と刻まれた。開眼法要には、戒誉和尚を招き、村人たちも大勢参列して厳かに行われた。
地蔵を安置して以降、ヒルは次第に退散し、やがて広い耕地から一匹も見られなくなったという。
かつては地蔵の前を道が通っていたが、現在は鉄塔の下、笹薮に覆われている。それでも地蔵の周囲は、地元住民によって年に3・4回草刈りが行われ、赤いよだれ掛けや線香、花などが供えられている。
現在、地蔵の頭部は失われている。首に合格祈願のご利益があるとの噂を聞いた受験生が、もぎ取って持ち去ったという。大道法師の足跡
大道法師はダイダラボッチとも呼ばれ、富士山や琵琶湖を作ったと伝えられる伝説の巨人。殿田中学校の裏山の山頂には、殿田側では旭山、木住側では七郎ヶ谷やイワシヶ谷と呼ばれる地名があり、その一帯には「世木の砦」とも呼ばれる、木住トンネル付近まで広がる平坦な場所がある。そこにあった大きな沼地の窪みは、大道法師が丹波を通った際に残した足跡であると伝えられている。このとき、大道法師は船岡方面から訪れ、田原へ向かって歩いたとされる。
この沼には木が一本もなく、どれほど日照りが続いても乾くことはなかったという。かつては松山であったが、現在は松も枯れ、倒木と雑草に覆われている。今では大きな沼地を見ることはできず、小さな水たまりが点在するのみ。仏坂の阿弥陀石
車橋西側の山中に、「南無阿弥陀仏」と書かれた石碑がある。山賊に殺された人を悼んで村人が建てたとされ、石には殺された人が化けて出たと思い山賊が刀で切りつけた跡が残っている。
世木の関助
「世木の関助(かんすけ)」こと山口関助廣政は慶安年間(1648年~1652年)に殿田で生まれ、身長六尺二寸余り(約190cm)の大男で、怪力で知られ渡っていた。志和賀の山口村で山口熊太郎の先祖の家に白炭運搬の人夫として居候、その時に娘を嫁にして山口姓をもらったとある。関助に関する逸話がいくつも残っている。
俵を背負った牛を持ちあげた。
園部藩の藩主・小出(こいで)が参勤交代で江戸から帰途、園部町内を通っていた時、五斗俵2個を背負った牛を農夫が牽き進んできて立往生となった時の話。殿様の同心役が大声でしかるも牛は徘徊するだけのところ、関助が進み出て俵を負ったままの牛を両手で持ち上げ道端に避けて行列が通れるようにした。これには関助が雄牛に米俵2俵を積んで園部へ出る際に立壁で厄神参拝の小出と出会った時に起こったできごととしての言い伝えがある。関助18歳、これによって関助は小出家に仕えることになったとある。
竹を引き抜いた。
園部藩で竹藪を開墾する際、各地から多くの人足が集められが、殿田からは関助ただ一人。しかも、他の人足が働いている時も一向に仕事せずにいたことから、人々が不思議に思って咎めたところ、やおら身を起こして竹を難なく引き抜いた。これには役人や周りの人も大変驚き、これを聞いた小出が、関助の怪力を愛でて藩のお抱えにしたという。
紀州からの申し出/江戸で力競べが行われた際も関助の右に出る者はなく、これを見た紀州が小出に関助を譲り受けたいと申し出たという。
関助の長刀奉納/関助没後の1723年(享保8年)3月、嫡子の山口勘兵衛門は関助が所持していた三尺五寸(約110cm)の長刀一振りを園部の生身天満宮に奉納した。その刀は現在も生身天満宮蔵に保管されている。また、殿田の小牧山観音堂と行者山にも各一振りの長刀を奉納したとあるが、今では見ることができない。孕み猿の祟り・猿の禁猟
梅若と猿に関する類似した2つの伝承がある。
猿を殺したバージョン
上野山(東旭山)の中腹には、丹波猿楽で知られる梅若実延の屋敷があった。ある大雪の日、実延が庭を眺めていると、松の陰に大きな猿がうずくまっているのを見つけた。弓で矢を射かけようとすると、大猿はしきりに自分の腹を指さし、慈悲を乞うかのような素振りを見せた。しかし実延はこれを無視して矢を放ち、大猿を射殺した。死骸を縁側に運んでよく見ると、その猿は身重であった。以来、梅若家には不幸が続き、ついには没落して江戸へ移り住んだと伝えられている。
この話には続きがあり、篠田市兵衛が五十二世梅若六郎に伝えた話として梅若実日記に猿のことが次のように記されている。
“梅若家のご先祖、当地の山で年老いた猿を鉄砲で撃った時から身体に痛みを覚えるようになり、それが原因で丹波から江戸までの勤めが難しくなり江戸に引き移ることになってしまいました。土地の守り神、山王権現(日吉神社)の怒りに触れたのだと、その時から村一帯では今に至るまで猿の猟を禁じているのだと聞いています”猿を殺さなかったバージョン
江戸期に入ると、梅若家では不幸な出来事が相次ぎ、玄洋は世木の庄を去って江戸へ移り住む、いわゆる「丹波落ち」を決意した。そう決心したある冬の朝、珍しく大雪が降り積もるなか、玄洋が屋敷から雪景色を眺めていると、庭の老松の陰にうずくまる大きな猿の姿に気づいた。玄洋が弓矢を手に取り猿へ狙いを定めると、猿はしきりに自らの腹を指さして命乞いをした。猿は子を孕んでいる様子であり、そのため玄洋も矢を放つことはできなかった。すると猿は玄洋のもとへ歩み寄り、「玄洋様との別れを惜しんで参ったのです」と涙ながらに語りかけたと伝えられている。
梅若の井戸は城の抜け穴
口伝では、旭山の梅若家屋敷跡に残る古井戸は園部城や亀山城とつながる抜け穴だという。
継岩の白大蛇
江戸時代、船岡上河内に千手間惣八という長者(金持ち)の油屋がいた。ある日、殿田へ油を売りに行った帰り、継岩あたりまで来たとき、髪の長い、透き通る様な色白の美女が現われ、「この小重箱を、川下の金輪ヶ渕のカナゴ岩まで届けておくれ。決して途中で開けたり、カナゴ岩に取りにくるところを見届けてはなりません」といって継岩の中に消えていった。惣八は、あまりの不思議に怖くなり、言われた通りに、カナゴ岩の上に小重箱を置き、わき目もふらずに家に帰った。それからしばらくして、惣八の店へ、毎日毎日、同時刻、同数量だけ、酒を買いに来る、みすぼらしい乞食坊主がいた。惣八は不思議に思い、ある日とうとうその跡をつけて行った。金輪ヶ渕のカナゴ岩まで来た乞食坊主は、その岩に消え、静かであった渕の底から、突然大きな水音と共に、白鯰が現われ、しかも先ほどの乞食坊主の声で「千手間惣八よー、おまえの長者もこれで終わりじゃー。わしはこの渕に古くから住む白鯰であるぞ、小重箱を手渡した美女は継岩に住む白大蛇じゃー。おまえは見てはならぬ正体を見てしもうたー」と再び渕に姿を消し、川面は静まりかえった。その後、千手間家は没落し、大正時代に船岡から消えてしまったという。
継岩/殿田と園部町船岡の境付近(桂川左岸。山陰本線第一大堰川橋梁よりやや上流)に、継ぎ目が入った大岩がある。
カナゴ岩とスッポン岩/カナゴ岩は、山陰本線船岡第二大堰川橋梁(桂川)の上流(園部町船岡)にある。この辺りの水は涸れたことがなく、旱魃の時は渕に棲む白鯰に頼めば雨を降らせてくれるという伝承がある。別の伝承として、カナゴ岩の横のスッポン岩に大きなスッポンが棲んでいたが、ある時、新八という商人が捕獲し、するとそれから新八の店は徐々に廃れていったという話がある。交通:道路
主要地方道の京都府道50号京都日吉美山線が世木地区と胡麻郷地区を結ぶ幹線道路で、そこに繋がる各南丹市道沿いに殿田地内の住宅や商店が建ち並んでいる。
府道
以下、殿田にある京都府道。
主要地方道
京都府道19号園部平屋線/殿田区間で桂川と並走している京都府道。道の駅スプリングスひよしから日吉大橋までの約1km区間(大向山側)に、石垣とその上に設けられた生垣がある。生垣には、シモツケ、ビョウヤナギ、レンゲツツジ、ミツバツツジ、キリシマツツジ、ユキヤナギなどの低木と、小高木のヒサカキが使われ、樹木名の看板が設けられている。船岡~殿田区間の交通量は12時間で5,978台(2021年)。
重複区間/小道津大橋付近の三叉路(日吉町中)から殿田交差点までが府道50号との重複区間になっている。
事前通行規制区間/園部町船岡から日吉町殿田までの区間3kmが事前通行規制区間になっている。殿田新葉と園部町船岡吉坂に垂直式の交通遮断機が設置されている。詳しくは#事前通行規制を参照。
電光掲示板/桂川右岸(日吉大橋付近)にLED道路情報板のHLM7形電光掲示板が設置されている。
京都府道50号京都日吉美山線/嵯峨野から殿田を経て美山町三埜に向かう京都府道。鏡峠(日吉町と美山町の境界)は通行できない。
重複区間/小道津大橋付近の三叉路(日吉町中)から殿田交差点までが府道19号との重複区間になっている。
殿田交差点から保野田踏切付近(日吉町保野田)までが府道80号との重複区間になっている。
街路灯 – 殿田区間なし。
南丹市立殿田中学校前の信号機から尾﨑橋前の信号機までの約350m区間に殿田商友会が防犯灯を設置していたが、京都府の管理河川・田原川の上空を横断して電線が張られていたことから生じる河川占用の問題と、電気代、修繕代などの経費の問題により維持管理が困難となり撤去された。現在、商友会設置の防犯灯の跡として鉄の支柱が残っている。
殿田トンネル/府道80号との重複区間にある、殿田東筋と殿田東小牧を繋ぐトンネル。1999年(平成11年)3月竣工、全長300m、幅員10m、高さ4.7m、片側一車線、トンネル等級D。トンネル内ラジオ再放送設備と無線補助設備がある。吉村建設工業株式会社・株式会社第一土木・株式会社国元組の共同企業体によって、新オーストリアトンネル工法(NATM工法)で施工された。トンネルの北側(殿田橋付近)に縦型の電光掲示板が設置されている。
地下横断歩道/府道による集落の分断を防ぐため、府道下に東筋および前田の東西を結ぶ地下横断歩道が設けられている。名称不明。
街路樹 – サルスベリ/花壇/日吉駅から尾崎橋の歩道に花壇が10個設置され、殿田を美しくする会が花植えを行っている。
京都府道80号日吉京丹波線/殿田交差点から志和賀を経て京丹波町下山に至る京都府道。旧名称は日吉丹波線。
重複区間/殿田区間の全てを含んで、殿田交差点から保野田踏切付近(日吉町保野田)までが府道50号との重複区間になっている。府道にある信号機
大向の殿田交差点/大向橋北詰/新旭橋西詰/尾﨑橋西詰
市道
小学生の登下校時間、市道の制限速度は時速30Kmになる。市道の街路灯は全てLED照明で、電気代は殿田区自治会が負担している。
以下、殿田にある南丹市道。
南丹市道大貝線/南丹市道日吉駅前片野線/南丹市道殿田旭山線/南丹市道殿田中学校線/南丹市道殿田線/けた下制限 – 第二殿田川橋梁との交差部分の通行は、高4m制限になっている。
カラーライン – 通学路にもなっている曹源寺橋から殿田踏切までの区間の路側部には、黄色のゾーン線が引かれている。
南丹市道殿田町筋線/可搬式速度違反自動取締装置(オービス)による速度取締りが行われることがある。
南丹市道殿田志和賀線/南丹市道前田線市道にある信号機
殿田線と殿田町筋線が交わるT字路
橋梁(跨川橋)
桂川(大堰川)に架かる橋/大向橋歩道橋(おむかいはしほどうばし)/大向橋上流に併設された人道橋。
大向橋(おむかいはし)/2000年(平成12年)10月に架設された京都府道50号京都日吉美山線のガーダー橋。道路橋(車道橋)と人道橋が分離して架けられている。
日吉大橋(ひよしおおはし)/1990年(平成2年)9月に架設された京都府道19号園部平屋線のガーダー橋。上部構造に、フィンガージョイント型の伸縮継手が3ヵ所設けられている。橋の東詰にかつてあった木彫の門には、「地域に開かれた日吉ダム」や「歓迎 ようこそ日吉町へ」などと書かれた看板が付けられていた。
木住川に架かる橋/木住川にある橋のうち次の3本は、橋の中心に日吉町殿田と別大字の境があり、橋の住所を示す際には左岸地を適応するため、正式には殿田の橋ではない。
笛吹橋(ふえふきはし)/1988年(昭和63年)7月に架設された京都府道19号園部平屋線のガーダー橋。上部構造の伸縮継手は、フィンガージョイント型。左岸が日吉町木住、右岸が殿田となっている。
宮の平橋(みやのひらばし)/1988年(昭和63年)8月に架設された京都府道19号園部平屋線のガーダー橋。上部構造の伸縮継手は、フィンガージョイント型。左岸が日吉町中、右岸が殿田となっている。
小道津橋(ことづはし)/1991年(平成3年)7月に架設された市道殿田町筋線のガーダー橋。上部構造の伸縮継手は、簡易鋼製型。左岸が日吉町中、右岸が殿田となっている。
橋長 :18m/径間数 :1径間/幅員 :8.2m/田原川に架かる橋/大貝橋(おおがいばし)/1996年(平成8年)5月に架設された市道大貝線の単純鈑桁橋(ガーダー橋)。海岸線からの距離は25m。建設時、桁端部にタールエポキシ樹脂塗料が使われた。
橋長 :26m/径間数 :1径間/幅員 :6.2m/新旭橋(しんあさひばし)/1984年(昭和59年)に架設された市道殿田中学校線のガーダー橋。上部構造の伸縮継手は、簡易鋼製型。旭橋と表記されることもある。
橋長 :28m/径間数 :1径間/幅員 :7.2m/旭橋歩道橋(あさひばしほどうばし)/1977年(昭和52年)3月に架設された市道殿田中学校線の人道橋。新旭橋の下流に併設されている。
橋長 :29m/径間数 :1径間/幅員 :4.8m/殿田橋(とのだはし)/1997年(平成9年)3月に架設された京都府道50号京都日吉美山線のガーダー橋。上部構造の伸縮継手は、フィンガージョイント型。
日吉橋(ひよしはし)/1936年(昭和11年)8月に架設された市道殿田町筋線のガーダー橋。上部構造に、フィンガージョイント型の伸縮継手が4ヵ所設けられている。
橋長 :37.2m/径間数 :3径間/幅員 :6.3m/重量制限:12t/車橋/1986年(昭和61年)に架設された市道殿田志和賀線の橋。
橋長 :31m/径間数 :1径間/幅員 :2.8m/無名の橋(12号橋)/1985年(昭和60年)に架設された殿田イチバ88番地先にある市道殿田志和賀線の橋。無名のため、通し番号で12号橋と記載されることもある。
橋長 :5.1m/径間数 :1径間/幅員 :3.4m/曹源寺橋(そうげんじばし)/1933年(昭和8年)12月に架設された市道殿田線の橋。梅若家の菩提寺・曹源寺の門前に架かり、欄干柱には、丹波猿楽にあやかって切り絵風の能の絵が四種類(玉鬘、鵜飼、田村、百万)あしらわれている。字は、殿田に住む中川昭夫が書いたもの。
2025年(令和7年)10月、劣化していた欄干柱が南丹市立殿田中学校の生徒によって塗り直された。
現在の橋の少し下流に、旧・曹源寺橋と思われる欄干が残っている。欄干に書かれた架設年は、現・曹源寺橋に書かれたものと同じ1933年(昭和8年)12月。
橋長 :33.1m/径間数 :3径間/幅員 :7.3m/重量制限:12t/前田橋(まえだばし)/1988年(昭和63年)3月に架設された市道前田線の単純トラス橋(ワーレントラス)。上部構造の伸縮継手は、フィンガージョイント型。海岸線からの距離は35m。水資源開発公団の発注で株式会社巴組鐵工所が施工。発注時(1986年)の名称は田原川橋(たわらばし)だった。
橋長 :63m/径間数 :1径間/幅員 :6m/胡麻川に架かる橋/胡麻川隣接の南丹市役所日吉支所(南丹市日吉町保野田)から胡麻側の合流地点までの約450mの区間に15本の小橋が架かる。ほんどが個人所有の橋。15本のうち殿田区間は5本で、名称表記があるのはBEL-MAISON新生橋と尾﨑橋の2本。
名称不明 – 旧まるやま前/名称不明 – 吉田医院前/名称不明 – 船越宅前/BEL-MAISON新生橋/橋の上にごみ回収用のコンテナが設置されている。コンテナ付近に捨てられたごみがしばし見られ、川ごみの発生源となっている。対策としてマンション(BEL-MAISON新生)に監視カメラが設置された。
尾﨑橋(おざきばし)/1971年(昭和46年)3月に架設された市道日吉駅前片野線の橋。公示の地名は尾崎だが、欄干には「﨑」の字が使われている。尾﨑橋がある横断歩道には、「園部町へ二里十二丁(9.16km)」と書かれた元欄干の道標がある。
