「宮城県 登米市 東和町米谷」について
| 郵便番号 | 〒987-0902 |
|---|---|
| 住所 | 宮城県 登米市 東和町米谷 |
| 読み方 | みやぎけん とめし とうわちょうまいや |
| この地域の 公式HP |
|
| 地図 | |
| 地方公共 団体コード |
04212 |
| 最寄り駅 (基準:地域中心部) |
− |
| 周辺の施設、 ランドマーク等 |
|
- 「宮城県 登米市 東和町米谷」の読み方は「みやぎけん とめし とうわちょうまいや」です。
- 「宮城県 登米市 東和町米谷」の郵便番号は「〒987-0902」です。
- 「宮城県 登米市」の地方公共団体コードは「04212」です。
- ■f02: 小字毎に番地が起番されている町域。
「東和町米谷」の概要 from Wikipedia
東和町米谷(とうわちょうまいや)は、宮城県登米市東和地域にある大字であり、旧登米郡米谷村・楼台村、旧登米郡米谷町、旧登米郡東和町米谷に相当する。郵便番号は987-0902。登米市東和地域の中心集落であり、古くは一関街道と本吉街道の結節点や北上川舟運の河港の一つなど、海岸部と内陸部をつなぐ交通の要所として栄えた。
地理
登米市の東部、東和地区の南部に位置し、東は本吉郡南三陸町入谷と、西は北上川を隔てて登米市中田町浅水と、北は東和町米川や東和町錦織と、南は登米町大字日根牛と接する。
東和町米川・東和町錦織と共に東和地域を構成し、東和地域の生活拠点としての役割を担う。東和町米谷は米谷・楼台・相川・北方の4部落からなり、宮城県道202号東和登米線と国道398号が交差する米谷部落には商業機能が集積している。地区の中心部を東西に国道398号が、北部には国道346号が通っていて、海岸部と内陸部をつなぐ交通の要所となっていた。しかし、三陸自動車道の開通により、地区内の国道を通行する車両数は大きく減少、これは経済活動にも影響し、閉業を余儀なくされる商店も出た。
域内の地層は主に古生代二畳紀もしくは中生代三畳紀のものが分布する。二畳系地層は1887年(明治20年)に神保小虎によって発見され、下から錦織層、楼台層、天神ノ木層、山崎(礫岩)層、登米層に分類される。西郡層は東和町錦織字大清水の上在郷を模式地とし、主に黒色粘板岩からなる地層であるが、米谷の冷松寺や旧米谷工業高校周辺でも露出している。楼台層は東和町米谷の楼台部落を模式地とし、上部は石灰岩が、下部は砂岩、砂質粘板岩、粘板岩が発達している地層。楼台以外に、東和町米谷の区域内東部や中心市街地近辺において広く分布する。天神ノ木層は東和町米谷の天神ノ木部落(字天神前周辺)を模式地とし、砂岩と粘板岩の互層が特徴的な層。山崎層は東和町米谷字山崎を模式地とする地層で、薄衣礫岩層のうちに含まれることもある層。花崗岩の円礫を含んでいることを特徴する。登米層は登米町北沢~皮袋を模式地とし、黒色粘板岩を主体として発達している地層。東和町米谷においては東部に分布する。登米層の黒色粘板岩はスレートとして用いられることもある。三畳系地層は稲井層群の平磯層が主に分布している。その他、新生代新第三紀・第四紀の沖積層などが一部分布する。
1957年(昭和32年)に登米高生が字古館の米谷工業高校に至る坂道で日本では珍しいソテツシダ類の化石を発見してから、域内の二畳系地層からは植物化石が多く産出することが知られており、当地で産出した植物化石群は東北大学の浅間一男によって米谷植物群としてまとめられた。これは東南アジア・中国に分布するカタイシア植物群に含まれる植物群で、二畳紀当時の大陸分布や植物の進化を知るうえで貴重な資料となっている。植物相は多いとは言えないが、ソテツ類に似た葉をもつタエニオプテリス(Taeniopteris)や針葉樹の祖先といわれているコルダイテス(Cordaites)を中心に30余種の植物化石が知られている。二畳紀の日本列島は海が多く陸地が少なかったうえに地殻運動の影響もあったことから、日本においては石炭紀から二畳紀にかけての植物化石は断片的にしか産出しないことが一般的であるが、米谷付近に分布する黒色頁岩からなる海成層には、大陸側から漂移してきたとみられる二畳紀前期の比較的良質な植物化石が残存している。
