「神奈川県 座間市 相模が丘」について
郵便番号 | 〒252-0001 |
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住所 | 神奈川県 座間市 相模が丘 |
読み方 | かながわけん ざまし さがみがおか |
この地域の 公式HP |
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地図 | |
地方公共 団体コード |
14216 |
最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「神奈川県 座間市 相模が丘」の読み方は「かながわけん ざまし さがみがおか」です。
- 「神奈川県 座間市 相模が丘」の郵便番号は「〒252-0001」です。
- 「神奈川県 座間市」の地方公共団体コードは「14216」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「相模が丘」の概要 from Wikipedia
相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名は相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。
地理
神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し街路網自体は直線的。
概略
終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間字北広野、大字新田宿飛び地である現地域での市街地化の進行とともに救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。
旧地籍は高座郡座間町大字座間字北広野・中広野の各小字全域と南広野・元広野・元広野窪の座間街道以北(現・相模が丘一丁目〜四丁目)、辰街道を境界に大字新田宿飛び地見分塚の大部分(現・相模が丘五丁目)、江戸街道を境に同飛び地見分塚の残り部分と新畑全域・大字四ツ谷飛び地二ツ塚の座間街道以北(現・相模が丘六丁目)の各大字小字飛び地。
その一方で、相模原市は1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目を編成し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町が編成されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台とが隣接して併存することとなった。
1971年11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れて1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために町名を相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目とした。歴史の詳細
「芝原(しばあら)」と呼ばれる原野であった小田急相模原駅周辺から、現在の広野台・小松原・ひばりが丘・さがみ野・東原あたりの区域は、元々周辺農村の入会地とされていて、それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。
江戸末期の嘉永6年(1853年)にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、現在の小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村、新戸村、座間宿村、新田宿村飛び地の各村が境界を接する区域となり、1877年高座郡上鶴間村(現・相模原市南区南台五丁目)に中和田新開が開墾され、1880年には上鶴間村分の府中みち(現・行幸道路)沿い(現・南台五丁目)には人が住み着いて耕作していたが、各村の境界域ということもあり、市街地を形成することは困難を極めた。
やがて1889年の明治の大合併により同郡大野村大字上鶴間(現・相模原市南区南台五丁目)、新磯村大字新戸(現・相模原市南区相模台二丁目)、座間村大字座間字北広野(現・座間市相模が丘一丁目)・大字新田宿飛び地字見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)となった。
その後、1894年になって開拓者たちは次々と府中みち(現・行幸道路)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加った。その人衆の内、中和田新開の座間分に最初に住み着いたのは座間上宿出身の耕作者たった一軒だけであった。
1919年には14戸にまでなった中和田新開は府中みち(現・行幸道路)と辰街道。の交差する未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の「原点」となった。
1937年9月30日市ヶ谷より陸軍士官学校が現在のキャンプ座間の地に移転してくると、翌1938年から、高座郡新磯村に臨時東京第三陸軍病院、大野村に陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・学校法人麻布獣医学園ほか)が開設され、当時陸軍は小田原線・江ノ島線沿いの大野村上鶴間(現・相模原市南区上鶴間・相模大野・東林間・旭町・豊町・栄町・南台ほか)、小田急相模原駅近辺の新磯村新戸(現・相模原市南区相模台)磯部(現・相模原市南区相模台・相模台団地・桜台)、座間町新田宿飛び地見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)・座間字北広野・座間字中広野(現・座間市相模が丘一丁目~三丁目)までの地域を原町田(東京府南多摩郡町田町、現在の東京都町田市)の一部としてまとめて扱うことが多く、電話が町田電報電話局管内(現・相模原MA)であるのはその名残。
1937年12月20日、人口約7千人の座間村は単独で町制施行し高座郡座間町となった。1941年4月29日、この時人口7千6百人の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口4万人を超える高座郡相模原町が誕生したが、1948年9月1日に、旧座間町域(現在の座間市域・この時人口約1万1千人)が相模原町から分離独立した。
大きな転換点となったのは、前述のとおり1938年の臨時東京第三陸軍病院の進出。高座郡新磯村磯部字大野に同病院が開設されるのに合わせて、小田原急行鉄道が、同年3月1日に付近を通過していた小田原線上の座間町と大野村との境界付近に相模原駅を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路周辺が市街化する契機となった。