橋長 :13m/径間数 :1径間/幅員 :8.1m有料道路
殿田に有料道路は通っていない。最寄りにある有料道路の乗降口は次の通り。
西日本高速道路(NEXCO西日本)/E9京都縦貫自動車道(国道478号)園部IC – 府道19号と園部町曽我谷で接続パーキングエリア
殿田に道の駅やロードパークなどの道路休憩施設はない。殿田と隣接する日吉町中に道の駅スプリングスひよし(園部平屋線府道19号)がある。
丹波梅若の道
市道殿田線の殿田踏切から前田橋南側の交差点までの約850mと、市道殿田町筋線の町筋三叉路から小道津橋までの約850mの計1.7kmの市道区間は、殿田区集落支援事業推進委員会の提案により、殿田の歴史と文化街道「丹波梅若の道」の愛称が付けられた。愛称の発表は、2023年(令和5年)9月26日に南丹市園部文化会館「アスエルそのべ」であった梅若家一門による“里帰り公演”で行われた。
2025年(令和7年)10月、丹波梅若の道の3ヵ所(殿田踏切付近、前田橋付近、大向橋と小道津橋の間)に、高さ約1mの花崗岩(御影石)の道標が建てられた。梅若家能楽師の梅若紀彰(二世)・梅若長左衛門・梅若景英が道標1基ずつに「丹波梅若之道」の文字を刻んだ。同月10日、殿田住民や能楽師らによる記念式典が開かれた。近畿自然歩道
日吉ダムと紅葉峠をめぐるみち/近畿自然歩道丹後・大阪ルートの区間で、日吉町駅から日吉ダムや紅葉峠を通り、南丹市八木町氷所にある東所バス停に至るまでの約18.1km。日吉駅から小道津までの区間は、五箇荘の里をめぐるみちと同じ。
歩行距離:18.1km/所要時間:6時間/難易度 :●●○(一般)/五箇荘の里をめぐるみち/近畿自然歩道丹後・大阪ルートの区間で、日吉町四ツ谷の四ツ谷バス停から、渓川筏乗、笛吹神社を通り日吉駅に至るまでの約11.5km。殿田区間は、小道津橋から梅若家旧墓所、日吉体験の森、殿田小学校を経由する日吉駅までの約2.4km。
歩行距離:11.5km/所要時間:3時間50分/難易度 :●●○(一般)丹波散策の道
丹波散策の道は、京都府自然環境保全課が府民公募をもとに指定した、亀岡市・南丹市・京丹波町・京都市北西部の3市1町を巡る総延長約250kmの散策路。殿田区間は、日吉町田原との境から殿田踏切を渡って丹波梅若の道を経由し、園部町船岡に至るまでの約2.5Km。そのうち、近畿自然歩道との重複区間は尾﨑橋から新旭橋まで。
京都丹波健康ウォーキングコース
京都丹波健康ウォーキングコースは、南丹地域の運動普及と健康長寿を目的にきょうと健康長寿推進京都丹波地域府民会議が選定した全21コース。その内の1コースが殿田にある。
日吉町コース/14番の日吉町コースは、日吉駅を出発・終着地点とし、殿田にある日吉神社、貽訓石(大火の記念碑)、曹源寺、大西堰、成就院、梅若家墓所を巡るルートになっている。会議が発行する「森の京都を歩こう!京都丹波健康ウォーキングマップ」には、ウォーキングの姿勢や効果と、各コースの見どころや消費する生理的熱量などが掲載されている。
歩行距離:約4.5km/所要時間:約1時間10分/消費カロリー:210kcal/トイレの場所:日吉駅、成就院木目調のガードレール
近畿自然歩道や丹波散策の道になっている、尾崎橋から新旭橋までの胡麻川および田原川の右岸と、殿田小学校から新旭橋までの田原川左岸に設けられたガードレールは木目調の塗装が施されている。
山道
仏坂/車橋からアチラまでの峠道。「南無阿弥陀仏」と書かれた石碑があることから「仏坂」と呼ばれている。
八栄(汁谷)や志和賀から殿田へ来る近道で、かつては春分・秋分の中日(ちゅうにち)に、道づくりを受け持っている中ノ町と石橋町が掃除や草刈りをしていた。
追手門道/東踏切から梅若家屋敷跡に向かう坂道。山道入口に梅若家周辺散策マップ看板が設置されている。
櫓門道/東町からの梅若家屋敷に向かう坂道に櫓門道という名が付けられていたが、今は道が塞がっている。
吉坂峠/殿田と園部町船岡を繋ぐ峠。新前山トンネル(JR山陰本線)の西にある。
上ノ道京都丹波サイクルルート
京都府の依頼で自転車ロードレース選手の田代恭崇が作成した京都丹波サイクルルートは、サンガスタジアム by KYOCERA(亀岡市)をメイン発着点、京都府立丹波自然運動公園(京丹波町)をサブ発着点とした全5コース。5コースのうち、次の2コースの一部に殿田が入っている。
八木日吉周遊サイクリング/桂川(大堰川)左岸に広がる田園を抜け、平の沢池や紅葉峠を経由し、日吉ダムを目指す周遊コース。
距離:50.7km/目安時間:3時間50分/獲得標高:693m/レベル:中級/京都丹波周遊ライド/日吉ダムを越えて京丹波町まで行き、るり渓や湯の花温泉街を経由する周遊コース。
距離:83.7km/目安時間:7時間15分/獲得標高:1,480m/レベル:中級/協力施設/殿田では次の施設が、京都丹波サイクルルートの協力施設として登録されている。
やさい畑カフェ アマンズガーデン/貸出サービス:サイクルラック、駐輪スペース、空気入れ、トイレ、休憩スペース外出支援サービス
殿田お助けたいによる、移動困難者のための外出支援サービスが行われている。外出支援の実施には、南丹市の訪問型サービスD事業補助金が活用されている。
鉄道
JR山陰本線/西日本旅客鉄道(JR)山陰本線は、船岡駅方面から新前田トンネルを抜けて殿田に入る。トンネル出口から第二殿田川橋梁までは、桂川に沿って高4m以上の盛土にレールが敷かれている。そのあと田原川と胡麻川に沿いながら進み、殿田を抜けて日吉駅に至る。
現在この路線は、胡麻方面から南丹市立殿田中学校への通学経路としても使われている。最寄り駅
府道19号の日吉大橋手前(園部町船岡側)と殿田交差点付近(大向営農組合前)、府道50号の日吉駅直前に胡麻駅と書かれた道路標識があるが、殿田の最寄り駅は日吉駅。その次は下りで、鍼灸大学前駅、胡麻駅と続く。
JR日吉駅 – 保野田市野1-4/日吉駅は、南丹市が乗車券類簡易販売を請け負う簡易委託駅。管理は福知山駅。南丹市日吉駅交流センターとの合築となっている。
船岡駅-3.7km-日吉駅-2.4km-鍼灸大学前駅駅直結の駐車場
日吉駅前駐車場 – 保野田市野6-9/月極および一時利用ができる南丹市営の駐車場。日吉駅に直結している。
橋梁
名称不明 – 殿田北谷口/レンガ造りアーチ橋。山陰線と府道50号を突き抜けて胡麻川右岸に注ぐ水路に架けられている。
第一殿田川橋梁 – 東小牧/単線上路ガーダー橋/田原川/第二殿田川橋梁 – 前田/単線上路ガーダー橋/田原川踏切保安装置
殿田踏切/京都駅からの距離:42km967m/種類:第1種甲/遮断機:直腕形 4基/警報灯:全方向型1対、両面型1対/警報音:電子音式/横断制限高:4.5m/東町踏切/京都駅からの距離:42km475m/種類:第1種甲/遮断機:直腕形 2基/警報灯:全方向型1対、両面型1対、片面型2対/警報音:電子音式/横断制限高:4.5m
トンネル
上野山トンネル/上野山トンネルは、馬蹄型アーチ状になっている単線の鉄道トンネル。全長177m。煉瓦はイギリス積み。ポータルには、付柱、笠石、帯石が備えられている。1910年(明治43年)8月25日の京都線(現・山陰本線)園部駅・綾部駅間の鉄道開通時からほぼそのままの状態で現在も使われている。1996年(平成8年)3月16日に園部駅・福知山駅間が電化し、巻厚の上部が削られてコンクリートで補強され、架線(電線)が取り付けられた。架線が低いため、上野山トンネルを通過する電車はパンタグラフを折りたたんだ低い位置の状態で走行する。
新前山トンネル/新前山トンネルは、1983年(昭和58年)に着工、1987年(昭和62年)に開通した単線トンネル。不動建設株式会社が施工し、工事には狭軌のBL機関車が使われた。撮り鉄スポット
次の2ヵ所が主な撮り鉄(鉄道撮影)スポットになっている。
東町踏切から殿田ふれあいパークまでの区間、線路沿いにある枝垂れ桜の並木/レンガ造りの第二殿田川橋梁と桜または、同橋曹源寺の紅葉路線バス
南丹市営バス/殿田内を南丹市営バスの世木線、日吉ダム線、美山園部線、五ヶ荘線がスクール混乗方式で運行している。各線の運送事業は道路運送法による自家用有償旅客運送で、交通空白輸送者に登録されている。
道の駅スプリングスひよしが休業の場合、日吉ダム線は運休する。日吉ダム線のうち、日吉駅 - 府民の森ひよし間を1日1往復している府民の森往復便は、デマンド型交通。日曜日および祝日の美山園部線は、殿田町バス停には向かわず、スプリングスひよしや小道津を経由する。
山一サービス/有限会社山一サービスが園部大橋 - 園部駅経由 - 明治国際医療大学間を運行している。かつての京阪京都交通明治国際医療大学線(45系統)で、2024年(令和6年)4月から山一サービスの運行路線となった。
京阪京都交通/京阪京都交通株式会社が桂駅東口(阪急電鉄) - 京都縦貫自動車道経由 - 明治国際医療大学間の明治国際医療大学線(77系統)は殿田内を走行するが、殿田に停車するバス停はない。バス停・系統番号
各線の系統番号と殿田内にあるバス停留所は次のとおり。
世木線 – 南丹市営バス/系統番号:H14、H15/殿田中学校前バス停/小牧町バス停/町筋バス停/東町バス停/日吉ダム線 – 南丹市営バス/系統番号:H16/殿田中学校前バス停/小牧町バス停/町筋バス停/東町バス停/美山園部線 – 南丹市営バス/系統番号:S60 、H60、H61、H62/殿田町バス停(月曜日-土曜日)/殿田中学校前バス停(日曜日・祝日)/五ヶ荘線 – 南丹市営バス/系統番号:S60 、H60、H61、H62/殿田町バス停(月曜日-土曜日)/明治国際医療大学線 – 山一サービス/日吉駅前バス停/なお、殿田中学校前は、南丹市市営バス運行管理規則の別表では志和賀線(H25)および胡麻線(G17・G18)の停留所として扱われているが、実際の運行ではいずれの路線も停車していない。南丹市デマンドバス
日吉町内では、南丹市から委託を受けたタニタクシー(日吉町胡麻)による市営デマンドバス「そよかぜ号」が運行している。料金は一律で、大人250円、小人130円。以下の全路線で日吉町内の主要施設(日吉駅、鍼灸大学前駅、明治国際医療大学附属病院、南丹市役所日吉支所、京都農業協同組合日吉支店)に停まる。なお、殿田地内には停留しない。
月・水・金曜日に運行する線/胡麻線 – 胡麻地域と主要施設間を運行/志和賀線 – 日吉町志和賀と主要施設間を運行/火・木曜日に運行する線/中世木線 – 東牧山・西牧山を含む日吉町中世木と主要施設間を運行/生畑・海老谷線 – 日吉町生畑および同町四ツ谷の藤岡五ヶ荘診療所、海老谷と主要施設間を運行タクシー
タクシーを運行する最寄りの事業者は、日吉町にあるタニタクシー(谷タクシー)。配車数は1台。ほかに、南丹市社会福祉協議会が原則医療機関および医院外薬局への交通手段として、日吉町内にて公共交通空白地郵送運送を行っている。
※京都みやび交通のタクシーは出発地もしくは最終降車地が美山エリアの場合のみ利用可。レンタサイクル
JR日吉駅レンタサイクル/南丹市日吉駅交流センターで、自転車利用申込書を提出して利用料を支払うことで、自転車を借りることができる。
空港
殿田内に空港はない。近隣(片道2時間以内)の空港は以下の通り。
大阪国際空港(兵庫県伊丹市、大阪府豊中市・池田市)/関西国際空港(大阪府泉佐野市・田尻町・泉南市)/神戸空港(兵庫県神戸市中央区)/コウノトリ但馬空港(兵庫県豊岡市)鉄道史
園部-綾部間の鉄道は最初、園部-須知-高原-桧山のコースを通る予定であった。しかし、須知町(現・京丹波町)など沿線諸村が反対したこともあり、郡会議員井尻良造(殿田)・府会議員木戸豊吉(上胡麻)らが地元住民を説得して路線変更に成功、殿田-胡麻-和知のコースを通ることになった。渋沢栄一らが働きかけた計画の当初(1893年ごろ)、京都から亀岡や殿田を経て綾部まで42哩(現・山陰本線の一部区間)と、綾部から舞鶴まで15哩(現・舞鶴線)の路線は、京鶴線(京鶴鉄道)と呼ばれていた。
1907年(明治40年)8月の鉄道国有法により、京都鉄道(現・嵯峨野線)は国有化され、1910年(明治43年)8月25日に園部-綾部間が開通した。鉄道開通記念樹として、殿田地内に3本のキササゲ(ハナキササゲ)が誰かの手によって植えられた。そのうちの1本は、日吉橋近くの田原川左岸(上ノ町)にある。殿田駅
殿田駅(現・日吉駅)は1910年(明治43年)8月25日、日本国有鉄道京都線の園部駅から綾部駅への延伸時に開業した。
殿田駅は当初、殿田前田にあった旧世木村役場の前に作られる計画だった。しかし、大堰川と田原川の合流点にあたるため見送られ、胡麻川の流れを東に寄せ変え、広場をつくり、現在の場所に駅舎が建設された。
開業当時から1960年代まで、マンガンや薪、木材、電柱、珪石などを中心に貨物の取り扱い量が多いのが特徴の駅だった。貨物取り扱いは、1984年(昭和59年)1月21日に廃止された。
1996年(平成8年)3月16日、胡麻駅との間に鍼灸大学前駅が開業するのに合わせてダイヤ改正し、直流電化が完成、殿田駅は日吉駅に改称した。小鶴線(未成線)
小鶴線は、殿田駅から美山町鶴ヶ岡を経て福井県小浜市の小浜駅に至る約57kmの鉄道路線として計画された。この路線は、京都と若狭(小浜)を最短経路で連絡する構想に基づくもので、1922年(大正11年)の改正鉄道敷設法において予定線として位置づけられた。計画経路は丹波山地を縦断し、知坂峠を越えて名田庄地域を通過するものであり、広域的な交通網整備の一環として構想された。また、この計画は京都と若狭を結ぶ鉄道構想を指す「京若鉄道」とも呼称され、沿線では同年に期成同盟会が組織されるなど、建設促進運動が展開された。
しかし、その後も建設は実現せず、1980年(昭和55年)の国鉄再建法により建設予算が凍結され、さらに1987年(昭和62年)の鉄道敷設法廃止に伴い正式に廃案となった。結果として、小鶴線(京若鉄道構想)は着工に至らないまま未成線となった。日満急行・小浜ルート(不許可線)
1933年(昭和8年)に発起人9名の連署で内務大臣と鉄道大臣の連名宛に申請された「日満急行」は、大阪から北上し、殿田駅付近を経由して日本海側の小浜線方面へ至る鉄道計画であった。
殿田付近で山陰本線との接続し、そこから北上して小浜方面へ抜ける「小浜ルート」が構想されていた。この区間については、既に鉄道敷設法の別表「京都府殿田附近ヨリ福井縣小濱ニ至ル鐵道」として将来の国鉄建設予定線が存在していた。
そのため京都府は、「殿田以北は国の予定線と重複していること」「山岳地帯であり民間企業による建設は困難であること」を理由に、日満急行の計画は適当ではないと判断した。最終的に日満急行の特許申請は不許可となり、殿田を経由する小浜ルートも実現しなかった。中丹鉄道建設計画(不許可線)
1923年(大正12年)2月24日、須知町(現・京丹波町)の岩崎平造ほか、高原・桧山・三ノ宮・梅田・世木・胡麻郷各村の有力者29名は、殿田駅から高原村を経て須知町蒲生野に至る約7.725kmの鉄道敷設認可を鉄道大臣大木遠吉に申請した。しかし、この申請は不許可となった。計画では、須知町に本社を置く中丹鉄道株式会社が運営主体となる予定であった。
鉄道遺構
旧・新前山トンネル(封鎖)/旧・新前山トンネルは、1987年(昭和62年)に封鎖。現在の新前山トンネルと勝貫隧道の間に設けられた馬蹄型アーチ状になっている単線鉄道トンネルで、今でも跡を見ることができる。煉瓦はイギリス積みで、巻厚4層。ポータルには、ピラスター、笠石、帯石が備えられている。「新前」の文字跡があることから「旧・新前山トンネル」と呼ばれるが、ここより古い「前山トンネル」の存在が確認されていないため、ここを「前山トンネル」や「旧前山トンネル」と呼ぶこともある。現在、坑口はコンクリートで塞がれ、上部に3つの空気穴が開いている。旧・新前山トンネルを南西に出たところ、園部町船岡側にレールやトラス橋の跡が残っている。