東和町米谷には、登米市例規「登米市行政区長設置条例」(令和7年4月1日施行)および「登米市行政区長設置条例施行規則」(令和7年4月1日施行)に基づいて、米谷第1区、米谷第2区、米谷第3区、米谷第4区、米谷第5区、米谷第6区、米谷第7区、米谷第8区、米谷第9区の9の行政区が設置されている。なお、これら行政区はもともと、東和町成立に際して制定された東和町例規「東和町行政区設置条例」に基づいて制定された行政区。地形
河川/北上川/二股川/大関川/恩田川/山々/高荒神山 - 227 m。
杉山 - 164 m。
斥候峠 - 340.2 m。小字
仙台法務局登米支局の「登米市登記所備付地図データ」(2024年10月5日時点)およびデジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリの「宮城県町字マスターデータセット」(2025年8月9日時点)、登米地域合併協議公表の「町名、字名一覧」(2003年6月9日時点)、登米郡東和町公表の「東和町史」(1987年3月時点)によれば、東和町米谷の小字は以下の通り。
明治期の小字
宮城県各村字調書によると、明治17,18年頃の米谷村の小字は以下の通り。
公示地価
2025年(令和7年)1月1日の公示地価(国土交通省および宮城県地価調査)によれば、下記の東和町米谷における地価は次の通り。
東和町米谷字杣荷69番1:8,130 円/m2/東和町米谷字元町166番:9,130 円/m2古代
米谷を含む北上山系近傍は、東和町史が発行された1987年(昭和62年)時点において、旧石器時代の遺跡が一か所も発見されていない。そのため米谷の歴史は縄文時代から始まる。米谷にある縄文時代の遺跡として、大膳館遺跡が挙げられる。大膳館遺跡は、東は山続きで西は二股川に近く住みやすい地形にあったとされ、前期中期後期晩期の土器・石器が出土している。石器は磨製石器、石皿、凹石、やじり等などで、土器は杯型土器や壺の断片が発見されている。出土品の中で特に珍しいのは両面土偶と呼ばれる、これまでにない独特の型の土偶であった。表裏両面に顔と思われる面を有し、顔部分にはアイヌの入れ墨によく似た隆起線が施されていた。
平安時代になると、東北地方に住む一部の勢力は蝦夷とよばれ、朝廷に従わず幾度となく朝廷勢力と交戦した。当地方には遠山村と呼ばれる蝦夷の拠点があったとされ、登米(とよま)の語源になったともいわれてる。いずれにせよ、坂上田村麻呂らによる蝦夷征討を経て、次第に蝦夷の民は朝廷勢力に恭順していき、律令制に組み込まれていった。その後、当地方は鎌倉時代に至るまで安倍氏や奥州藤原氏の勢力圏となった。中世
鎌倉時代になると源頼朝の奥州藤原氏討伐で軍功を挙げた頼朝配下の諸氏が奥州藤原氏旧領を支配した。御家人葛西清重は、頼朝によって奥州総奉行に任命され牡鹿郡石巻に入り、登米郡を含む6郡を賜った。その後、建治2年(1276年)8月、千葉介頼胤の子である清信(清経)が葛西家の継嗣として迎えられると、一族の千葉基親の三男胤氏が長兄胤常と清信に伴って下総国から奥州に下向した。千葉胤氏は登米郡に采地500余貫を与えられ、米谷城に入り、亀卦川氏を名乗った。以降、江戸時代まで米谷城には亀卦川氏(米谷氏)が入った。その後、戦国時代になると葛西氏は浜田広綱といった半ば独立の家臣らの内乱により疲弊するようになった。結果として、当時の葛西氏当主葛西晴信は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣することが叶わず、秀吉に敵意を持つものとみなされ改易された。天正18年8月14日、葛西晴信は木村吉清ら秀吉勢を深谷で迎え撃ったが敗北し、葛西家は滅亡した。葛西家旧臣らは新領主となった木村吉清に反発し、葛西大崎一揆を起こしたもののまたもや敗れ、その後伊達政宗の陰謀によって深谷須江糠塚にて惨殺された。米谷城主米谷常秀も須江糠山で暗殺され、亀卦川氏は滅亡した。
近世