そののち戦時色が濃くなった1943年に座間分の新田宿飛び地である、当時の高座郡相模原町大字新田宿飛び地字見分塚(現・相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。大部分が東京市内から移り住んだ人たち。皆、昭和十八年にこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った。
当時のこの地は一面、桑・麦・陸稲を栽培する耕作地であったが、段上の地であることが災いし「水」がなく苦労した。太平洋戦争終戦後の1949年県営相模原畑地灌漑事業が着工し、1953年畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は畑地灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった。1955年には町営水道が完成するとともに宅地化され、1960年には現・六丁目に小田急住宅が完成。その後も継続して戸数・人口が増加し、全域が市街地化した1970年、畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え通水を終了した。年表
江戸時代/嘉永6年(1853年): 芝原(しばあら)と呼ばれた、小田急相模原駅周辺の相模が丘から広野台・小松原・ひばりが丘・さがみ野・東原にかけて開墾がはじまり、文久年間に地割が完成し耕作がはじまった。
1889年(明治22年)4月1日:町村制施行により高座郡座間村大字座間・大字新田宿飛び地となる。
1927年(昭和2年)4月1日:小田原急行鉄道小田原線開通。
1937年(昭和12年)12月20日:同年9月30日、市ヶ谷より現在のキャンプ座間に移転した陸軍士官学校の卒業式(同12月20日挙行)昭和天皇行幸につき、府中みちが改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成(未完の士官学校正門~座間上宿ほか全面完成は翌年11月)。
1937年(昭和12年)12月20日:座間村が町制施行し高座郡座間町となった。人口約7千人。
1938年(昭和13年)3月1日:小田原急行鉄道小田原線・相模原駅開業。
1941年(昭和16年)4月29日:この当時、人口約7千6百人の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口4万人を超える高座郡相模原町が誕生。座間町の区域は相模原町の一部となる。
1948年(昭和23年)9月1日:旧座間町域(現在の座間市域)が相模原町から分離独立し、高座郡座間町が再置される。人口約1万1千人。
1949年(昭和24年):相模原開発畑地灌漑事業着工。
1953年(昭和28年):畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)通水開始。
1954年(昭和29年)10月26日:神奈川県道座間大和線(座間街道)全面開通。
1955年(昭和30年):座間町営水道が完成/1959年(昭和34年)4月20日:当該地域の各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。
1960年(昭和35年)6月19日:人口急増に伴い、当該区域における町田電報電話局管内の電話、東京23区・八王子局・武蔵野三鷹局・立川局・調布局・武蔵府中局・青梅局間、同年7月31日相模原局間でダイヤル自動即時化。
1961年(昭和36年)11月5日:全国ダイヤル自動即時化。市外局番変更04274、市内局番なし。
1964年(昭和39年)1月30日:市外局番0427に変更、市内局番22を設定。
1969年(昭和44年)2月:相模大野分局開局につき市内局番44・42に変更。
1965年(昭和40年)5月30日:座間電報電話局管内の電話、全国ダイヤル自動即時化。市外局番0462・市内局番51。
1966年(昭和41年)11月14日:座間郵便局(現・座間中宿郵便局)が高座郡座間町相模台256番地(現在地)に移転開設し集配局となる。
1968年(昭和43年)6月20日:座間町相模台177番地の1に忠実屋名店センター小田急相模原店開業。
1968年(昭和43年)7月1日:高座郡座間町内の郵便番号が付与される。(〒228)/1971年(昭和46年)11月1日:高座郡座間町、市制施行し座間市となる。人口約6万2千人。
1972年(昭和47年):座間市役所相模台出張所(現、相模が丘コミュニティーセンター)開設。
1976年(昭和51年):座間市立相模が丘小学校開校。
1977年(昭和52年):北地区文化センター開設。
1979年(昭和54年):座間市立相模中学校開校。
1981年(昭和56年)6月1日:座間市相模台、座間市相模が丘と町名変更、同時に住居表示実施。
1982年(昭和57年):座間市立相模が丘プール開設。
1983年(昭和58年):座間市消防署北分署開設。
2000年(平成12年):電話番号逼迫に伴い相模が丘の一部、市外局番(0427地域)が042へ3桁化。
2001年(平成13年):電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化。
2010年(平成22年)4月1日:相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通り。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通り。
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
鉄道
町内に鉄道駅はない。
バス
神奈川中央交通東の路線/(小02)小田急相模原駅 - 小松原入口 - ひばりが丘一丁目 - 南林間駅/(小03)小田急相模原駅 - 小松原入口 - イオンモール座間 - 小松原入口 - ひばりが丘一丁目 - 南林間駅/(小05)小田急相模原駅 -(直行)- イオンモール座間/座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線/Bコース(小松原・病院経由コース)/Cコース(相模が丘コース)
道路
神奈川県道50号座間大和線/東京都道・神奈川県道51号町田厚木線/神奈川県道507号相武台相模原線
施設
座間市立相模が丘小学校/座間市立相模中学校/座間市民球場/相模台病院/座間郵便局/コジマ×ビックカメラ 座間店/相模が丘コミュニティセンター/座間市役所 北地区文化センター/座間市消防本部 座間市消防署北分署/座間市立北地区児童ホーム/総本山善通寺関東別院 - 真言宗善通寺派
日本郵便
郵便番号 : 252-0001(集配局 : 座間郵便局)。
脚注