旧第一大堰川橋梁(架け替え撤去)/船岡駅―殿田駅(現・日吉駅)間を流れる大堰川(桂川)に、1910年(明治43年)8月25日に架設された国鉄京都線(現・山陰本線)の橋梁。通称は立壁鉄橋。アメリカン・ブリッジ製で、橋長95mの単線ピン結合トランケート型ワーレントラス橋として建設された。アメリカ型トラス橋の三大聖地の一つとして知られ、1987年(昭和62年)、新前山トンネルの開通に伴う架け替えにより撤去された。現在は橋台のみが残っている。乗合交通
1916年(大正5年)に殿田駅(現・日吉駅)と周山間で、漆谷峠越え(現・府道443号)の乗合馬車が開通した。
1920年(大正9年)1月30日、殿田自動車合資会社は殿田駅と五ヶ荘村(四ッ谷)間7.5kmで木炭自動車によるバス営業を開始した。
1921年(大正10年)、四ッ谷と周山間で、船越峠越え(現・府道78号)の木炭自動車による乗合バスが開通した。翌1922年(大正11年)、殿田と周山間25.1kmで、田中卯三郎によりバスが全面運行した。5人乗り乗合自動車3台であった。ほかに、この路線で京都合同乗合自動車会社や京北乗合自動車株式会社の名前が見られる。1920年(大正9年)認定
京都府道殿田綾部線/殿田駅(現・日吉駅)前を起点に何鹿郡綾部町(現・綾部市)に至る道。山陰街道の側街道であった園部綾部街道が1903年(明治36年)1月に京都(仮定)府道綾部街道(京都府庁 - 何鹿郡役所)になる。1920年(大正9年)4月1日の大正道路法(旧道路法)の施行により、京都府道殿田綾部線になる。道路法施行直前の3月まで府道認定から漏れており、内務省の調査で府道に指定されるに至った。
京都府道殿田八木線/京都府道殿田愛宕線/京都府道須知殿田線/現在の京都府道80号の一部。1959年(昭和34年)認定
京都府道小淵日吉線/京都府道路線第1次認定された、かつての一般府道。北桑田郡美山町大字小淵を起点に、胡麻を経由して殿田に至る道。現在の京都府道50号の一部。
事業者と従業員数の変遷
経済センサスによる事業者数および従業員数の推移。
集会・観光・体育などの施設
南丹市日吉殿田活力倍増センター/1994年(平成6年)竣工した殿田の中核施設で、鉄筋コンクリート構造2階建て、延床面積616.50m2。活力倍増センターおよび、正面左に隣接する「日吉町殿田交流センター(元は農協の建物)」、活力倍増センター2階にある「殿田とーくほーる」をひとくくりにして、殿田住民は「とーくほーる」と呼称する。南丹市からの無償業務委託で、殿田区自治会が管理運営する。活力倍増センターの建設には、殿田区自治会も出資している。毎月1回、組ごとの当番制で施設の清掃を行っている。
住所:前田11番地8/設置者:南丹市/南丹市日吉産業振興会館/南丹市日吉産業振興会館は、1971年(昭和46年)4月に日吉町農業協同組合本館(本所)として建てられた建物。株式会社翼建築設計事務所(現・株式会社翼建築設計)の設計、株式会社鴻池組の施工、鉄筋コンクリート構造の3階建てで、延床面積1,091.90m2。農協の移転後、日吉町が購入して産業振興会館としての使用をはじめた。
住所:尾崎8番地1/設置者:南丹市/入居する組織は次の通り。
・日吉町森林組合/・南丹市商工会日吉支所/・日吉町建設業協会/南丹市日吉殿田コミュニティ広場/「交流広場 殿田ふれあいパーク」の愛称で呼ばれる広場。南丹市からの無償業務委託で、殿田区自治会が管理運営する。芝生広場、子供広場(遊具:ブランコ、すべり台、シーソー)、ゲートボール場、仮設便所(凍結により冬季の使用は不可)、駐車場がある。年間利用者は約5,000人。
住所:前田6番地外/設置者:南丹市/南丹市日吉体験の森/旧日吉町の時からある観光関連施設。猟友会の大型冷蔵庫が2006年(平成18年)まで置かれていた。約3km離れたところの京都府立府民の森ひよし(日吉町天若)に「体験の森」というエリアがあるが、「日吉体験の森」との関連はない。
住所:旭山39番地1外/設置者:南丹市/南丹市日吉殿田運動場/「旭山グラウンド」の愛称で呼ばれる社会体育施設。総面積9,495㎡ 、夜間照明設備があり、主に軟式野球で使われる運動場。外野部分は天然芝になっている。利用時間は、9時から22時まで。
住所:旭山3-2/設置者:南丹市取水施設
殿田水源/田原川の表流水を取水する施設。取水した水は、近くにある殿田浄水場で浄水処理される。
住所:大貝(田原川)/設置者:南丹市/表流水:904m3/竣工:1992年(平成4年)浄水施設
南丹市日吉殿田水道施設(殿田浄水場)/田原川からの取水を浄水し、日吉町殿田、中、保野田、(田原)、志和賀、木住、天若、胡麻、上胡麻のそれぞれの一部の区域に給水する簡易水道施設。
住所:大貝20番地2外/設置者:南丹市/種別:簡易水道/取水元:田原川/水源種類:伏流水/浄水処理:膜ろ過、4ユニット/施設能力:822m3/日/竣工:1993年(平成5年)/採水地点:上保野田区会議所 – 保野田清水本28配水施設
殿田配水池/殿田浄水場から送られてくる水を一時的に貯水し、家庭に水を供給する鉄筋コンクリート構造の配水池施設。
設置者:南丹市/数:5池/総容量:1139.2m3/竣工:1991年(平成3年)浄化施設
南丹市日吉殿田浄化センター/南丹市日吉町特定環境公共下水道事業(殿田処理区)である日吉町殿田、田原、保野田、志和賀の各一部から出る下水を処理する施設。
住所:イチバ132/設置者:南丹市/種別:特定環境保全公共下水道/放流口(先):イチバ(桂川)/排除方式:分流式/水処理方式:オキシデーションディッチ法/汚泥処理方式:脱水/処理面積:43ha/処理能力:700m3/日/敷地面積:0.3ha/主要管渠:23.6km/マンホールポンプ場:35ヵ所/使用開始:2001年(平成13年)4月学校施設
南丹市立殿田小学校/略称は「殿小(とのしょう)」。コンクリート造(RC・SRCを含む)2階建ての小学校。
住所:大貝25番地外/設置者:南丹市/南丹市立殿田中学校/略称は「殿中(とのちゅう)」。コンクリート造(RC・SRCを含む)3階建ての中学校。
住所:大貝30番地外/設置者:南丹市/南丹市立日吉学校給食共同調理場/日吉給食センターとも表記されることがある給食施設。殿田小学校、胡麻郷小学校、殿田中学校の3校を管轄する給食共同調理場で、学校栄養職員や給食調理員らが配置されている。2008年(平成20年)度の完成で翌年度(2009年4月)より運用が本格開始され、これにより南丹市全市的にセンター方式の学校給食となった。
2023年(令和5年)度の南丹市の学校給食における京都府産物(地場産物)利用率は金額ベースで、26.1%。なお、2023年度の京都府全体調査では、地場産物が21.5%(全国平均55.4%)、国産食材が89.3%(全国平均88.6%)だった。
住所:大貝21番地外/設置者:南丹市殿田水利組合管理施設
小牧池/上小牧11にある灌漑用のため池。堤高2.5m、堤頂長20.0m、総貯水量150m3。農業用ため池の管理及び保全に関する法律(ため池管理保全法)にともない、2019年(令和元年)11月12日に届出を行っている。
名称なしの堰/田原川、日吉橋と車橋の間にある灌漑用の堰。曹源寺より下流の農地に水を引き入れている。大向営農組合管理施設
沢田用水(大向揚水機場)/大向揚水機場は、小津道大橋の上流にある、大向営農組合が取水を行う場所。大向の耕地は1649年(慶安2年)に天若に作られた沢田堰により取水していたが、日吉ダム建設に伴い、1996年(平成8年)4月に取水先を下流の日吉町中に移した。現在ポンプアップで取水している。水利権(最大)0.0812m3/s。
大向営農組合農事集会所/住所:大向110-3/集出荷場103m2(うち調理室40m2)大西井堰土地改良区管理施設
大西堰/大西堰(おおにしせき)は、殿田前田で大堰川の水を取り入れるための堰。1772年(安永元年)5月に最初の大西堰(当時は河内堰の名称)が創設された。1887年(明治20年)3月に船岡村・千妻村・内林村が共有堰契約書を交わし、のちの大西堰土地改良区の前身となる三ヵ村の組堰となった。1925年(大正14年)には新堂が、1941年(昭和16年)には木崎町区と内林曽我谷両区飽水区域の課縫うが承認され、船岡、千妻、曾我谷、内林町、木崎町、新堂の組合堰となっている。
現在の井堰は、1973年(昭和48年)に改修されたもの。魚道なし。大西堰を用水路の起点とし、大堰川で堰き止められた水は通称「通し溝」を通り、田原川の水を殿田尻堰で取り入れたあと、暗渠を経て勝貫隧道に入り、船岡の宇屋で隧道を出てから立壁に沿って恩ヶ渕、吉坂、由里を通り、田尻で大将軍隧道を抜けて松尾に至り、桐ノ庄地区の水田も潤わせながら園部川までの総延長8kmを流れる。この農業用水を利用し、園部町の船岡・千妻・新堂・曽我谷・内林町・木崎町の農地約115haを灌漑している。
殿田尻堰/殿田尻堰は、殿田前田で田原川の水を取り入れるための頭首工の堰。魚道なし。
勝貫隧道/勝貫隧道(かちぬきずいどう)は、日吉町殿田と園部町船岡の間に農業用水を通す約370mのトンネル。かつては大堰川沿いの水路で通水していたが、度重なる水害に見舞われたことから、1941年(昭和16年)に農林省の農用公共施設改良事業として工事が始まり、1945年(昭和20年)に勝貫隧道が完成した。勝貫隧道の名称は、第二次世界大戦の最中に造られたこともあり、当時の戦意高揚の風潮を受けて付けられたとされている。殿田側の水門は毎年4月中旬から9月中旬までの農繁期に開かれる。園部町船岡側(宇屋)には水門が付けられておらず、隧道内はコウモリの住みかにもなっている。
農林省工事(1941年~1945年)より前、勝貫隧道について、園部藩が用水路の隧道化を計画して掘り始めたものとして次の言い伝えが残っている。組単位の集会施設
旭町会議所 – 尾崎/小牧町会所 – 東小牧/上ノ町会所 – 町筋39/東町会所 – 東筋
発電施設
再生可能エネルギー発電事業計画による固定価格買い取り制度の認定を受けた発電施設のうち、殿田にある太陽光発電(20kW以上)の施設は次の通り。いずれも営利法人が事業者となっている。
住宅施設
世木の里 とまり木/長期滞在型の田舎暮らしお試し住宅。つくり酒屋(吉田酒店)の建物を世木地域振興会がリノベーションし、2014年(平成26年)8月30日に開所。2024年(令和6年)、とのだofficeworksが振興会から運営を引き継いだ。
住所:殿田町筋54/日吉観光株式会社社員寮/クラウンヒルズ京都ゴルフ倶楽部と太閤坦カントリークラブを運営している京都日吉観光株式会社の社員寮。地上2階建て。
住所:大貝/クラウンヒルズ日吉/1991年(平成3年)2月築造の鉄骨構造地上2階建ての集合住宅。
住所:大貝37-8/ベルメゾン新生/1997年(平成9年)3月築造の鉄筋コンクリート構造地上3階建ての集合住宅。明治国際医療大学では学生寮の位置づけになっている。
住所:殿田尾崎/ベルメゾン日吉/2009年(平成21年)3月築造の鉄筋コンクリート構造地上4階建ての集合住宅。明治国際医療大学では学生寮の位置づけになっている。
住所:殿田尾崎6旅館・ホテル
ビジネスホテル ひよし天若の家/日吉荘をリノベーションした、株式会社fatマネジメントが経営するビジネスホテル。2017年(平成29年)2月にオープン。大型トラックやマイクロバスの駐車が可能。全9室。飲食店(キッチンあまわか)が併設している。
住所:東小牧21-5簡易宿所
みんなの居場所 わっかっか!/市民団体「わっかっか!」の拠点施設。住民の居場所として施設開放しているほか、一棟貸しの農家民宿でもある。宿泊料金の一部は、認定NPO法人コクレオの森が進める「みんなで創るミライの学校プロジェクト」に寄付される。
住所:東小牧2-1/レトロな宿 平川正巳/農家民宿。黒豆の栽培やコシヒカリの稲刈り、サツマイモの収穫などの農業体験、網を使った鮎取りなどの川遊び体験などができる。
住所:前田11-33ゲストハウス
日吉やさい畑生活/株式会社日吉やさい畑生活がする、ゲストハウスやカフェ併設の貸し農園。
住所:大向120その他
殿田駐在所/南丹警察署が管轄する駐在所。殿田のほか、日吉町内の中、中世木、木住、生畑、天若、四ッ谷、佐々江を所管している。特殊詐欺の啓発として、防犯などの寸劇を地域ごとで開かれるふれあい・いきいきサロンで行っている。
住所:前田51-2/建築日:1980年(昭和55年)1月25日/延床面積:69.45m2/構造:W1/日吉町消防団第一分団第一部倉庫/2階建ての消防団詰所。1階部分が倉庫になっている。
住所:東筋/消防倉庫横の空き地/消防倉庫横の空き地はJR西日本の所有地で、南丹市から殿田区自治会に管理を委託している。JR西日本から南丹市にどんな依頼をしているかは不明。
住所:東筋/治山ダム 2基/行者山と前山の間にある谷川に設けられた2基の治山施設。名称不明。上流側にある治山ダムは2015年(平成27年)度に京都府農林水産部が設けたもので、村上建設株式会社が施工した。
クラウンヒルズ京都ゴルフ倶楽部(GC)/日吉町保野田・志和賀・殿田にまたがるゴルフ場。長渡譽一が設計した丘陵コースで、面積947万m2、全長6245yd、18ホールのパー72。
京都東山観光株式会社によって1986年(昭和61年)10月6日にオープンした。当初の名称は「にのうみゴルフ倶楽部ひよしコース」で、1993年(平成5年)11月期には年収入約6億4300万円をあげていた。
バブル崩壊後に経営難に陥り、1993年9月に京都日吉観光株式会社が東山観光を買収し再建に当たっていた。1997年(平成9年)6月に名称を「クラウンヒルズ京都ゴルフ倶楽部」に変更してリニューアルしたものの、2005年(平成17)11月時点で11期連続の欠損を計上、繰越損失は約7億円になっていた。
2007年(平成19年)4月27日、民事再生法の再生計画案が可決。釜本邦茂(日本サッカー協会副会長)が代表の投資会社株式会社マルカンが支援することになった。マルカンはみやこ債権回収株式会社から日吉観光の別除権付きの債権を取得、京都日吉観光の株式も同年12月に取得して親会社となった。日吉観光の田島章吉代表取締役は留任し、釜本邦茂がオーナーとなった。かつてあった建物
世木村役場/殿田前田にあった世木村の役場。
日吉町役場/殿田駐在所前あたりにあった旧日吉町役場庁舎。1976年(昭和51年)6月、保野田に町民センターを併設した新庁舎ができ、役場機能が移転した。
新橋/1892年(明治25年)5月に出水で流出。1893年(明治26年)に復旧し、5月14日に渡橋式が行われている。
丹波教会殿田会堂/ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した教会堂(1929年~1955年ごろ)。
行者堂/行者山にあった堂宇。1941年(昭和16年)の殿田の大火で焼失した。
殿田公民館(殿田区民館)/ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で1942年(昭和17年)に竣工した公民館(上ノ町)。殿田の大火で熱失した公民館(下ノ町)の代わりに建てられ、1994年(平成6年)まで使われていた。
升萬醤油店/殿田の大火にも耐えた赤煉瓦煙突がシンボルだった醤油店。1994年(平成6年)ごろまであった。
山の神の祠/成就院の麓の山にあり、1月11日には山の神の祭りが行われ、参拝者は洗い米を丸めたものを供えた。この日の山仕事は休みで、入山も禁じられたという。
少年道場/現在のヒノ谷霊園の場所にあった。