旧葛西大崎領が伊達氏の手中に入ると、米谷の地は仙台藩の一部となり、中奥郡奉行の管轄となり、楼台・西郡・嵯峨立・狼河原・鱒淵・日根牛とともに川東七ケ村と総称された。米谷にはまず石母田大膳景頼が入ったが、慶長19年(1614年)に加美郡宮崎へと移った。代わりに元和2年(1616年)に伊達家臣中一家の柴田氏が胆沢郡水沢から米谷に移り、米谷村南方を支配した。柴田氏は天和元年(1681年)に柴田郡船岡へと知行替えとなるが、米谷邑主として君臨した66年の間に現在の米谷市街地の原型を形作った。元禄16年(1703年)になると、柴田氏の代わりに高泉氏が黒沼から移った。高泉氏は大崎氏の分流にあたり、明治維新を迎えるまで米谷の領主として君臨した。
江戸時代、仙台藩は北上川舟運を活用し、北上川流域からの物資(米など)を北上川河口の街である石巻から各地へと物資を輸送した。北上川では平田船と呼ばれる船が往来し、「河岸」とよばれる箇所に停泊して物資を運搬した。米谷村には「米谷」と「石の鼻」の二つの河岸があった。なかでも二俣川にあった石の鼻河岸は狼河原、大籠の重要産物、木材、木炭の積出河港として重宝され、昭和初期に至るまで利用された。また、石の鼻では筏流しも頻繁に行われた。石の鼻や米谷から筏流しによって運ばれた木材は2,3日かけて石巻港へと到達した。この筏流しは昭和中期にトラックによる木材運搬が始まってから姿を消した。
平泉政権全盛期には北上山系から多量の金が産出していたことはよく知られている。米谷においてもそれは同様で、江戸時代には米谷村と楼台村の人数改帳には「金堀り」が記載されており、金の採掘産業が行われていたことがわかる。ただし、平安時代から採掘されていた金は仙台藩政時代に堀り尽したとされ、「金堀り」をしていた人々は開墾して田畑を作り百姓になったとされる。それでも「金堀り」の家々は相変わらず試堀を続け、藩も特別にこれを許し、税金免除となったと伝えられている。
狼河原や大籠など周辺地域では製鉄が盛んに行われるようになり、そんななか仙台藩2代藩主伊達忠宗は米谷村に鍛冶屋作業場を作ろうと考えた。これは先述の通り鉄の産地が近くに立地し、また鉄を輸送するための船場も近くにあることから適当とみたからであるとされる。明暦元年(1655年)4月には山口内記と真山刑部の下知によって鍛冶屋町ができたのを鍛冶奉行菅野九助が書き記しており、翌年には12人の鍛冶屋が一家で米谷村に引っ越してきた。この鍛冶屋は仙台藩直属の職人で一人当たり333坪の宅地を賜った。以降、米谷では鉄が盛んに生産されるようになった。一方、楼台村では煙草が盛んに生産されていた。実際、文政6年の『楼台村煙草不作調査上』によれば、楼台村の人頭86名中50名が煙草耕作者であったとされ、相当な煙草の産地であったことがわかる。近代
明治維新を迎えると、米谷など周辺地域では大規模な一揆が発生した。明治元年12月、狼河原村の一揆勢が鉈や鎌で武装し、狼河原村肝入、検断、組頭等の住宅を襲撃した。錦織村北方の村人も加わり、600人ほどとなった一揆勢は根廻から冷松寺を通って米谷に入らんとしたが、不穏な一揆を聞きつけた旧米谷村領主高泉家重訳たちと西郡の大内家の重役たちが冷松寺で一揆勢を退けた。翌年1月には米谷の百姓100人余が狼河原に応援を求め、狼河原から駆け付けた300人が合流し、米谷に押し入る騒ぎがあったが役人の説得で解散した。
1875年(明治8年)10月17日、水沢県における村落統合の一環で米谷村と楼台村が合併し、改めて米谷村が誕生した。米谷村は1889年(明治22年)に単独で町村制を施行した。同月22日に村長・助役が選任され、28日に東陽寺本堂を議場として村会が開かれた。
明治になると、近代化により交通の便が順次、改善されていった。1879年(明治12年)に登米郡佐沼広通社が広通丸という汽船を北上川に浮かべ西磐井郡狐禅寺から牡鹿郡石巻間で航行を開始して以来、登米丸、北上丸、神風丸などの大型船が就航した。これら定期船の発着所は水運交通の要所として栄え、米谷もこのうちの一つだった。さらに1886年(明治19年)4月に本吉街道(米谷道)において水界隧道がフランス人技師の設計により完成すると、米谷志津川間で荷馬車や車が通行可能となった。続いて、1890年(明治23年)1月、石巻の人、内海五郎兵衛が有料木橋を米谷村北上川に架橋の計画を立てたが、当時の米谷村会が/堤防に妨害を与え水害をきたす。
舟筏の通行不便になる。
橋銭をとられることにより地方民の負担が増大する。
という理由で反対し、宮城県知事松平正直宛てに不許可要請の意見書を提出した。結局、内海の試みは失敗したが、1903年(明治36年)、今度は地元有志が舟橋(楓橋)を建設する計画を打ち出した。1905年(明治38年)1月に米谷舟橋(楓橋)が完成し、その後、橋は1920年(大正9年)に米谷町営、1924年(大正13年)に宮城県営となり、1930年(昭和5年)7月には鉄橋の米谷大橋に建て替えられた。
1935年(昭和10年)4月23日午後3時45分、仲間町横町寄りから出火し、15 m/sの強い西北風のために横町の3分の2、足柄町全域、日面の半分を焼失、同7時鎮火した。全焼住家93軒、非住家86棟、罹災102世帯・511人を数えた。この火災によって米谷郵便局、米谷巡査部長派出所が類焼した。翌24日臨時の米谷町議会が招集され、火災復興委員会を設置して復興に当たることとした。その後、町は字日面32番地の223坪を買収し、町営住宅5棟が建設された。現代
戦後改革の一環として地方分権が推進され、市町村規模の見直しによる行政改革が断行されることとなった。町村合併促進法(昭和28年法律第258号)が成立すると、町村の規模はおおむね8,000人以上が適切という指針が公表された。宮城県では町村合併促進審議会が設置され、同協議会の協議に基づき県下市町村合併の枠組み(県試案)が設定された。登米郡においては、1954年(昭和29年)4月12日に開かれた第4回町村合併推進協議会で、石越村を除く15町村を佐沼地区、登米地区そして米谷地区の3地区に分けて町村合併の枠組みとする案が提示された。米谷町は、上沼村・浅水村・錦織村・米川村とともに米谷地区に含まれた。しかし、米谷地区における町村合併は難航した。これは1954年(昭和29年)11月28日に宝江村議会が県試案に反対する中田自主案(石森町・宝江村・浅水村・上沼村での合併案)を議決したことを皮切りに関係他町村においても県試案に反対する議決が続出したため。中田自主案を掲げた中田沼水系4町村(石森町・宝江村・浅水村・上沼村)は「自然的、社会的部面等あらゆる面において歴史的に強い紐帯をもって支えられ、培われてきている」として、中田自主案の実現に向けて県や関係組織に強く働き掛けた。さらに、米川村が錦織村と岩手県東磐井郡大津保村・黄海村の各一部と合併するという自主案が提案されるなど、米谷地区での合併議論は紛糾し、1955年(昭和30年)1月20日の第6回町村合併推進協議会で事情に精通した調査第4部会が編成され、問題の解決にあたった。同部会は7月4日に中田自主案と県試案の折衷案として2町5村合併案(米谷地区に宝江村・石森町を加えた枠組み)を提示した。県や町村合併推進協議会が紛糾する一方で、関係町村は着々と合併に向けて運動を開始していた。中田沼水系4町村は1955年(昭和30年)4月20日に合併議案を議決、川東3町村(米谷町・錦織村・米川村)は中田沼水系4町村の合併は不可避と見て、1955年(昭和30年)4月15日に川東3町村での町村合併促進審議会を設置するに至った。2町5村合併案が県から提示されると、川東3町村は議決するも、中田沼水系4町村は同調せず翌年4月1日に4町村での合併を断行し、中田町が成立した。残された川東3町村は役場の位置や基礎財産処分で揉め、先に錦織村・米川村の2村で9月30日に合併、日高村が成立した。4月13日には米谷町・日高村に向けて合併勧告がなされ、以下の調停案が提示された。
両町村はこれを受諾し、1957年(昭和32年)5月1日、合併が施行され、東和町が成立同日、東和町楼台が同町米谷に編入される処分並びに楼台字宮前を米谷字宮の前とする処分がなされ、6月21日に 字の名称変更(昭和32年宮城県告示第318号)で告示された。
1978年(昭和53年)、宮城県沖地震が発生、米谷では米谷大橋が橋台沈下するなどの被害を受けた。これに伴い、米谷の送り盆行事である「米谷の花火」はしばらくの間、中止せざるを得なくなった。1982年(昭和57年)1月12日から新しくなった米谷大橋の供用が開始されてたことで翌1983年(昭和58年)、県北最大級の規模を誇る「米谷の花火」は復活した。しかし、2009年(平成21年)には、景気悪化の影響を受けて、十分な協賛金を得られる見通しが立たなくなり、1983年(昭和58年)の復活以来、初めて花火が中止となった。それから年月を経て2025年(令和7年)、15年ぶりに「米谷の花火」が開催された。沿革