大貝集会所社寺・民俗・宗教
殿田には、法人格を有している7ヵ所の宗教施設(天稚神社、成就院、盛林寺、平尾寺、曹源寺、天理教神博分教會、神習教敬神廣春支教会)のほか、殿田区自治会所有の寺社や組単位の崇敬社などがある。
日吉神社
日吉神社(ひよしじんじゃ)は、殿田共通の氏神として祀られている神社。近江の日吉大社より分霊を奉祀し、1489年(延徳元年)に創祀。日吉町に三社(殿田・畑郷・東胡麻)ある日吉神社の中で、殿田が最も古い。旧社格は指定村社で、“世木の五社”の一社。祭神は大山咋命。山王大権現と称されていたが、神仏分離で1873年(明治6年)に日吉神社と改称した。同社は日吉町の町名由来にもなっている。神紋は左三つ巴。年始には、近隣住民が神矢を買い求めに来る。
社殿は、山腹に広がる棚田の上にある。財産の保有は、殿田区自治会となっている。覆屋によって保護されている本殿は、京都府暫定登録文化財。1721年(享保6年)に修繕の記録がある。本殿の西に拝殿がある。朱色の鳥居は、1991年(平成3年)に建立したもの。
摂末社など/小牧山観音堂/小牧山観音堂は日吉神社境内にある観音堂。寺紋は真言宗輪宝。1737年(元文2年)、世木庄志積谷仲嶋(現・中世木)出身で上京区浄福寺通に住んでいた槌屋元寛(藤田元実)の発願と、殿田の井尻伝右衛門の仲介により、神光寺(日ノ寺)の別院として建立したとされる。悪病除け、特に雷除けとして信仰を集めている。
堂内には、阿弥陀如来像と西国三十三所の本尊を模した観音像が安置されている。全国的に珍しく東向きに安置されていることから「東向観音堂」とも呼ばれている。33体の観音像は南丹市指定文化財。
毎月1日は観音堂が開かれ、拝観することができる。
2016年(令和3年)に観音堂の仏像などの修復を行った京都美術工芸大学の小林泰弘特任教授によれば、堂内にある毘沙門天とされてきた像が、宝塔ではなく鉾を持っていることから、増長天である可能性が示唆された。この像の制作年代は不明だが、江戸時代の欄間師が彫ったとされる。
愛宕権現/日吉神社境内には愛宕灯籠が一対あり、祠に愛宕の札が祀られている。祠の横には以前、何らかが祀られていたと思われる石組みがある。
弁才天/日吉神社境内にある池の浮島に、弁才天の祠がある。この池では、モリアオガエルの産卵が見られる。
妙見堂/妙見堂のなかには、神棚に入った妙見菩薩像のほか、神具、布飾り、法華曼荼羅が掘られた額、位牌などが置かれている。
毘沙門堂/熊野権現/山の神/稲荷神社/稲荷神社の祠には、神棚、大きな狐の像2体、小さな狐の像数対、雪洞2対がある。雪洞はの1対はロウソク、もう1対は電気で明かりが付けられる。
巳さん/蛇の小さな像が安置されている。
地蔵/日吉神社の境内には、24体の地蔵がある。かつては、境内から離れた山中にあったが、高齢者が参拝するのに不自由であろうという理由で、2016年(平成28年)に現在の地に移された。
井尻昌三碑/#戦争遺跡を参照。天稚神社
天稚神社(あまわかじんじゃ)は、室町時代初期の貞治年間(1362年~1368年)に世木之荘の一ノ宮として、世木村天若に創建されたとある。旧社格は指定村社で、“世木の五社”の一社。祭神は天稚彦命で、林業と農業の神として祀られている。
1422年(応永29年)、鳥居を建設するために世木之荘各村より1,100人の人足を徴した記録がある。1555年(弘治元年)に火災で社殿が消失、1558年(永禄元年)に再建された。1743年(寛保3年)に造立された記録が残っている。1989年(平成元年)、日吉ダムの建設により天若の世木林から殿田向山に遷宮した。大向山の山麓にある現在の社殿は1991年(平成3年)11月に建てられたもの。
1750年ごろの古文書に、世木という村の名前の由来がある。
“向日之巌上に神霊光臨あり、夜毎に大光を放つ。村老集まり、神庭を設け祓い清め神楽を奏したところ神託あり、「吾は往古此国を発したる天稚彦なり、吾を祭らば年穀豊饒にして荘内久しく保つであらう。吾を鎮祭する処には世に久しき木を生ず。果たして一夜に杉三本を生ず」と世木之荘世木村とはこの事により名付けられた。”/水没前まで、天稚神社では「宮の当」が行われていた。宮の当の有資格者は世木林と沢田の区民の長男に限定され、1月15日の「当渡し」で新しい役が前任から「開かずの箱」の引継ぎがされた。
祭礼 – 1月1日:元旦祭、2月11日:建国記念祭・祈年祭、10月中の日曜日:秋季例祭、11月3日:遷座記念祭、11月23日:新嘗祭、毎月1日11時:月次祭/摂末社 – 天満宮、大國主神、豊國主神、稲荷大神、山能神(山の神)成就院
成就院(じょうじゅいん)は、高野山真言宗の寺院。成就院は院号で、山号は日谷山、寺号は神光寺。寺格は中本寺。殿田区民から「日ノ寺(ひのてら)」と呼ばれ親しまれている。
717年(養老元年)越知山の泰澄国師35歳の時、日谷山に来て草庵を結んだのが開基とされる。創建は鎌倉時代中期の文永年間(1264年~1275年)。創建当初は10ヶ寺(うち、不動院と吉祥院は享和年中まで存在、成就院は現存)あり、往時には34の塔頭を数える世木郷最大の寺院だった。南北朝時代(1336年~1392年)に荒廃し、1339年(延元3年)に高雄山の宥海僧都によって再興された。なくなった9ヶ寺の遺構が成就院所属の畑地にあった。
本尊の薬師如来は丈二尺八寸の座像で、弘法大師作と伝えられる。両脇に天若の楽河寺より移転の木造薬師如来坐像(南丹市指定文化財)、十二神将の木造毘沙門天立像(南丹市指定文化財)と、十一面観音菩薩・愛染明王を奉安。本堂前に修行大師像・ぼけ封じ観音・ぽっく里地蔵尊を安置し、裏山には新四国八十八ヶ所霊場がある。また、同山内には日吉ダム建設に伴い盛林寺・平尾寺が移築され、ヒノ谷霊園と世木村忠魂碑が隣接ある。
弘法大師の入滅を記念した稚児行列が50年に一度行われる。直近の1984年(昭和59年)に行われた際、行列は殿田町筋まで練り歩いた。
ご詠歌:守ります 神の光りも 明けらむ 日の谷山の 法のともしび/ご詠歌:観音の 慈愛にぼけも 汲まれきて ぽっくり地蔵の み手のまにまに/日谷山新四國霊場/成就院の山中に、約1kmの行程で八十八カ所の霊場を巡礼できる場所がある。1929年(昭和4年)、当時の住職・眞守諦導師の発案と近郷住民の浄財により完成した。88の各祠には、四国八十八箇所を写した本尊と弘法大師像の石仏が対になって安置されている。本尊の光背には霊場の番号、大師像の台座正面には寄進者の名が刻まれている。2010年(平成22年)には祠が修復された。
楽寿観音像/観音菩薩の立像。成就院は近畿楽寿三十三ヶ所観音霊場の第26番札所になっている。
修行大師像/1929年(昭和4年)、日谷山新四國霊場と共に建立された像。
御百度石/ぼけ封じ観音/ぽっく里地蔵尊/子育地蔵像/ヒノ谷墓園(免租農地跡)/持名院や不動院など往古境内にあった九ヶ寺の旧跡は、残る成就院の所属田畑となった。この田畑は元和年間(1615年~1624年)、園部藩の小出伊勢守の帰依により免租地だった。1876年(明治9年)の地租条例改正で有租地となる。その後、1987年(昭和62年)に日吉ダム建設に伴い水没する天若村と中村の墓碑を移転してヒノ谷墓園となった。平尾寺
平尾寺は、日吉ダム建設に伴い日吉町天若から成就院のあるヒノ谷に移転した東寺真言宗の無住寺院。山号は神明山。1024年(万寿元年)、東寺(教王護国寺)の末寺として上世木村(現・日吉町天若)中島の村を一望できる高台に建立された。樫の古木の折れ口より出た不動尊姿の木を本尊とし、1389年(康応元年)に開山した。1988年(昭和63年)7月、現在の場所に移された。
盛林寺
盛林寺(せいりんじ)は、日吉ダム建設に伴い天若の世木林から成就院のあるヒノ谷に移転された高野山真言宗神護寺末の無住寺院。山号は金聲山。本尊は不動明王、如意輪観音、地蔵菩薩。移転時、自然石で作られた先祖の菩提霊を弔う供養塔の南無遍照金剛碑(1746年7月21日)や三界万霊碑(1759年3月8日)なども1ヵ所に集められた。
曹源寺
曹源寺(そうげんじ)は、殿田イチバにある曹洞宗の寺院。山号は殿田山。本尊は釈迦如来。開創は1535年(天文)、開基は園部町仁江にある龍穏寺(竜穏寺)二世の海雲桂川禅師。梅若家の菩提寺としても知られている。
1546年(天文15年)ごろ、海雲禅師に梅若家が帰依し、「殿田は山紫水明の地なれば、この地に隠居されたし」と庵を建立し、先祖の菩提を弔った。徳川時代初期に竜穏寺十七世、月子良桂禅師を開山として曹源寺(関殿山宗源寺)となった。
殿田の大火(1941年)で消失し、現在の建物はその後に再建されたもの。
梵鐘/1964年(昭和39年)8月22日に信者によって梵鐘が寄付された。それ以来今日まで毎日6時と22時に撞き鳴らされている。梵鐘には次のことが刻まれている。
“大成梵鐘 徹界三千 破無明夢 覺煩悩眠 雷鳴啓蟄 鯨吼遠傅 戒晨警夕 朝夜安然 五風十雨 春秋有年 暗號密令 奉吾佛天”/水天宮/曹源寺の境内に鎮座する水天宮は、石柱に「古老に聞くと、殿田に洪水が多く発生したので水難除けの水天宮を建立した」とある。裏面には「嘉永七甲寅年八月吉日」と刻まれている。石柱にある銘は、御所の祐筆であった木住の湯浅宗貞(時哉(じさい))が乙女筆で書いたものと伝えられている。ほかに時哉の書として、生畑(上稗生)の八幡宮や天稚神社の額が残っている。
筏は雨が降ると転覆することもあった。そこで若衆たちが庄屋と相談し水天宮を祀ることにし、世話役を曹源寺に頼み、その礼に毎年米一俵を供えたという。
朝霧塔/朝霧塔は、朝霧(力士)を慕う弟子が建立したとされる塔。府道19号立壁の山ぎわに建てられていたが、道路拡幅のため曹源寺の門前に移された。
塔の裏面には「俗名喜太郎 天保十三年寅七甘九日」とある。1842年(天保13年)ごろ、園部藩では江戸から力士を呼び寄せて大相撲地方場所を興業しており、その時の勧進元は、船越喜平次(生畑)、千手間惣八(船岡)、石川次郎右ヱ門(横田)の三大庄屋であった。
蛭除の秘法/梅若家の位牌/曹源寺には梅若家代々19名の位牌や過去帳がある。クサガミ
皮膚の病を癒やすと伝えられている薬王菩薩が、東町バス停(殿田駐在所前)から梅若家の旧墓所に登る石段の横に、オカメザサに覆われた祠で祀られている。殿田住民は親しみを込めて「クサガミさん」と呼称している。
天理教神博分教会
天理教神博分教会は、殿田前田にある天理教の分教会。京都教区南丹支部に所属している。
神習教敬神廣春支教会
神習教敬神廣春支教会は、殿田西小牧にある神習教の教会。1925年(大正14年)に田原東雲に設立され、その後、殿田の小牧町に移転した。殿田では「殿田のお稲荷さん」と呼ばれている。
行者山(岩)
殿田の町を一望できる行者山の中腹に役行者(えんのぎょうじゃ)が彫られた一枚岩がり、信仰の対象となっている。行者岩のほかに大峰山修行記念碑として4基の供養塔がり、井尻清太夫、中川嘉七、石川佐右衛門、山本久兵衛の名が刻まれている。
かつては、近くにある行者の滝で行者が身を清め、一夜堂に篭り、参りを行った像の前の絶壁から身を差し出し、祈願を行っていたという。山あいにあった役行堂は殿田の大火で熱失し、代わりに役行者像が祀られている。行者岩の周りには、行者堂の瓦が今でも落ちている。
2016年(平成28年)に作られた民話「天若伝説」では、役行者が彫られた岩が天若日子の像という設定になっている。天神宮社(天満宮)
天神宮社は、天神町の住民から「天神さん」と呼ばれて親しまれている神社。創祀は不詳で、鳥居は2007年(平成19年)に建てられたもの。祭神は菅原道真。境内には摂社として稲荷神社と、布袋尊、もう一つは不明。
若宮八幡神社
若宮八幡神社は、東町の住民から親しみを込めて「八幡さん」と呼ばれている崇敬社。東町の民家裏の山麓にある。創祀は不詳。祭神は応神天皇。境内には摂社として愛宕神社・稲荷神社・天満宮がある。天満宮は生身天満宮から勧請したもので、稲荷神社は個人が合祀したもの。
街角の地蔵
日吉神社や成就院、曹源寺の境内を除き、殿田11ヵ所で地蔵の存在を確認できる。数が多いため、呼称がある地蔵のみを列記する。
日吉橋地蔵 – 日吉橋の袂、田原川の左岸にある。
北向地蔵 – 上ノ町にある地蔵尊で、北を向いている。丹波基督教会殿田会堂
丹波地方におけるキリスト教(プロテスタント)の普及は、1876年(明治9年)より同志社が拠点で始められた。1884年(明治17年)に、丹波教会が設立した。1885年(明治18年)9月以降、信徒が集会を行う教会形態として、殿田でも教会講義所が持たれた。
1912年(大正15年)3月20日、丹波教会は殿田の吉田八重宅で家庭集会を開催した。これ以後、毎週土曜夜集会が持たれる。同年7月11日、殿田駅前に借家し日曜学校を開校し、吉田八重が指導を行った。
教会講義所から発展し、1929年(昭和4年)2月17日、殿田に住む信者によって丹波教会の殿田会堂(教会堂)が建てられ、献堂式が挙行した。場所は、旧日吉郵便局の隣地であった。同日、亀岡の王女会を中心に丹波基督教会女子青年会を結成、殿田会堂で発会式が行なわれた。
殿田会堂の設計は建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズが行った。殿田会堂のほか、1942年(昭和17年)竣工で1994年(平成6年)まで使われていた殿田公民館もヴォーリズの設計であった。
昭和30年代の初めまであった殿田会堂では、夏に殿田の日吉神社や中村の八幡神社でキャンプが、12月のクリスマスにオルガン演奏が催されていた。指定・登録
殿田にある指定および登録の文化財は次の通り。
建造物/日吉神社 本殿/1721年(享保6年)に本殿が修繕された記録がある。現在は覆屋がかけられている。2023年(令和5年)、アライグマによる侵入による被害が報告されている。
京都府暫定登録文化財:2018年(平成30年)3月23日/所有者:殿田区/美術工芸品/観音像 33躯 – 小牧山観音堂/西国三十三所の本尊を模した観音像。現地案内板には平安初期(794年〜901年)の作とあり、日吉町誌では江戸中期(1690年ごろ〜1780年ごろ)と書かれている。2016年(平成28年)ごろから年に数体ずつ、京都美術工芸大学と南丹市、殿田区自治会の三者合同で観音像などの修理が行われた。修復に関わった同大学の小林泰弘特任教授の見立てでは、観音像も観音堂が建立された1737年(元文2年)ごろに作られたものだとした。
南丹市指定文化財:1977年(昭和52年)5月20日/所有者:殿田区/木造毘沙門天立像 1躯 – 成就院/木造薬師如来坐像 1躯 – 成就院/成就院にある毘沙門天と薬師如来の両像とも平安中期(901年~1068年)の作で、日吉ダムの建設時に天若の楽河寺から移転されたもの。移転後しばらくは天若楽河隣組の所有・管理であったが、のちに所有者が成就院になった。今は成就院の脇侍として安置されている。
南丹市指定文化財:1977年(昭和52年)5月20日/所有者:成就院その他
有形民俗文化/民具50点(衣・農耕・養蚕・紡織・筏用具) – 南丹市立殿田小学校/所有者:南丹市教育委員会
劇団 殿田の案山子
殿田の案山子は、2005年(平成17年)に殿田住民8人からはじまった演劇集団。2007年(平成19年)11月23日に殿田活力倍増センターで旗揚げ公演を行った。
殿田は、大正時代から住民による地歌舞伎、謡、浄瑠璃が演じられ、昭和になっても青年団による芝居が人気だった。現在の劇団も、こうした伝統が源流となっている。現在、敬老会行事や日吉町文化祭で定番の出し物になっている。能
猿楽ゆかりの地として伝統芸能を広めていくため、2017年(平成29年)ごろから観世流能楽師を講師に招き、南丹市立殿田小学校の児童を対象にした謡や仕舞の稽古と、その成果を発表する舞台公演が毎年実施される。この取り組みは、殿小と世木の伝統芸能を守る会の協働によって行われている。
大晦日や元旦の参拝
日吉神社総代会と殿田区自治会の役員は大晦日の10時ごろに日吉神社に集まり、社務所に詰めて参拝者を迎える。この後、曹源寺や成就院の檀家は、寺に新年のあいさつに参る。各家では、白味噌仕立ての雑煮や納豆餅を食べる。
とんど
殿田では1月15日に、日吉神社境内、大堰川の河原、井尻工務店作業所前の川側(東町)の3ヵ所でとんどが行われている。
健康長寿・お笑い巡回寄席
寄席が1月や2月に開かれ、殿田を含む世木地域の4集落を芸人が巡る。寄席が恒例になったのは、2014年(平成26年)2月のあなたの街に住みますプロジェクトで、吉本興業所属の落語家月亭太遊と月亭方気が世木地域に滞在したことがきっかけ。それ以降、世木地域振興会の主催で毎年開催されている。この催しで巡行した芸人は、太遊・方気のほか、桂笑金・桂優々・リスナップ・藤本真希(夏海真希)など。
ようかび
ようかびは、5月8日に行われる寺の法要で、釈迦の誕生を祝う灌仏会(かんぶつえ)のこと。一般的には花祭(はなまつり)と呼ばれ、4月8日に行われることが多い。殿田では、参拝者にふるまわれる甘茶を水筒などで持ち帰り、マムシ除けとして家の周りにまく風習がある。
ラジオ体操
夏休みの期間は早朝に、殿田区子ども会の呼びかけで、区内2ヵ所でラジオ体操が行われる。殿田上は旭町のマルナカ駐車場、殿田下は殿田ふれあいパーク。
施餓鬼(曹源寺、成就院)
仏教の法要。曹源寺では8月7日、成就院では8月16日に施餓鬼が営まれている。
大般若法要(小牧山観音堂)
小牧山観音堂で大般若法要が、8月中旬の日曜日に営まれる。総代会の宮役と組長が参じ、僧による読経のあと、全600巻の般若経典をぱらぱらとおくりながら般若心経を詠みあげる。
地蔵盆
8月末、地蔵盆が殿田地内の各所(小牧町、上ノ町、中ノ町・石橋・下ノ町)で行われる。
大祓い(日吉神社)
12月、日吉神社で大祓いの神事が行われる。総代会の宮役と組長が参列する。
除夜の鐘
曹源寺では、12月31日の除夜から元日にかけて梵鐘が撞かれる。除夜の鐘を撞きに訪れた参拝者には、年越し蕎麦が振る舞われる。
組単位の行事
天神さんのお祭り/天神町では10月23日に、天満宮に参ったあと、食事会が開かれる。
八幡祭り/東町では9月14・15日の2日間、若宮八幡神社にお供えや蝋燭の灯火でお参りし、夕方から女性たちの食事会が開かれる。御日待ち講
殿田における日待講は、1月14日の夜に隣組単位で行われていた行事。料理を持ち寄るほか、当番が用意することもあった。また、「宴会は夜中の12時過ぎまで続いた」や、「子どもたちは会所で日の出まで待った」などと伝えられている。
厄神祭
中村にあった八幡神宮の厄神祭は1月19日にあり、"中村の厄神さん"や"殿田の厄神さん"と言って、口丹波一円から参拝者が集まった。当時は、臨時列車も走り、殿田駅(現・日吉駅)から厄神さんまで人の列が続いた。境内では甘酒が振る舞われ、参拝者は祈祷を受けたあと厄払いの杉葉(ぐし)をもらい、無病息災などを祈願し、神社前の橋から名前と年齢を唱えながら中世木川に投げ入れた。中村の氏子たちは12月になると杉の枝を集めるのが大仕事で、1月15日のとんどが終わると1万本にものぼる杉葉を総出で準備した。祭り当日は小学校も午前中で終わり、子ども達はお年玉を持って、厄神さんまでの道に並んだ店屋でいろいろなものを買うのが楽しみだったという。
天道花
ようかび(5月8日)の時期は花折れと呼び、シキミやヤマツツジ、フジの花を竹竿にくくった天道花を門口で掲げていた。この風習は殿田では廃れたが、同じ世木地域内の生畑では10軒ほどで今でも続けられている。
盆踊り
古くは日吉神社の境内で盆踊りが行われていた。その後、現在の殿田とーくほーるの付近で「納涼盆踊り」として続き、平成のはじめごろには「殿田夏祭り」と名称や様相も変え、ふれあい広場を会場に、花火の打ち上げや灯籠流しも加わった。
湯立て
旧世木村の日吉神社(殿田)、八幡神社(中)、笛吹神社(木住)、天稚神社(世木林)、小雨若神社(上世木)の五社明神が9月15日に、湯立神楽を持ち回りで行っていた。希望によっては中世木の八幡神社と大山祇神社、生畑の多治神社と八幡神社も参加が許されていた。
境内にかまどを作り、釜を据え湯を沸かす。このかまどを造る作業を「かまつき」と言って、一週間以上前からはじめ1基から5基作った。神主が祝詞を奉上し、次に巫女が舞を奉納する。そのあと、巫女が大釜で沸かした熱湯を笹に浸し、その笹で参拝者を祓い清める。巫女は1人で、笛や太鼓をはやす男子もついてきたという。
この神事は、日吉ダム建設とそれに伴う住民移転で途絶えた。当時使われていた湯桶は、日吉神社に保管されている。薬師如来の縁日
毎月8日は薬師如来の縁日にあたり、戦前までは、成就院の四国八十八カ所巡りのある高台に参拝者を迎えて地元の岩店、つる店が店を出し、うどんや酒、菓子を販売してにぎわった。
行者講
殿田の行者講は、東町の中川竹松が主になって子ども達を会所で一泊させ、翌朝の一番列車で出発した大峰山にホラ貝を吹きながら登ったとされる。
運動会
大正期から殿田区運動会と、6集落(殿田、天若、中、中世木、木住、生畑)対抗の世木村大運動会が秋に開催されていた。そのほか、船井郡青年団運動会というものもあり、その上位大会である京都府大会では、世木村の青年たちは黄色のハチマキを絞めて出場した。
殿田いなか祭り
殿田農家組合を中心に各種団体が実行委員会を組織し、殿田いなか祭りは1992年(平成4年)から新型コロナウイルス流行前の2019年(令和元年)まで、毎年11月ごろに開催されていた。会場では、突きたての納豆餅やあん餅の屋台、野菜の品評会・即売会、各団体による作品展示、子ども神輿などが催され、祭りを賑わせていた。2019年の第28回を最後に、現在は開催されていない。
芝居と映画
秋の収穫を終えた時期、興行師による本格的な芝居や青年団による村芝居が盛んに行われていた。殿田の大火で熱失するまで殿田公民館は下ノ町にあって、弁士つきの映画があった。芝居も映画も夕方には殿田の町中をチンドン屋が笛や太鼓を鳴らして廻り、子ども達は珍しがってその後をついて歩いたという。
食文化
殿田の食には、白味噌雑煮といった京都の特徴と、丹波地域特有の文化が見られる。主食は米であり、キヌヒカリやコシヒカリが栽培されている。世木地域では、出荷用の地域ブランドとして「世木米」や「日良し米」の名称が用いられることがある。味噌汁には、合わせ味噌が使われることが多い。10月上旬から約3〜4週間にかけて、丹波黒大豆(紫ずきん)の枝豆が旬を迎える。人が集まる機会には、牛肉ではなく、かしわ(鶏肉)を用いたすき焼きが食べられることがある。また、旧北桑田郡の食文化の影響を受け、納豆餅や朴葉ごはんといった郷土料理も見られる。
納豆餅
正月三が日の伝統食品として納豆餅を食べる風習がある。殿田では廃れつつあるが、同じ世木地域の中世木や生畑では色濃く残っている。
昔、当主が元日の朝早くから納豆餅を作って家族に振る舞うのが習わしとされてきた。ほかにも、抱えるほどの大きさの納豆餅を鏡餅として祀る風習があり、囲炉裏で炙ったり、湯で温めたりして少しずつ食べたといわれている。正月以外でも、筏師や山師が小さめの納豆餅を腹巻きに包むなどして携行食にしていた。
日吉町の納豆餅では、打ち粉にきな粉が使われることが多い。また、家庭ごとにさまざまなバリエーションがある。
以下は、日吉町東部で見られる納豆餅の大分類の一部。
納豆と合わせる際の餅の状態/形状/納豆の味付け/食べ方朴葉ごはん
日吉町や美山町などで食べられる朴葉ごはん(朴葉飯)は、丹波地域の郷土食。青く繁る時期に、抗菌・殺菌作用があるとされるホオノキの葉(朴葉)で飯を包み、田植えや山仕事の際の間食(こびる)として食べられていた。殿田では日常生活から姿を消したが、南丹市日吉町郷土資料館などが体験講座を開き、伝承が図られている。
雑煮
正月の雑煮は京都府の一般と同じで、かつおと昆布だしを使った白味噌仕立てに、焼かずに茹でた丸餅、丸く切った具だくさんが基本形。基本形以外にもさまざまなバリエーションがあり、味付けは家庭内のパワーバランスで白味噌か、すまし汁か、普段使いの合わせ味噌か、または、白をベースに合わせを混ぜるかが決まる傾向にある。
町並み・商店
殿田はもともと商店街地で、上河内村(現・園部町船岡)から北上し田原川に沿って桑田郡(現・美山町)に向かう若狭街道沿いにある。歴史的には水運・陸運の要地にあたる世木庄の中核集落で、木材の運搬による繁栄により街道沿いに町化し、「殿田にないものはない」と言われるほど買物客でにぎわった。かつて宿場町・在郷町だった街道沿いには、今でも切妻造平入中二階建ての商店や家屋が軒を連なっている。
飲食店/まるやま喫茶店 – 尾崎8-2/山ノ上商店 – 大貝1-7/2025年(令和7年)2月に開業した、米粉を使ったグルテンフリーのたこ焼きを販売する店。
キッチンあまわか – 東小牧21-5/ビジネスホテルを併設。日吉荘をリノベーションした店舗。2016年(平成28年)12月にオープンした。
日吉やさい畑カフェ アマンズガーデン – 東筋31/貸し農園やゲストハウス、カフェ、バーベキュー場などを経営する店。京都丹波サイクルルート協力施設に登録。
殿田まちかどの こしかけ – 町筋54/殿田区自治会による喫茶サロン。2021年(令和3年)12月18日にオープン。
カフェeco.epoch – 町筋19-1/1940年(昭和15年)ごろに建てられた米穀店をリノベーションした店舗で、2023年(令和5年)5月21日にオープンした。
小売/明田商店 – 尾崎4/靴を除く履物小売店/谷荒物店 – 尾崎5/ストアー丸中 – 尾崎5-1/一般酒類小売業免許を持つ食料品小売店。
Forest tools shop – 尾崎8-1/日吉町森林組合による森の道具屋。
みんなのお店 わっかっか! – 東小牧2-1/市民団体「わっかっか!」の活動拠点の一部を使い、2025年(令和7年)9月より菓子やごみ袋などの日用品を販売している。
医療・施術/吉田医院 – 尾崎8/内科診療を行う医院。時間外診療、認知機能検査、成年後見人の鑑定書作成、介護保険主治医意見書作成にも対応している。また、南丹市の国民健康保険加入者で40歳~74歳を対象にした個別特定健診と、75歳以上対象の個別すこやか健診の実施医療機関にもなっている。
総悠館 – 前田28-5/カイロプラクティックの施術院。
理容所/hair Studio HORI – 旭山1-24/美容所/さつき美容室 – 町筋/シスター美容室 – 東小牧5/クリーニング所/昭和堂クリーニング店 – 前田28-7/種別:処理/その他/伊藤畳店 – 西小牧6/遊漁券も販売している畳店/日吉電器商会 – 西小牧9-3、西小牧10/水道法による給水装置工事事業者に南丹市が指定している。
パン工房みのり – 東小牧2-1/輪駆堂 – 町筋8香典返し
昭和時代(主に1920年代から1950年代にかけて)、生活改善運動または新生活運動の一環で、冠婚葬祭にかかる費用や生活の虚礼(見栄)を廃し、生活の合理化・近代化が政府主導で進められた。その流れのなか、旧日吉町社会福祉協議会は香典返しに関して以下の方針を決め、香典返しに相当する金額を寄付するように呼びかけたことがある。その呼びかけが、現在の殿田でも申し送り事項として根付いている。
香典返し禁止のルール – 日吉町内の人からの香典に対しては香典返しをせず、礼状のみとする。火葬
かつての火葬場は、殿田の財産区所有となっている向山の山中や、猫谷にあったといわれている。
現在、最寄りの火葬場は、園部町上木崎町坪ノ内にある船井郡衛生管理組合火葬場。火葬場使用許可申請は、南丹市役所で行う。埋葬
かつての土葬の墓は、大堰川(桂川)の右岸、河内堰(現・大西堰)と田原川合流地の間にあったが、水害で流出が繰り返されることから、石橋町車橋の上、猫谷(ねこたに)に移設された。そこも狭くなり、上ノ山に移った。殿田では、土葬の際に松明が使われていた。
現在の墓地/ヒノ谷墓園 – ヒノ谷(成就院東側)/日吉ダム建設に伴い移転した中・天若地域の154世帯の先祖をまつる墓所として、ヒノ谷の高台に墓地が設置された。天若7部落の埋葬墓の補償金として日吉町が所得造成したもので、1987年(昭和62年)1月1日~1988年(昭和63年)3月20日が第1期工事、同年7月1日~12月20日が第2期工事で、総事業費1億9,400万円。1987年(昭和62年)12月に設立、1988年(昭和63年)1月30日に竣工式があった。
墓園の面積は6,183m2。1区画6m2の墓所が154区画、3m2の墓所が30区画のほか、軍人墓、無縁仏をまつる合祀墓、阿弥陀仏をまつる顔寺堂、六体地蔵、記念碑、休息所などがある。
記念碑は花崗岩が使用されて本磨仕上げになっている。台石回りのくずれ積の石質には丹波石が使われている。
曹源寺墓地/上ノ山墓地(殿田共同墓地)/名称不明 – イチバの山林内NTT固定電話
同じ南丹市内であっても、園部MAの日吉町殿田と、亀岡MAの八木町地区の相互通話には、市外局番 (0771)が必要。
収容局/西日本電通電話株式会社京都支店京都日吉別館(NTT西日本 京都日吉電話交換所) – 保野田前田。携帯電話
殿田の隣地では、田原にある高山の山頂(標高381m)および、その付近に、携帯電話の通信キャリア4社の電波塔(携帯基地局)が3基ある。また、同所には南丹市防災行政無線のアンテナも設置されている。
以下は、現地看板に書かれている通信キャリア名と基地局名。なお、NTTドコモとJ-PHONEの電波塔は同じ。
NTTドコモ:日吉(京都)局/J-PHONE:JPK日吉局/イー・モバイル:南丹保野田サイノ谷局/KDDI:日吉町基地局日本郵便
郵便番号:629-0341/語呂合わせで「無肉 丸み余韻」と覚える。
集配局:園部郵便局/最寄りの郵便局/日吉郵便局 – 保野田市野6-8/局コード:44035/1878年(明治11年)1月16日、殿田小字西小牧230に殿田郵便局が開設。1959年(昭和34年)4月1日、日吉郵便局に改称。 1988年(昭和63年)11月14日、現在地に移転した。
郵便ポスト/旧つるや酒店の前 – 前田11-24/ポスト番号:214152/型:差出箱14号W/旧サワタヤ洋品店隣り – 前田16/ポスト番号:214153/型:差出箱14号/旧日吉郵便局の前 – 西小牧24/ポスト番号:214154/型:差出箱14号/明田商店の前 – 尾崎4/ポスト番号:214161/型:差出箱14号気象庁
気象庁の区分では、天気予報は「京都府南部」の区域、警報・注意報は「南丹・京丹波」の区域として発表される。なお、市町村等をまとめた地域(区域)は、亀岡市・南丹市・京丹波町で構成されている。
2006年(平成18年)3月1日施行の再編前の気象予報区では、殿田の二次細分区域は「南丹」。現在は殿田と同じ「南丹・京丹波」の区分になっている北桑田郡美山町(現・南丹市)と船井郡和知町(現・船井郡京丹波町)は、「中丹東部」の区分だった。
4町合併で誕生した南丹市には、日本海側気候の影響を受けやすい美山町が含まれており、同じ市内でも気候差が大きいのが特徴。そのため、殿田で降雪が少ない場合でも、美山町でまとまった降雪があれば、市内全域に警報が発表されることがある。
最高気温・最低気温予報の気象台は京都地方気象台(京都市中京区)、最寄りの実況地(アメダス)は園部観測所(園部町黒田、標高134m)。
気象予報区分の予報に加え、天気分布予報(メッシュ予報)がある。殿田独自
殿田には、独自の天気予報が伝わっている。
朝雪は日和の花/ちらちら雪が降る朝は天気がよくなるという意味で殿田住民が使っていることわざ。
阿保が喜ぶ十時あかり/10時ごろにやんだ雨は午後に再び降ることが多いため、単純に喜んではいけないという意味で殿田住民が使っていることわざ。