永正8年(1511年) - 桃生郡を支配する山内首藤氏を盟主として登米氏、末永氏、門田氏などが葛西氏に対して反乱を起こす(三郡一揆)。良代城が反乱軍により落城し、城主伊藤氏が滅亡。
1873年(明治6年) - 米谷郵便取扱所が字元町130番地に設置。
1875年(明治8年)/北上川、佐沼川などの堤防が決壊し、大損害を被る。
1月 - 米谷郵便取扱所が米谷郵便局と改称。
1876年(明治9年) - 川東7ケ村の区務所が設置される。
1886年(明治19年)/米谷・志津川間の県道完成。
4月1日 - 巡査駐在所が設置される。
1898年(明治31年) - 米谷農会が設立。
1905年(明治38年)1月30日 - 米谷舟橋が架かる。
1914年(大正3年) - 電線が架設され、域内にはじめて電灯が灯る。
1926年(昭和元年) - 東陽寺境内に託児所開設。
1930年(昭和5年)7月 - 米谷大橋が架かる。
1945年(昭和20年)1月 - 登米久美愛病院(現在の登米市立米谷病院)が開院。
1947年(昭和22年) - 米谷中学校が開校。
1948年(昭和23年) - 宮城県登米高等学校定時制課程米谷分校が開校。
1950年(昭和25年) - 七十七銀行佐沼支店米谷出張所が米谷支店に昇格。
1956年(昭和31年)10月 - 米谷町・中田町組合立米谷病院設立。
1957年(昭和32年)/1月 - 米谷簡易水道完成。
4月1日 - 米谷町水道給水条例施行。米谷簡易水道が給水開始。
1968年(昭和43年)12月 - 米谷簡易水道が錦織・細野・根廻まで拡張。
1973年(昭和48年)4月 - 託児所が東和町立米谷保育所に改組。
1975年(昭和50年)3月1日 - 米谷農業協同組合が米川農協・錦織農協と合併し、東和町農協となる。
1979年(昭和54年)4月 - 米谷幼稚園開設。
1983年(昭和58年)11月 - 公立米谷病院改築。
1995年(平成7年)5月12年 - 北上川親水公園が開園。
1996年(平成8年)5月16日 - ミニ独立国「みやぎ北上連邦」の大統領府が域内に置かれる。
2005年(平成17年)/3月6日 - 米谷公民館が字日面1から字秈荷75に移転。
3月19日 - 米谷地域づくり推進協議会設立。
2008年(平成20年) - 新米谷大橋が架かる。
2020年(令和2年)10月19日 - 七十七銀行米谷支店が迫町佐沼へと移転。
2025年(令和7年)/3月 - 東和町住民バス廃止。
4月 - 登米市立米谷小学校が閉校し、登米市立東和小学校が開校。行政区域の変遷
明治元年(1868年) - 土浦藩の支配下に置かれる。
明治2年(1869年)/3月28日 - 土浦藩取締地が涌谷県となる。
8月 - 登米県に属する。
明治4年(1871年)/11月2日 - 一関県に属する。
12月13日 - 水沢県に属する。
1875年(明治8年)/10月17日 - 水沢県における村落統合の一環で米谷村と楼台村が合併し、米谷村が成立。
11月22日 - 磐井県に属する。
1876年(明治9年)4月 - 宮城県に属する。
1889年(明治22年) - 米谷村が町村制を施行し、改めて米谷村が成立。米谷と楼台の2大字を編成。
1903年(明治36年)12月1日 - 米谷村が町制を施行し米谷町となる。
1957年(昭和32年)5月1日 - 米谷町と日高村が町村合併し、東和町が誕生。それに伴い、同日、楼台が米谷に編入され、東和町米谷が成立。
2005年(平成17年)4月1日 - 東和町が他の登米郡の町々、本吉郡津山町と合併し、登米市が誕生。東和町米谷は登米市東和町米谷となる。地名の由来
米谷/米谷村風土記によれば、村名について往古は前谷村と称していたとされる。米谷の由来については次の通り。ある時、町から5丁ほど東の山沢の奥に僧がおり、数名の弟子を従えていたが、僧たちが里へと托鉢せずに毎日ぶらぶらしているのを不審に感じた村民が様子を伺いにいったところ、かつて清水が湧き出ていた岩間から白米が湧き出て僧たちはそれを取り上げて食べていた。村民たちは驚き、岩間を「米渓の泉」と呼び寺院を建て、かの僧を住職として米谷山福元寺(福源寺)とし、村名を前谷から米谷に改めたという伝説が伝えられている。
楼台/往古は「良代村」と書いていたが、享保8年(1723年)に仙台藩5代藩主伊達吉村が当地を訪問した際に、「楼台と改めよ」との言葉により楼台となったとされる。前地名の良代のは菊池勝之助によれば、良い田の意であろうと推測され、また菊池は「楼台」について、北上川に臨み北に平野を擁することから宛然楼台の上から望むような景観であったので「楼台」の文字が選ばれたものと推測されている。公共施設
国土交通省/国土交通省東北地方整備局北上川下流河川事務所米谷出張所(東和町米谷字古館5-4)/登米市/旧米谷小学校(東和町米谷字越路75番地)/東和高齢者福祉施設(東和町米谷字新細待井2番地)/登米市米谷公民館(東和町米谷字秈荷75番地)/市営東和城内住宅(東和町米谷字根郭116番地3)/市営東和日面住宅(東和町米谷字日面15番地、18番地)/市営東和日面第二住宅(東和町米谷字日面56番地)/市営東和三六山第二住宅(東和町米谷字日面65番地2)/市営東和三六山第一住宅(東和町米谷字日面81番地2、83番地1)/市営東和古舘厚生住宅(東和町米谷字古舘4番地2)/旧米谷工業高等学校(東和町米谷字古舘88番地)/登米市立東和小学校(東和町米谷字細野35番地)/登米市立東和中学校(東和町米谷字細野35番地)/登米市東部東和学校給食センター(東和町米谷字細野35番地)/東和楼台コミュニティセンター(東和町米谷字宮ノ前413)/登米市立米谷病院(東和町米谷字元町200番地)
民間事業所等
里山民宿 かじか村(東和町米谷字相川91番地) - 宮城県が舞台の連続テレビ小説であるおかえりモネのロケ地として、使用された。
不老仙館(東和町米谷字秈荷65番地)/米谷郵便局(東和町米谷字元町170番地)公園
東和大関川河川公園(東和町米谷字相川1番地)/三滝堂ふれあい公園(東和町米谷字相川1番地6)/東和大沢農村公園(東和町米谷字新大沢94番地ほか)/東和北上川親水公園(東和町米谷字根郭および字元町地内)/東和南沢農村公園(東和町米谷字南沢52番地8ほか)
鉄道
域内に鉄道駅はない。最寄駅は柳津駅(JR気仙沼線)などが挙げられる。
ただし、1968年(昭和43年)までは仙北鉄道米谷駅が、2020年(令和2年)4月1日まではJR気仙沼線志津川駅(東北地方太平洋沖地震以降休止)が最寄り駅であった。道路
1905年(明治38年)には北上川に待望の米谷舟橋がかけられ、1930年(昭和5年)には米谷大橋がかけられた。米谷大橋は1978年(昭和53年)の宮城県沖地震で被害を受け、2トン以上の車輛の通行が不可能となったため、架け替えられ、1982年(昭和57年)1月12日から新橋の供用が開始されている。
国道/三陸沿岸道路登米志津川道路/登米東和インターチェンジ/三滝堂インターチェンジ/国道346号(昭和47年4月28日付政令第116号指定)/国道398号(昭和49年11月12日付政令第364号指定)。
一般県道/宮城県道202号東和登米線/都市計画道路/3・5・14米谷大橋線/3・15・15米谷中央線/部落間道路/新小路・山崎線(字恩田)/根郭相川線(字根郭)/橋梁/米谷大橋 - 全長183 m。
新米谷大橋 - 全長522 m/岩の沢橋/トンネル/水界隧道/新水界トンネル - 1981年(昭和56年)11月1日開通。道の駅
道の駅三滝堂(東和町米谷字福平191番地1) - 2017年(平成29年)4月1日開設。
バス
2025年(令和7年)3月に東和町住民バス(市民輸送兼スクールバス)が廃止されたが、登米市市民バス等の路線バスが2026年(令和8年)現在においても運行している。
南三陸乗合バス/志津川登米線/登米市市民バス/東西循環線/登米線/津山線/東和線米谷における教育