辰巳から雲が流れたら雨が確実に降る/南東(辰巳)は大向山がある方角。
行者山が曇ると雨が近い/行者山がある方角は南西(羊申)。
羊申から雲が流れると雨が降ったり止んだり/これを「エテコのだふり」とも言う。
丑寅は荒れる/成就院がある北東(丑寅)から雲が流れたら台風が来るという言い伝え。
戌亥から雲が流れると寒くなる/北西(戌亥)は日吉神社の裏山がある方角。西高東低の冬型気候時の風の動きを表している。水道
簡易水道 殿田地内に給水されている水は、ほぼ中性(pH7.1)の軟水(硬度25mg/L)。殿田は日吉中央簡易水道事業(計画人口5,000人、計画給水量3,000m3/日)の範囲に含まれ、田原川で取水して殿田浄水場で処理後、各戸に給水されている。殿田にある5基の配水池は全て鉄筋コンクリート構造で、総容量1587.1m3。
下水道 殿田で出た排水は、南丹市日吉殿田浄化センター(特定環境保全公共下水道)で処理され、桂川に放流されている。電気
一般送配電事業者:関西電力送配電/交流電気の周波数は60Hz/近隣にある変電所/殿田に引かれている送電線系統
回収日
船井郡衛生管理組合によるごみ収集は、日吉1ーBとして日程区分されており、殿田のほか、保野田、志和賀、上胡麻と同じ日に行われる。
回収場所
可燃ごみはおおむね組単位に設けられた拠点で回収される。ほかのごみ等(有価物含む)は、殿田区内の3カ所(殿田中学校前旭橋、殿田東町踏切駐車場、小牧会議所前)に設けられたリサイクルステーションに集められて回収される。
収集物品販売店
船井郡衛生管理組合のごみ袋などが買える収集物品販売店は、殿田に2ヵ所ある。
可燃ごみ
一般廃棄物の可燃ごみは、船井衛生管理組合(船井衛管)のパッカー車で回収され、船井衛管の積替・保管施設(園部町高屋古谷1-14)に集積される。そこから大型車に積み替えられ、
※京都市や亀岡市の焼却炉に持ち込まれて燃やされる。焼却残渣は、認可法人大阪湾広域臨海環境整備センターが持つ最終処分場で海面埋立処分される。
※経過/1991年(平成3年3月) – 船井衛管の流動床式の焼却炉施設「京都中部クリーンセンター」(八木町室河原大見谷50-1)が完成/1999年(平成11年)4月 – 株式会社タクマと株式会社カンポは共同出資でカンポリサイクルプラザ株式会社を設立/2001年(平成13年)12月 – サーマルリサイクル施設「カンポリサイクルプラザ(CRP)」(園部町高屋西谷1)の第1期工事が完成/2004年(平成16年)4月 – 船井衛管は京都中部クリーンセンターでの焼却を休止し、CRPに委託/2006年(平成18年)12月 – CRPの排出ガスから法定基準値を超えるダイオキシン類が検出されて操業停止/2008年(平成20年)9月 – CRPの運転再開/2008年(平成20年)10月 – CRPの責任範囲を明確にするため、カンポが経営から撤退し、タクマが株式の所有割合を50%から80%に引き上げて連結子会社化/2019年(平成31年)3月 – CRP撤退/2019年(平成31年)4月以降 – 近隣自治体や府外の民間業者に委託して処理アルミ缶の回収
有価物であるアルミ缶の回収カゴが日吉町殿田交流センターなどに設置されており、社会福祉法人南丹市社会福祉協議会が運営する就労継続B型事業所のひよし舎(旧ワークセンターびび日吉分所)が回収および分別を行っている。
家庭系生ごみモデル事業調査
2014年(平成26年)7月1日から2015年(平成27年)1月31日までの7ヵ月間、船井郡衛生管理組合とカンポリサイクルプラザによる家庭系生ごみの回収・成分分析調査が行われ、殿田の15世帯41人がモデル事業に参加した。
ATM
殿田内に現金自動預け払い機(ATM)は設置されていない。最寄りは日吉駅の横となる。
京都信用金庫 – 保野田市野。日吉駅横/京都銀行 – 保野田市野。日吉駅横/ゆうちょ銀行 – 保野田市野。日吉郵便局/京都農業協同組合 – 保野田島田。JA京都日吉支店/京都中央信用金庫 – 亀岡市千代川町小川1丁目。ドラッグユタカ千代川店前ガソリンスタンド
現在の殿田内にガソリンスタンドはない。殿田前田4-1にあった猪奥米油店 日吉ダムSS(ENEOSは)は2018年(平成30年)3月、日吉町保野田に移転してカントリースクエア日吉(キグナス石油)になった。日吉町内にあるガソリンスタンドは3店で、いずれも府道50号沿線にある。
最寄り順で次の通り。
猪奥米油店 セルフカントリースクエア日吉SS – 保野田島田21-1/石油元売:キグナス石油/マルゼン 胡麻SS – 胡麻佃2-1/石油元売:コスモ石油/猪奥米油店 丹波胡麻SS – 胡麻ドバシ4-1/石油元売:ENEOS公衆浴場
殿田に公衆浴場はない。日吉町内には3ヵ所の公衆浴場がある。
スプリングスひよし リフレッシュプラザ – 中宮ノ前21-1/開設者:株式会社ケー・エキスプレス/ひよしフォレストリゾート山の家 – 生畑ツノ元下16/開設者:株式会社fatマネジメント/クラウンヒルズ京都ゴルフ倶楽部 – 保野田池ヶ谷1/開設者:株式会社京都日吉観光狂犬病予防注射
狂犬病の予防注射を年1回(4月から6月の間に)受けることが日本の法律(狂犬病予防法)で定められている。南丹市では、毎年4月に市内全域で狂犬病予防の集合注射巡回が実施されている。殿田では、殿田駐在所前が集合注射会場になっている。2012年(平成24年)までは小牧会議所前も会場になっていた。
自治会情報
殿田区自治会からの情報および、南丹市や殿田駐在所など各種団体から殿田区自治会が周知依頼を受けた情報は、主に次の手段で伝達される。
全戸配布 – 月2回/組集会 – 集会頻度は組によって異なる。
回覧板 – 組単位。不定期/屋外掲示板 – 組単位の集会施設や、日吉殿田活力倍増センターに屋外掲示板が設置され、殿田区自治会からの伝達事項のほか、火災予防や人権啓発などのポスターが貼られている。活力倍増センターの掲示板は、自治会から南丹市への要望で2024年(令和6年)に設置されたもの。無線放送
南丹市が各世帯に無償で1台(2台目から有償)貸し出す戸別受信機や屋外拡声子局から、行政関連情報などが放送されている。
テレビ
1970年(昭和45年)、NHKが大向山にUHFテレビ中継放送所を設置した。ここの共同受信施設から殿田は放送波を受信してきたが、2007年(平成19年)に日吉町地区での光ケーブル(FTTH方式)によるテレビサービスが開始した。
ラジオ
放送局ごとの殿田での周波数は次の表の通り。
在阪民放ラジオ局京都中継局(京都市東山区今熊野総山町)は2023年(令和5年)10月30日に廃局した。1997年(平成9年)4月より殿田で受信できていた朝日放送ラジオ、MBSラジオ、ラジオ大阪の京都中継局からの中波放送(AM波放送)は、2023年10月29日に終了している。新聞
地方紙の京都新聞や五大紙(毎日新聞・読売新聞・朝日新聞・日本経済新聞・産経新聞)は戸別配達が行われている。京都新聞および五大紙を管轄する新聞販売店は、日吉町保野田前田にある安達新聞舗で、合売店として運営されている。一方、しんぶん赤旗と聖教新聞は専売店が担当している。
日本新聞販売協会によれば、1927年(昭和2年)ごろ、吉田八重が個人経営する吉田新聞舗(世木村殿田)が世木村および周辺の約600戸を対象に『大阪朝日新聞』『大阪毎日新聞』『京都日出新聞』を販売していた。新聞の積卸は殿田駅で行われていた。なお、同店には従業員が3人在籍し、文房具・煙草・肥料の販売も手がけていた。乳幼児の保育・教育
2026年(令和8年)4月時点での乳幼児を対象とした保育や教育の主な施設として、市立の保育所が5ヵ所、認定こども園が分園含み市立2園、私立1園、幼稚園が市立2園、私立1園ある。ほかに、市立の療育施設が1ヵ所ある。
通常学校
学区(校区)に殿田を含む公立の小・中学校は以下の通り。
特別支援学校
通学区域に殿田を含む京都府内の特別支援学校の小学部・中学部は次の通り。
なお、表には示していない丹波支援学校亀岡分校は花ノ木医療福祉センターの入所者、城陽支援学校は国立病院機構南京都病院重症心身障害施設の入所者、舞鶴支援学校行永分校は国立病院機構舞鶴医療センターと舞鶴こども療育センターの入所者が対象となっている。通学路の除雪
通学路に積雪があった際、道路に面した各家が登校時間までに除雪を行う慣習がある。
放課後児童クラブ
南丹市立殿田小学校内に南丹市直営の放課後児童クラブ「殿田ひまわり」が設けられている。
高等学校の通学区
殿田を含む口丹通学圏から志望できる京都府内の公立高校は以下の通り。なお、定時制と通信制課程の通学区域は、京都府全区域。
知新校
1872年(明治5年)8月、現在の日吉町にあたる片野・木住・稗生・小畑・安鳥・上谷・下谷・牧山・中村・世木林・宮村・上世木・殿田の各村と、現・園部町船岡の上河内・藁無・松尾の計16村による組合が結成され、殿田の井尻陣平宅を借りて、この地で最初の学校が設立された。翌1873年(明治6年)には、曹源寺隣接の小寺を修繕して校舎とした。同年6月に開校式を行い、「知新校」と命名、生徒数は男子176名、女子61名であった。
世木尋常小学校
1887年(明治20年)、一時独立していた知新校、執中校(中世木)、楽生校(生畑)が合併し、「世木尋常小学校」となった。1889年(明治22年)の町制実施の際、天若の温知校は、世木尋常小学校の天若分校となった。
殿田尋常小学校
1892年(明治25年)、小学校令の改正で、天若、中世木、生畑の分教場は再び独立し、「世木尋常小学校」は「殿田尋常小学校」に改称した。1893年(明治26年)年9月10日、場所を曹源寺から東町の殿田前田に移転した。1897年(明治30年)2月、井尻奈良枝(井尻良造の妻)により裁縫科が加設された。1908年(明治41年)4月の小学校令の改正で義務教育年限が6年間に延長し、独立校であった中世木尋常小学校を殿田尋常小学校の分教場として尋常4年までの教授が行われた。
殿田尋常高等小学校
1901年(明治34年)4月、殿田尋常小学校に2年程度の高等科が併設されて「殿田尋常高等小学校」を開校。当時の校長は、川辺村船岡の内藤直次郎。高等科教室が増設されて同年11月8日に落成式が行われている。
1903年(明治36年)4月に高等科修業年限が4年に変更した。女子手芸学校
1902年(明治35年)4月、「殿田尋常高等小学校附設女子手芸学校」が開校した。
世木尋常高等小学校
1930年(昭和5年)3月31日、「殿田尋常高等小学校」のほか、生畑、中世木、天若校が廃止され、「世木尋常高等小学校」が開校。本校が殿田、ほかが分校となった。
青年会・青年訓練所
1887年(明治20年)ごろ、世木村の各大字に青年会が設立された。1909年(明治42年)1月、殿田、中世木、木住、中が合併して「中部青年会」となった。1911年(明治44年)1月、中部、天若、生畑が合併して「世木青年会」が設立した。青年会の主な事業は冬期夜学を開講して補習教育を普及することだった。1923年(大正12年)には、各学校に青年訓練所が開設して、軍事教練が実施された。
実業補習学校
1912年(明治45年)1月、殿田尋常小学校に併設して実業補習学校が開校。同年1月20日に校舎増築と改築の落成式が行われた。
青年学校
1935年(昭和10年)4月に青年学校令が公布され、同年10月に実業補習学校と青年訓練所を統合して青年学校が発足した。1947年(昭和22年)3月の学校教育法の施行に伴い、同日に青年学校令が廃止された。
世木国民学校
1941年(昭和16年)3月1日の国民学校令により、同年4月1日に「殿田尋常小学校」が「世木国民学校」の初等科、「世木尋常高等小学校」が同国民学校の高等科となった。
世木小学校
1947年(昭和22年)に施行した学校教育法により、「世木国民学校」の初等科が「世木小学校」になる。日吉町誕生に向けた三村合併協議会での合併条件として小学校の統廃合が盛り込まれ、1955年(昭和30年)4月1日の日吉町誕生から3年後の1958年(昭和33年)、世木小学校の本校、生畑、中世木、天若の4分校、五ヶ荘小学校の田原分校、胡麻郷小学校の志和賀分校の計6校を廃止して「日吉町立殿田小学校」となった。
世木中学校
1947年(昭和22年)5月、世木小学校の校舎を借用し、世木国民学校高等科を廃して「世木村立世木中学校」が開校した。1949年(昭和24年)、世木中学校・五ヶ荘中学校・胡麻郷中学校を廃止して「組合立殿田中学校」が設立。校舎ができるまでは、世木中学校を殿田中学校の本校、五ヶ荘・胡麻郷中学校をその分校とした。1951年(昭和26年)、木造2階建10教室と特別教室2で竣工し、両分校の廃止と、小学校との借用状態を解消した。1955年(昭和30年)4月1日、日吉町の誕生で、「日吉町立殿田小学校」に改称した。
殿田朝鮮小学校
第二次世界大戦が終結した1945年(昭和20年)の10月、在日本朝鮮人連盟(朝連)の京都府本部が結成された。朝連京都府本部が中心となり、分会ごとに分会事務所、戦時期の工事現場の飯場、個人宅、公共施設などの建物で国語講習所の開設を進めた。当初の名称は多様で、クゴハッキョ(国語学校)、ウリハッキョ(我々の学校)ソウニョダン(少年団)、ヤハッキョ(夜学校)などと呼ばれた。教員には植民地期に文字を学んだことのある有識者や朝鮮人学生などが充てられた。殿田では、殿田分会事務所を校舎に殿田朝鮮小学校が1946年(昭和21年)に開始した。授業は朝からで、児童約25人、教員1人の規模だった。
1949年(昭和24年)10月19日に朝鮮学校閉鎖令があり、当日に京都府知事・木村惇は府内にあった6校(分校を含めると9校)の朝鮮人学校の認可を取り消した。同年11月5日、木村知事は無認可の3校に対しても閉鎖を命令した。木村知事が認可取消および閉鎖命令した学校名簿に殿田朝鮮学校は入っていない。
在日朝鮮人帰還事業の進行を受け、1960年(昭和35年)10月17日、朝鮮民主主義人民共和国へ帰還する児童の見送りが殿田小学校で行われた。丹波教会 日曜学校
1912年(大正15年)7月11日、丹波教会(キリスト教)の日曜学校が殿田駅前で開校した。指導は吉田八重が行った。
園部高校 世木分校
1948年(昭和23年)9月1日、農村での農業後継者と婦人の育成を目標として新教育制度の定時制教育がスタートし、殿田に京都府立園部高等学校の定時制課程(農業・家庭科)の世木分校が設置された。世木分校の第1回卒業生は10人だった。1980年(昭和55年)3月31日、世木分校は廃止された。
農業
桂川左岸の平坦部に集団化した農地と、京都府道19号園部平屋線西側の小規模団地の農地が主に水田として利用されており、土地基盤整備がすでに完了している。
南丹市農業委員会には約30名の農業委員が所属しており、殿田および田原(東雲)、中世木、生畑、木住、中、天若が一つの担当区分になっている。農地利用最適化推進委員の担当地区も同じ。特産品
黒豆(丹波黒大豆、新丹波黒大豆、日吉丸、苦労豆)/京壬生菜
集落営農
日吉町は1983年(昭和58年)から京都府単独事業である集落営農体制整備促進事業の導入によって、各集落に集落営農推進委員を設置した。1988年(昭和63年)には町単位の推進連絡協議会を設けて、集落営農から地域営農への方向付けを図っている。
農事組合法人大向営農組合の前身となる組合は、1995年(平成7年)に設立した。その後、2007年(平成19年)に農家27戸の参画により、集落型農業法人として改めて設立した。圃場整備
大向圃場整備地の石碑/府道19号に面した圃場に、大向圃場整備地の記念石碑が置かれている。この石碑の字は、当時の日吉町長 湯浅宏によるもの。
獣害対策
かかし/JR山陰線の西側に沿った、第二殿田川橋梁付近から入ったところにある農地には、かかしが6体並べられている。