米谷村には19世紀から多くの寺子屋ができた。これは仙台藩内で仙台に次ぐ文通の地と言われた登米が近くにあり、その影響を受けたためであろうとされている。明治になって学制が公布されると、米谷には1873年(明治6年)6月に下等小学校が開校、1875年(明治8年)7月に秈荷小学校、1877年(明治10年)3月に芊莪小学校を称した後、1879年(明治12年)7月、米谷小学校となった。1887年(明治20年)4月には米谷高等尋常小学校となり、高等科と尋常科が置かれた。1918年(大正7年)4月には米谷町農業補習学校が、1926年(大正15年)4月には米谷町青年訓練所(ただし2年後に廃止)が、1936年(昭和11年)7月には農業補習学校を廃して米谷青年学校が併置された。戦後の教育改革で米谷における初等教育機関として米谷小学校が改組成立した。米谷小学校は楼台・北方(吉田)・相川の三分校を擁していたが昭和40年代にすべて廃止され、米谷小学校も2025年(令和7年)3月に廃止された。
中学校は戦後の1947年(昭和22年)4月1日に米谷小学校内に成立した。米谷中学校校舎新築の際、昭和の大合併で北上川を挟んで合併という気運が高まっていたことから、町村合併の結果を待たずして米谷中学校と浅水中学校が合併し、1951年(昭和26年)4月1日、組合立北上中学校が浅水村に成立した。結局、北上川を挟んでの合併は破談となり、北上中学校は1974年(昭和49年)3月まで東和町・中田町の組合立中学校として存在していたが、同年4月から組合が解消され東和町立となり、1976年(昭和51年)3月31日に東和中学校に統合された。
高等学校は1948年(昭和23年)7月に米谷公民館を教場として宮城県登米高等学校定時制米谷分校として開校したのが始まり。まもなく、米谷中学校を間借りして夜間授業が開始されたが、先述の通り、1951年(昭和26年)に米谷中学校は浅水中学校と合併し校舎が全面的に空いたため、夜間授業から昼間授業へと転換された。このころから独立の機運が高まり、1952年(昭和27年)4月に米谷町・米川村・浅水村組合立米谷高等学校(定時制)が設立された。1955年(昭和30年)7月に新校舎が落成すると、全日制の工業課程設置と県立移管を求める声が上がり、1958年(昭和33年)に工業課程が設置され、実質的には全日制的なカリキュラムが組まれた。1961年(昭和36年)には名実ともに全日制へと切り替えるべく、組合立米谷高校の生徒募集を停止し、翌1962年(昭和37年)には宮城県米谷工業高等学校が設置された。2015年(平成27年)3月31日に米谷工業高校は上沼高校・米山高校と共に、宮城県登米総合産業高等学校へと統合され、米谷から高等学校はなくなった。小・中学校の学区
登米市例規「登米市就学すべき学校の指定に関する規則」(2025年4月1日施行)によれば小・中学校の学区は登米市立東和小学校、登米市立東和中学校となっている。
統計
米谷地域づくり推進協議会によれば、2024年(令和6年)3月末現在における各行政区の人口および世帯数は以下のとおり。
仏教寺院
亀松山東陽寺 - 米谷越路に位置する。伊達家譜代の重臣であった原田甲斐の菩提寺として著名。文化13年(1816年)火災で焼失したが、大肝入であった亀卦川軍左エ門の帰依により復興したとされる。本堂裏にある墓の目印として植えられた大銀杏は、300年余を経て、今では樹高30m、幹周7.2m、枝張り24mにもなり、登米市の天然記念物となっている。裏庭には、米谷の地名の由来となった、「米渓ヶ泉」がある。
鳳凰山冷松寺 - 米谷大嶺に位置する。大関川口近くにあり米谷邑領主高泉家の菩提寺にあたる。高泉家が米谷に移ってきた際に冷松寺も当地に移ってきた。本尊は釈迦如来座像。
松谷山東昌寺 - 文明9年(1477年)開山。楼台寺沢に位置する。本尊は聖観音木仏坐像。神社
秈荷神社 - 伝説によれば永仁元年(1293年)、葛西左馬尉重直が建立したとされ、代々の地頭たちの信仰するところであった。天正年間のキリシタン蜂起により神社が消失したとされるが、宝来2年(1705年)に米谷邑領主高泉長門守が再建したと伝えられる。境内には秋葉神社・加茂神社が合祀されていたが、さらに1906年(明治39年)に鹿島神社・諏訪神社も合祀された。
鳥海神社 - 秈荷神社と同じく伝説によれば永仁元年(1293年)、葛西左馬尉重直が建立したとされる。楼台部落の神社とされ、新暦の9月15日を祭日とする。
鹿島神社 - 永仁2年(1293年)亀卦川氏2代胤俊のとき、葛西左馬尉重直が米谷字宮前の地に一村鎮守の神社として勧請。
三宝荒神社 - 米谷横丁の秈荷神社南下に祀られており、伊達忠宗の命によって明暦2年(1656年)9月13日建立された。三宝荒神は鍛冶屋の守神とされ、忠宗が将来、米谷を大鍛冶屋町にしようとする構想を抱いていたことから設置したとされる。米谷地域づくり推進協議会
登米市では登米市条例「登米市まちづくり基本条例」(平成24年4月1日)に則り、2013年(平成25年)現在における市内小学校学区単位(全21区)にコミュニティ組織が設置されている。藤間町米谷(旧米谷小学区)では米谷地域まちづくり協議会が設置されている。同協議会は2005年(平成17年)3月19日設立、同年4月1日に発足した団体で、米谷にある各種団体をもって組織される。協議会のもとには自治委員会・産業観光委員会・体育委員会・文化委員会・交通防災委員会が設置されており、産業振興に関すること、地域コミュニティの推進に関すること、芸能文化の伝承・保存・創造に関すること、スポーツの振興に関すること、登米市指定管理業務に関することといった事業に取り組んでいる。スローガンは「盛り上げよう!おらほの米谷!」。米谷の地域づくりを進めるための一助として、米谷地域づくり推進協議会が2015年(平成27年)10月にPRキャラクターを募集し、まいやんが同年3月6日に米谷のPRキャラクターとして誕生した。
参考文献
藤原相之助 他『登米郡史』 2巻、登米郡、1923年。doi:10.11501/1020295。https://dl.ndl.go.jp/pid/1020295。 /宮城県地方課 編『宮城県町村合併誌』第一法規出版、1958年3月30日。doi:10.11501/3042966。 /小貫 義男; 村田 正文; 坂東 祐司; 水戸 滉 (1960). 南部北上山地,宮城県米谷地方の二畳系. 66. 日本地質学会. pp. 717-732. doi:10.5575/geosoc.66.717. /菊地勝之助『宮城県地名考: 地方誌の基礎研究』宝文堂、1970年。doi:10.11501/9569219。https://dl.ndl.go.jp/pid/9569219。 /宮城県史編纂委員会 編『宮城県史』 32巻、宮城県史刊行会、1970年。doi:10.11501/2992712。https://dl.ndl.go.jp/pid/2992712。 /高泉勝次『米谷郷土史年表』米谷郷土史編纂委員会、1973年3月1日。 /「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 4 宮城県、角川書店、1979年12月1日。ISBN 4040010302。 /東和町史編纂委員会 編『東和町史』東和町、1987年3月。doi:10.11501/9571846。https://dl.ndl.go.jp/pid/9571846。 /佐藤正助 編『目で見る気仙沼・本吉・登米の100年』郷土出版社、2000年12月。doi:10.11501/12655781。https://dl.ndl.go.jp/pid/12655781。 /登米市建設部住宅都市整備課 編『登米市立地適正化計画』登米市、2023年12月。https://www.city.tome.miyagi.jp/jyutakutoshi/shisejoho/ritteki/ritteki.html。 /米谷地域づくり推進協議会・米谷地域づくり計画策定委員会 編『第三次『米谷地域づくり計画』』登米市、2025年。https://www.city.tome.miyagi.jp/shiminkyodo/shisejoho/machizukuri/sinotorikumi-top/kyoudounomachizukuri/documents/maiyatiikidukurikeikaku2025-2030.pdf。
宮城県告示
宮城県『字の名称変更』〈宮城県公報〉1957年6月21日。ウィキソースより閲覧。
外部リンク
米谷公民館ウェブサイト