シカよけイルミネーション/農事組合法人大向営農組合が府道沿いの大豆畑に設置している防獣柵は、2011年(平成23年)よりクリスマスシーズン限定で、青色のイルミネーションで彩られていた。シカ除けの効果向上をねらった取り組み。今は行われていない。千把山
日吉町域は千把(雑木の薪)の一大生産地で、農閑期の余剰労働力で薪を生産し、嵯峨へ舟筏で積み下ろして売却していた。生産者は組合にあたる把物組四十五ヵ村を組織し、効率的な流通をはかる役割を担っていた。嵯峨まで運ばれる千把をめぐり、船では濡らすことなく確実に運べることができるのに対し、筏は安価で大量運搬できるため、双方による積荷争いがあった。
世木村で取れる千把は「世木の千把」と呼ばれ、「千把一束、米一升」と言われるほど高値がつけられた。千把は一尺六寸(約50cm)に切り、殿田では廻りを二尺六寸(約75cm)に束ねた。殿田の千把山では向山、城山、宮西、アチラ、旭山などで、その商いは戦前まで森林組合が行っていた。
宮村(現・日吉町天若)出身であった吉田正三郎(元プロ野球選手・吉田義男の父)が京都市で薪炭商を営んでいたことから、殿田にとって得意客だった。1949年(昭和24年)に正三郎とユキノ(義男の母)が相次いで病死し、正雄(義男の2つ年上の兄)が跡を継ぎ、義男はシーズンオフに炭俵や薪束をリヤカーに積んで客のもとに運ぶなどと店を手伝っていた。共有林
1973年(昭和48年)時点、日吉町では、財産区を除いてすべて私有林であり、これは、1872年(明治5年)の地券発行以後、官有林をできる限り拡大するという方向での一連の官民有区分政策に対して、民有林であることの証拠を有していた故のことであり、明治初期において共有林に対する権利意識も一般に高かったと考えられる。京都府農業会議の資料によれば、1964年(昭和39年)の世木財産区は6.3町(62479.3㎡)、殿田区有林は6.0町(59504.1㎡)とある。
漁業権区域
殿田区間を含む、世木ダム(日吉町天若)から寅天堰(南丹市八木町)までの桂川本流と、支流の田原川、園部川、本梅川(亀岡市宮前町猪倉橋より上流は除く)などが大堰川漁業協同組合の漁業権(第5種共同漁業権)の区域となっている。なお、世木ダムより上流は上桂川漁業協同組合、寅天堰より下流は保津川漁業協同組合の漁業権区域。
遊漁の承認
大堰川漁業協同組合の漁場区域内で対象となっている水産動植物(アユ、ウナギ、コイ、フナ、マス類)の採捕(遊漁)する場合、遊漁料を支払って遊漁券を購入し、組合の承認を得なければならない。ただし、中学生以下の遊漁料は免除される。
禁漁期間と体長制限
大堰川漁協の漁業権区域では、琵琶湖産アユ、ニホンウナギ、フナ、ニジマス(生態系被害防止外来種)の放流が行われ、年によって若干の違いはあるが、魚種によって禁漁期間や体長制限が表のように定められている。アユ漁の解禁は竿が6月、網が8月。6月から10月まで遊漁券の購入が必要。殿田西小牧にある伊藤畳店でも購入できる。
鳥害防止の取り組み
大堰川漁協の管轄範囲でもカワウによる水産被害があり、近隣地である日吉ダム周辺や園部町船岡でカワウのねぐらが確認されている。大堰川漁協はカワウなどによる水産物への鳥害を防ぐため、桂川で防鳥テグス張りを行っている。 南丹市のカワウ一斉駆除によるアマゴ解禁日の遅れや飛散の影響で、近隣の漁協から広域での対応を求められることがあった。
自動体外式除細動器(AED)
殿田および隣接地にある自動体外式除細動器(AED)の設置場所は次の通り。
日吉駅/交流センター内待合室/南丹市立殿田小学校/1階玄関前(入って左手)/南丹市立殿田中学校/玄関入口/南丹市役所日吉支所/2階ロビー/道の駅スプリングスひよし/A棟(レストラン側)エントランスホール、インフォメーション/B棟(温泉側)フロント前、リラクゼーション横/日吉ダム/インフォギャラリー/管理所 玄関ホール公衆無線LAN
Nantan Free Wi-Fi設置場所/南丹市立殿田小学校 (体育館、ランチルーム)/南丹市立殿田中学校 (体育館、格技場)/日吉駅
近隣の公衆電話
第一種公衆電話 の設置場所/日吉町殿田交流センター横/管轄:NTT北京都支店/公衆整理番号:園部1204/第二種公衆電話の設置場所/日吉駅内/道の駅スプリングスひよし内/特設公衆電話の事前設置場所/南丹市立殿田小学校内
防災行政無線
災害情報や行政情報などを音声で伝える通信設備として、防災行政無線が整備されている。日吉町では、旧町時代の1997年(平成9年)ごろにアナログ式で整備された。
南丹市になったあとの2010年(平成22年)にデジタル式との併用が開始した。
現在、家庭などに設置している「戸別受信機」と小学校などにある「屋外拡声子局」から音声が発せられる。区などに貸し出されている「地区遠隔制御装置」からも集落内放送ができる。毎日12時と17時には、動作確認として時報音楽(ミュージックチャイム)が流される。12時がエーデルワイス、17時が夕焼小焼。
戸別受信機の設置場所/各戸(希望宅)/屋外拡声子局の設置場所/南丹市立殿田中学校のグラウンド/日吉町消防団第一分団第一部倉庫/地区遠隔制御装置の設置場所/殿田区自治会/南丹市立殿田小学校サイレン吹鳴
火災や氾濫の際にサイレン吹鳴がある。
火災信号/山林火災信号/火災警報信号/水防信号/そのほか、動作確認と火災予防啓発のため、殿田では毎月1日と、春・秋の火災予防週間にもサイレン吹鳴が実施される。
毎月1日21時/1分間長符一声/春の火災予防週間(3月1日〜7日)/1分間長符一声/秋の火災予防週間(11月9日〜15日)/1分間長符一声日吉ダム放流のサイレン
洪水で日吉ダム が放流を行う場合、警報局や警報車などによるサイレンや放送によって一般に周知が行われる。警報局は日吉ダムから園部川の合流地点までの区間に16ヵ所設置され、うち殿田区間の設置場所は次の4ヵ所。
小道津警報局(ことづ)/前田警報局(まえだ)/平岩警報局(ひらいわ)/端切警報局(はしきり)事前通行規制
京都府道19号園部平屋線の園部町船岡から日吉町殿田までの区間は落石と土砂崩落の危険があるため、事前通行規制区間に設定されている。設定区間は3Kmで、殿田新葉と園部町船岡吉坂に遮断機が設置されている。殿田雨量観測所(殿田大貝15-2)の連続雨量が100mmに達した場合に交通規制の通行注意、150mmに達した場合に通行止(予備観測)となる。その際のう回路は、国道9号と京都府道80号日吉京丹波線に設定されている。
冠水想定箇所
殿田イチバ73番5地先でJR山陰本線が立体交差する市道殿田線のアンダーパスが冠水想定箇所に設定されている。管理番号は「京都府02-101」。2004年(平成16年)以降では、2013年(平成25年)9月16日の台風第18号や2018年(平成30年)7月6日の西日本豪雨、2021年(令和3年)8月14日の前線による長時間豪雨などで冠水した/。
収容避難所
南丹市立殿田小学校/ペットの同行避難:不可
一時避難所
南丹市日吉殿田活力倍増センター
臨時避難所
南丹市立殿田中学校/ペットの同行避難:不可/南丹市日吉はーとぴあ体育館 – 日吉町保野田垣ノ内11番地/ペットの同行避難:不可/南丹市立ひよしこども園 – 日吉町保野田垣ノ内11番地・12番地1合地/ペットの同行避難:不可
自主避難所
南丹市役所日吉支所 – 日吉町保野田市野3番地1
福祉避難所
殿田近隣の福祉避難所は次の1ヵ所。
特別養護老人ホームはぎの里 – 日吉町胡麻萩原15原発事故の避難所
殿田は、高浜発電所から約40km、大飯発電所から約45kmの距離にある。環境放射能水準調査地点は、殿田を含めて日吉町内にはない。近隣では、園部町小山東町藤ノ木21に原子力規制委員会原子力規制庁が設置・管理する1mモニタリングポストの園部測定所がある。福井県にある両原子力発電所のいずれかで事故などがあった際、半径30km圏内に住む全住民が避難できるよう、殿田内では収容可能施設として、殿田中学校(収容能力1,491人)と殿田小学校(1,367人)が避難所、日吉殿田活力倍増センター(150人)が緊急時ストックの避難所に指定されている。なお、殿田と同じ南丹市内の美山町(発電所から30km圏内)住民の避難先は淡路島(兵庫県洲本市や南あわじ市など)、避難退域時検査場所候補地として京都府立丹波自然運動公園(船井郡京丹波町曽根崩下代110-7)が指定されている。
移設可能な避難所
キャンプハウス – スプリングスひよし(日吉町中)/日頃は商業施設だが、発災時には避難施設としてフェーズフリーに活用できるDODの移設可能なテント。
物資の集積場所
南丹市立殿田中学校体育館
ペット同行避難
南丹市は南丹地域で唯一、ペットとの同行避難が可能と位置付けられた施設がない。りく・なつ同室避難推進プロジェクトのアンバサダーである伍代夏子は2024年(令和6年)に南丹市を訪問し、南丹市長の西村良平に「ペットは入れない避難所と一緒に行ってもいい避難所の2つがあれば、アレルギーがある方や、ペットが苦手な方も安心して避難ができると思うので、住み分けができる環境を作っていただきたい」と提案した。
災害ボランティア
日吉町内の現地ボランティアセンター候補地は次の通り。
第1候補:日吉はーとぷあ – 保野田/第2候補:日吉産業振興会館 – 殿田/第3候補:日吉防災センター – 保野田地域災害拠点病院
京都中部総合医療センター – 八木町八木上野25番地/二次医療圏の南丹医療圏(殿田を含む南丹市ほか、亀岡市、京丹波町)を管轄する地域災害拠点病院。2017年(平成29年)5月1日までの旧名称は公立南丹病院。同医療センサーには、京都府災害対策本部や市町村などに対する災害医療体制確保の助言、そのほか各種機関との調整を行う京都府災害医療コーディネーターが京都府からの委嘱で配置されている。
災害派遣医療チーム
殿田は、災害派遣医療チーム(DMAT)の近畿ブロック(滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県)内にある。
災害対策用ヘリコプター
殿田にある災害対策用ヘリコプターの離着陸場は次の1ヵ所。
南丹市立殿田中学校グラウンド/面積:6,000m2消防
京都中部広域消防組合管轄区域/最寄りは園部消防署日吉出張所(日吉町胡麻イカガヘラ13-9)/南丹市消防団日吉支団第1分団第1班(殿田班)の活動区域
水害等被害の想定
殿田には、家屋倒壊等氾濫想定区域、洪水浸水想定区域、土砂災害警戒区域、崩壊土砂流出危険地区、急傾斜地崩壊危険区域、山腹崩壊危険地区がある。
地震被害の想定
日吉町殿田の想定震度および液状化の危険度、断層タイプ(変位)は次の表の通り/。
観測地
殿田およびその隣接地には水質や雨量、水位などを観測する施設が点在している。
南丹市水質検査採水場所
殿田内および近接地の南丹市水質検査採水場所は3ヵ所。毎年2月と7月に、水素イオン濃度(ph値)、生物化学的酸素要求量(BOD)、浮遊物質量(SS)、溶存酸素量(DO)、大腸菌数(CFU)の項目で検査が実施されている。表では、ph値、BOD、CFUの検査結果を記す。
桂川/大向橋付近 – 日吉町殿田/田原川/BELLEVYE VILLAG日吉(ヴェルビューヴィレッジ日吉)付近 – 日吉町田原駅前/胡麻川/南丹市役所日吉支所付近 – 日吉町保野田下京都府公共用水域水質測定地点
田原川測定地/桂川流入前の曹源寺橋付近(殿田前田)にある水質測定地。京都府が管理している。統一地点番号は「231-01」。環境基準の測定補助点になっている。
2002年(平均14年)に環境省が公開した河川の生物化学的酸素要求量(BOD)平均値の順位で、田原川は0.9mg/Lで全国2515位中827位となった。国土交通省河川局水文観測所
殿田水文観測所/日吉町木住にあるテレメータの第2種水文観測所。国土交通省淀川ダム統合管理事務所が管理している。観測所記号は「106041286618020」。1971年(昭和46年)6月24日から雨量の観測を開始した。観測情報を伝える電光掲示板が設置されている。
京都府雨量観測所
殿田雨量観測所/殿田大貝15-2にある、京都府南丹土木事務所が管理するテレメータ観測所。
河川ライブカメラ
殿田河川防災カメラ(田原川)/新旭橋(田原川)の右岸から上流に向けて設置されている河川防災カメラで、静止画を定期配信している。2008年(平成20年)設置。管理は京都府南丹土木事務所。
船岡簡易型河川監視カメラ(桂川)/京都府道19号園部平屋線の殿田ハジキリから園部町船岡方面に向けて設置されている簡易型河川監視カメラ。国土交通省河川情報センターにより静止画がライブ配信されている。カメラに写っている建物は桂川に設置された危機管理型水位計。京都府の水位観測所
殿田水位観測所/殿田大貝15-2にある、京都府南丹土木事務所が管理するテレメータ観測所。通常水位計で田原川を観測している。2007年(平成19年)3月9日より、水防警報と水位情報の通知・周知の実施区間に田原川の京都市・南丹市市界から桂川の合流地点までが指定されており、殿田水位観測所が基準となっている。
水防団待機水位:0.90m/氾濫注意水位 :1.80m/避難判断水位 :1.90m/氾濫危険水位 :2.60m/堤防高 :3.17m/船岡水位観測所/殿田新葉1-1にある、京都府南丹土木事務所が管理するテレメータ観測所。通常水位計で桂川を観測している。洪水予報実施河川に指定されている桂川の直轄管理区域界(日吉町中大向9番地1地先・中五味向5番地先)から南丹市・亀岡市市界(八木町西田下林23番地2地先・八木河原57番地2地先)までの水防警報と水位情報の通知・周知の実施区間には、船岡水位観測所、鳥羽水位観測所(八木町鳥羽)、八木大橋水位観測所(西田金井畠)がある。船岡と八木大橋は水位情報のみ。水防警報の基準は鳥羽<ref">“予報及び警報等 第1節6 知事が行う水防警報及び水位情報の通知・周知等”. 京都府 (2007年3月3日). 2025年2月5日閲覧。</ref>。
水防団待機水位:2.20m/氾濫注意水位 :3.50m/避難判断水位 :4.30m/氾濫危険水位 :4.90m水資源機構の水位観測所
殿田口水位観測所/殿田下大向にある、独立行政法人水資源機構が管理する観測所。桂川を観測している。
利水補給計画確保流量/10月1日〜4月30日:2.0m3/s/5月1日〜9月30日:5.4m3/sから新庄発電所使用量を控除した量または2.67m3/sのいずれか大なる方/次の表は、現状(ダムあり)の観測実数と、ダムがなかった場合の推定(観測実数+ダム流入量-放流量)の最大・平均流量および確保流量を下回った日数を比較したもの。日吉ダムの定期報告書には、ダムの効果・影響で桂川下流の流量は減少し、利水補給で確保流量が安定している。道路交通センサス 観測地点
京都府道19号園部平屋線 – 日吉町殿田向山30/調査単位区間番号:4048/京都府道50号京都日吉美山線 – 日吉町殿田東小牧21-5/調査単位区間番号:4091
都市計画・財産評価関連
都市計画法/都市計画区域外/財産評価基準/倍率地域/地積規模の大きな宅地の評価基準(近畿圏整備法、都市計画法)/1,000m2以上/道路法(道路占用料法施行令)/第四級地
過疎関連
過疎地域の持続的発展の支援に関する特別措置法(過疎法)/過疎地域(みなし過疎) – 南丹市全域が該当する。
山村振興法/条件不利地域/振興山村 – 1966年(昭和41年)度に日吉町全域が指定されており、山村活性化支援交付金や支援施策の対象になっている。指定番号は第132号。
南丹市公共交通利用環境区分/公共交通不便地域。ただし、殿田は公共交通空白地有償運送の事業区域になっている。
京都府移住の促進及び移住者等の活躍の推進に関する条例/移住促進特別区域 – 住民合意に基づく京都府への申請で「移住者の受入に積極的に取り組む」と宣言した地域。京都府による移住者の空家活用に対する支援(税軽減、補助金交付、金利負担軽減)が受けられるほか、南丹市による移住者を対象にした住宅整補助金や、地域団体を対象にした移住者向けお試し住宅やシェアオフィスの改修補助金などが使える。商工関連
構造改革特別区域/日本の原風景 ふるさと南丹どぶろく特区 – 特定農業者による特定酒類(どぶろく)の製造事業が特例処置として認められる。
京都府命の里農山漁村里力再生事業及び農家民宿規制緩和措置/命の里地区 – 農家民宿における京都府独自の規制緩和措置、食品衛生許可基準の弾力的運用の適応地区でもある。
南丹市過疎地域持続的発展市町村計画/産業振興促進区域 – 殿田を含む日吉町、美山町、八木町の全域で振興する業種に、製造業、情報サービス業等、農林水産物等販売業、旅館業が指定されている。
重要施設の周辺地域の上空における小型無人機等の飛行の禁止に関する法律(ドローン規制法)/ドローン規制区域外/基礎的電気通信役務/第二号支援対象外区域農業関連
特定農山村地域における農林業等の活性化のための基盤整備の促進に関する法律(特定農山村法)/特定農山村地域 – 世木地域として指定されている。
南丹市農業振興地域整備計画区分/農業振興地域/農業地域類型/第1次分類:山間農業地域/第2次分類:水田型医療関連
医療法/三次医療圏:京都府医療圏/二次医療圏:南丹医療圏(南丹市、亀岡市、京丹波町)/一次医療圏:南丹市医療圏
環境関連
森林法/保安林 – 殿田西側の山林で、土砂流出防備保安林と土砂崩壊防備保安林に指定された場所がある。
宅地造成及び特定盛土等規制法(盛土規制法)/宅地造成等工事規制区域 – 殿田の住宅が集まるエリアが指定されている。
特定盛土等規制区域 – 殿田の農地や山地のエリアが指定されている。
廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃掃法)/指定区域(整理番号H20-33) – 殿田新葉13の一部、14の1の一部、14の2の一部、18の一部が2008年(平成20年)5月2日に指定されている。ここは旧日吉町が管理していた一般廃棄物の埋立地(ミニ処分場)の土地。新葉14の2の山林1,109m2は南丹市の所有で、1997年(平成9年)3月10日に旧日吉町が買い取った場所。ほかの指定区域は、個人が所有権者になっている。
第2次南丹市総合振興計画ゾーン区分/やすさぎの田園ゾーン/環境基準における規制区域類型等/騒音・振動・悪臭 規制区域外/京都府ごみ処理広域化プラン/南丹ブロック – 船井郡衛生管理組合、亀岡市災害関連
水防法/洪水浸水想定区域/田原川流域などで、最大浸水深5.0m以上が想定されている。京都府による調査が実施された殿田内の対象河川および流域の想定最大規模降雨量は次の通り。
桂川(洪水予報河川)/24時間総雨量:394mm/ピーク付近9時間総雨量:300mm/田原川(水位周知河川)/2時間総雨量:188mm/重要水防区域/田原川/田原川の殿田区間(右岸延長200m、左岸延長150m)など7区間が重要水防区域(危険度判定A)に指定されている。
家屋倒壊等氾濫想定区域/河岸浸食:桂川・田原川沿い/氾濫流:田原川沿い/急傾斜地の崩壊による災害の防止に関する法律(急傾斜地法)/急傾斜地崩壊危険区域 – 2021年(令和3年)9月時点では、南丹市内13カ所の危険区域のうち4カ所が殿田で、指定年次順に殿田Ⅰ(1.36ha)・殿田東(1.01ha)・殿田Ⅱ(0.9ha)・殿田Ⅲ(0.08ha)の計3.35haが指定されている。殿田との隣接地では、日吉町田原殿田駅前の東雲稲荷神社がある斜面により4.00haが危険区域になっている。
急傾斜地崩壊危険箇所 – 殿田町筋の強風化岩の地盤箇所が指定されている。延長200m、高さ30m、傾斜30度で、箇所番号は「は1011」。
土砂災害警戒区域等における土砂災害防止対策の推進に関する法律(土砂災害防止法)/土砂災害警戒区域・特別警戒区域 – 殿田地内の18ヵ所が指定されている。
崩壊土砂流出危険地区(危険度判定B) – 城山が指定されている。
地すべり等防止法/山腹崩壊危険地区(危険度判定C) – 城山が指定されている。政治選挙関連
衆議院議員総選挙小選挙区/京都府第4区 – 定数1名。 南丹市・亀岡市・船井郡京丹波町・京都市右京区および西京区/衆議院議員総選挙比例区/比例近畿ブロック – 定数28名。京都府・滋賀県・大阪府・兵庫県・奈良県・和歌山県/参議院議員通常選挙選挙区/京都府選挙区 – 定数4名(改選数2名)/京都府議会選挙選挙区/南丹市・船井郡選挙区 – 定数1名。南丹市・船井郡京丹波町
法律等によらない区分
都市圏・都市雇用圏/京都都市圏/大野晃提唱の集落状態/準限界集落 – 集落人口の50%以上が55歳以上で、65歳以上が50%に満たない状態。
地形区/丹波区/若丹地区(3-a)行政
南丹市関係/京都府関係/日本国関係/その他
民間
福祉団体/業界団体/制度運用・事務代行系の連合組織/全国労働保険事務組合連合会/京都支部/京都西陣協議会/職能団体/労働組合/奉仕団体/青年経済団体/日本青年会議所/近畿地区/京都ブロック協議会/船井青年会議所/社会教育団体/日吉町文化交流協会
映画・ドラマ
殿田で撮影された映像作品として、映画やテレビドラマがある。
映画
日吉町民の有志団体である「ひよし魅力発信プロジェクト」(通称:日吉映画部)が、『ボクらの歳時記 夏春冬秋』と題した4部作の自主映画の製作を2023年(令和5年)よりはじめ、次の3作品(夏・春・冬)まで完成している。いずれの映画もロケ地の一部に殿田が使われ、日吉町の中学生・小学生が主演を担っている。
地蔵に願いを/初公開:2024年(令和6年)1月21日/監督:田中大志/殿田内のロケ地:殿田中学校、日吉橋、丹波梅若の道、民家/天道花(てんどうばな)/初公開:2024年(令和6年)12月1日/監督:田中大志/殿田内のロケ地:殿田中学校、天稚神社/旧五ヶ荘小学校ものがたり/初公開:2025年(令和7年)8月31日/監督:田中大志/殿田内のロケ地:殿田小学校テレビドラマ
鬼さん、こちら/短編ドラマ集ショート・ショウ2第5話/放送日:2015年3月8日/放送局:京都放送/監督:作道雄/殿田内のロケ地:とまり木
人物
この章では、殿田出身に限らず在住歴などのゆかりがある人物を記載する。
医者
村上重馬(1879年7月生) – 兵庫県氷上郡上久下村下滝(現・丹波市山南町)出身。祖先に村上天皇/吉田八重野(1886年8月24日生) – 大正時代の女医。吉田医院(内児産婦科)
芸能人
梅若景久(1528年没) – 室町時代の能楽師/梅若家久(1541年没) – 室町時代の能楽師/梅若広長(1583年没) – 戦国時代の能楽師/梅若氏盛(1663年没) – 江戸時代の能楽師/梅若氏久(1680年没) – 江戸時代の能楽師/真箏(別名・MAKOTO) – ジャズシンガー、ラジオパーソナリティ、日吉町観光大使、元芸妓/井尻勝巳 – マジシャン
クリエイター
湯浅貞夫(1927年 - 1996年5月) – 作家・郷土史家/園部町埴生の宿場に生まれ、京都府立亀岡農学校卒。のち殿田駅前に移り住む。日本共産党職員として勤務するかたわら、歴史書・歴史物語やエッセイを執筆。以下、湯浅の著書。
『歴史の群像』/『いばらの道 物語、口丹地方部落解放運動史』(1978年)/『丹波風物誌』(1982年、文理閣)/『親が子供に語る丹波の村落史』(1983年)/『天明の地鳴り 口丹波一揆物語』(1986年、かもがわ出版)/『目でみる京都の民主運動史』(1991年、かもがわ出版)/『湯浅貞夫のヨーロッパ駆け歩き』(1995年、文理閣)/田中大志(1994年生) – 映画監督/2023年から2025年までとまり木に滞在し、日吉町を舞台にした映画を住民と制作した。南丹市転出後も日吉町の映画制作に関わっている。歴代の自治会長
この節では、一般公開された灰色文献を含める書籍や報道で名前が明らかにされた自治会長(区長)に限定して記載する。なお、行政区分で殿田上区と殿田下区に別けられてからのことは、殿田全域を総括する自治会長名を記す。
井尻良造 – 年度不明/吉田長治 – 年度不明/吉田正夫 – 1941年度/伊藤博則 – 2017年度/中川智晴 – 2020年度/山口勝也 – 2021年度/井尻治 – 2022年度/井尻勝巳 – 2023年度/中川一弘 – 2024年度世木村長
井尻良造(いじり りょうぞう)/任期:1892年(明治25年)12月 - 1894年(明治27年)10月/中川彌吉/任期:1900年(明治33年)5月 - 1902年(明治35年)1月/井尻熊一郎/任期:1908年(明治41年)8月 - 1909年(明治42年)6月/吉田長治/任期:1909年(明治42年)8月 - 1912年(明治45年)1月/坂田俊助/任期:1918年(大正7年)12月 - 1922年(大正11年)12月/吉田隆一/任期:1927年(昭和2年)12月 - 1929年(昭和4年)12月/井尻良雄/任期:1930年(昭和5年)1月 - 1932年(昭和7年)1月/井尻修三/任期:1939年(昭和14年)4月 - 1941年(昭和16年)5月
世木村会議員
井尻良造/任期:1889年(明治22年)4月〜不明/級 :一級/吉田長治/任期:不明/級 :不明/吉田正夫(よしだ まさお)/任期 :4期間18年。1929年(昭和4年)- 1947年(昭和22年)
日吉町長
吉田暢男(よしだ のぶお)/任期:1967年(昭和42年)4月 - 1979年(昭和54年)4月
日吉町議会議員
日吉町発足(1955年4月1日)後の殿田在住の歴代日吉町議会議員は次の通り。
中川一雄(なかがわ かずお)/任期:1期4年。1955年(昭和30年)4月 - 1959年(昭和34年)3月/吉田暢男/任期:3期12年。1955年(昭和30年)4月 - 1967年(昭和42年)3月/滝村茂(たきむら しげる)/任期:3期12年。1963年(昭和38年)4月 - 1975年(昭和50年)3月/山内哲男(やまうち てつお)/任期:3期12年。1975年(昭和50年)4月 - 1987年(昭和62年)3月/中川悌一(なかがわ ていいち)/任期:1987年(昭和62年)4月〜不明/井尻治(いじり おさむ)/任期:3期12年。1995年(平成7年)4月30日 - 南丹市発足まで南丹市議会議員
南丹市発足(2006年1月1日)後の殿田在住の歴代南丹市議会議員は次の通り。
井尻治(いじり おさむ)/任期:3期12年。2006年(平成18年)2月19日 - 2018年(平成30年)2月18日/会派:南風会 → 南風クラブ → みらい南丹/吉田尋子(よしだ ひろこ)/任期:2018年(平成30年)2月19日 - 現職/会派:みらいねっと南丹 → つなぐ → チェンジ南丹船井郡会議員
井尻良造/任期:1899年(明治32年)9月 - 1909年(明治42年)10月/吉田長治/任期:1915年(大正4年)9月 - 不明
京都府会議員
井尻良造/任期:1890年(明治23年)8月 - 1894年(明治27年)2月/政党:憲政党/吉田正夫(よしだ まさお)/任期:1959年(昭和34年) - 不明/政党:日本社会党(1954年に入党)
殿田のコード
住所コード(JISコード系)・標準地域コード/合併により南丹市が誕生する前の京都府日吉町の行政区域コードは「26404」だった。現在欠番。
運輸局住所コード/南丹市行政区番号/一桁目の2は日吉町、二桁目の3は世木地域に割り当てられている番号。
日本行政区画番号(損保統一コード)殿小児童による田原川清掃
殿田小学校の児童による学校前の田原川の清掃活動が、2020年(令和2年)より毎年続けられている。清掃活動には地域住民も参加し、拾ったごみの分析なども行われている。そうした活動が評価されて2024年(令和6年)12月、殿田小学校は第25回環境美化教育優良校等表彰事業の優良校に選ばれている。
殿中生徒による地域清掃
殿田中学校の生徒は2023年(令和5年)から毎年、校区内の施設や通学路の清掃を行っている。
桂川流域クリーン大作戦
2016年(平成28年)の第9回桂川流域クリーン大作戦から、殿田の前田橋周辺でも毎年2月ごろの川草が枯れた時期に清掃活動が実施されるようになった。桂川流域クリーン大作戦は2008年(平成20年)に淀川管内河川レンジャ-の呼びかけではじまり、最上流拠点の殿田から大阪府島本町までの20か所以上で3000人以上の市民が一斉に清掃を行っている。殿田拠点を取り仕切るのは第18回までが南丹市が組織する「南丹市の環境を守り育てる会」で、2026年(令和8年)の第19回から「世木地域振興会」で、毎年殿田住民を中心に約50名が参加して河川清掃を行っている。
龍の森プロジェクト
上空から見た天若湖が龍の姿に見えることにちなみ、2016年(平成28年)秋、この池を中心とした殿田を含む一帯の地域の環境資源の保持と活用を推進するため、商工業者や地縁団体らで組織したプロジェクトチーム。プロジェクトの一環として、天稚神社で配布されている朱印札は、龍の形ともいわれる天若湖がモチーフに用いれれている。
プロジェクトチームは、京都府南丹ふるさとの川愛護事業の登録団体になっている。日吉町殿田交流センター前の河原を起点として桂川と田原川の清掃活動を、殿田区自治会の「みんなで美観プロジェクトチーム」、世木地域振興会は合同で毎年行っている。殿田PR人形
殿田PR人形は、殿田区から依頼を受けた人形作家の空閑早百合によって作られた3体の人形。能、狂言、角倉了以をモチーフに作られている。2024年(令和6年)3月17日、殿田とーくほーるでお披露目会が行われた。
人形の名称とモチーフ/梅若氏吉 – 能/薪乃左衛門 – 狂言/殿田川了堰 – 川の歴史方言
殿田の方言は広義で口丹波地域と区分され、アクセントは京阪神のもの。主に次の特徴がある。
ザ行とダ行の混同/ザ行とダ行を混同し、例えば、全然(ぜんぜん)が「でんでん」と発音される。
一拍語/一拍語を伸ばし、例えば、手(て)が「てえ」と発音される。
敬語/京言葉同様に、敬語に「〜はる」と付ける。
疑問詞/疑問の終助詞に「か」「け」「こ」を使う。
進行相/進行相に「〜とる」「〜てる」「〜よる」があり、例えば、「そこで転けている」は「そこで転けとる」となる。
間投助詞/間投助詞に「なあ」「のう」を使う。
以下、殿田で使われている方言の一部。投票所
殿田住民に割り当てられている指定投票所および投票区は次の通り。
南丹市合併直後の市長・市議選挙/2006年(平成18年)2月以降/南丹市日吉はーとぴあ/第37投票区:殿田尾崎、殿田尾崎旭山飛び地、田原東雲、保野田/南丹市殿田活力倍増センター/第44投票区:第37区に属する区域を除く殿田/第27回参議院議員通常選挙/2025年(令和7年)7月以降/(旧)南丹市日吉はーとぴあ/第20投票区:殿田尾崎、尾崎旭山飛び地、田原東雲、田原片野、田原片野団地、保野田、志和賀/南丹市殿田活力倍増センター/第23投票区:第20区に属する区域を除く殿田、中世木参考文献
植村善博ほか「三峠活断層系,殿田断層世木林地区のトレンチ調査と最近の活動履歴」『地学雑誌』第109巻、第1号、73–86頁、2000年。doi:10.5026/jgeography.109.73。 /「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』角川書店、1982年。全国書誌番号:82036781。 /井尻治ほか 著、吉田正彦 編『私たちのふるさと殿田:歴史と思い出』殿田の歴史を考える会、2020年10月1日、2–39頁。京都府立京都学・歴彩館図書登録番号 118018173。
関連項目
日吉ダム/猿楽/殿田活度断層/南丹市/日吉町 (京都府)