「神奈川県 座間市 相模が丘」について
| 郵便番号 | 〒252-0001 |
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| 住所 | 神奈川県 座間市 相模が丘 |
| 読み方 | かながわけん ざまし さがみがおか |
| この地域の 公式HP |
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| 地図 | |
| 地方公共 団体コード |
14216 |
| 最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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| 周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「神奈川県 座間市 相模が丘」の読み方は「かながわけん ざまし さがみがおか」です。
- 「神奈川県 座間市 相模が丘」の郵便番号は「〒252-0001」です。
- 「神奈川県 座間市」の地方公共団体コードは「14216」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「相模が丘」の概要 from Wikipedia
相模が丘(さがみがおか)は、神奈川県座間市の町丁。現行行政地名は、相模が丘一丁目から相模が丘六丁目。住居表示実施済み区域。
地理
神奈川県座間市の北部に位置し、小田急小田原線小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅に近いことから、最北部から順次市街化が進行し、1950年代までにほぼ全域が宅地市街化している。元の開墾農地の地割を反映し、街路網自体は直線的。
大字~町丁への変遷
当区域は元々相模野・座間野・芝原(しばあら)と呼ばれる原野の一部であり、主に座間宿村・新田宿村の入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず、江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。
江戸末期の嘉永6年(1853年)にこの入会地が分割され、相模が丘は座間宿村・新田宿村・四ツ谷村・座間入谷村に組み込まれた。
旧地籍は、高座郡座間町の内、/大字座間字北広野・字中広野の各小字全域、字南広野・字元広野・字元広野窪各小字の行政道路以北・字元広野窪の農道以北、ほんのわずかな部分の大字座間入谷飛地小松原の行政道路以北、そして新田宿飛地見分塚<小田急線線路境に辰街道・座間市道7号相模原二ツ塚線の三角地帯>(相模が丘一丁目〜四丁目)。
小田急線・辰街道・座間市道7号相模原二ツ塚線を境に大字新田宿飛地見分塚の小田急線線路から江戸街道まで(相模が丘五丁目)。
辰街道・江戸街道・座間市道7号相模原二ツ塚線を境に新田宿飛地見分塚(江戸街道から小田急住宅まで)と新畑全域、大字四ツ谷飛地二ツ塚行政道路以北(相模が丘六丁目)。
以上の各大字小字・飛地。
終戦後から小田急相模原駅周辺の大字座間字北広野、1958年には新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲されると当該地域の宅地化が進行し、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。
相模原市は1969年7月1日に、小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字磯部・大字新戸・大字新磯野の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目の町丁を起立し、翌1970年7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目の各町丁が起立されたが、このことがきっかけで高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台が隣接して併存することとなった。(南区の地域も参照)。
1971年11月1日に市制施行した座間市が、相模原市に遅れること12年後1981年6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目を起立し町丁に改編した。歴史の時系列と詳細
この地は既に1880年、高座郡座間村北広野(相模が丘一丁目)、新田宿村飛地見分塚(相模が丘一丁目<府中道旧道と辰街道の併用街路・行幸道路・行政境界道路の三角地帯>)、上鶴間村(相模原市南区南台五丁目)、新戸村(相模原市南区相模台二丁目)、各村の境界域(小田急相模原駅北口付近)に中和田新開が開拓され、上鶴間村分には人が住み着いて開墾していたが、1894年になって、座間中宿出身者1名が新開の座間村域北広野に居を構え入植に加わる。1901年には開拓者たちは次々と府中道(現・南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た。
1919年3月15日、新開四十年記念碑建立時の頃には14戸にまでなった中和田新開は府中道(行幸道路旧道)と辰街道の交差する未開地の中に小さな集落が出来上がり、これが小田急相模原駅北口周辺発展の原点となった。
1937年9月30日、東京府東京市牛込区市ヶ谷台より陸軍士官学校が座間の地に移転すると、1938年から高座郡大野村に、臨時東京第三陸軍病院、陸軍電信第一連隊(東部第八十八部隊、現・上鶴間米軍ハウス)、原町田陸軍病院(後の相模原陸軍病院、戦後は在日米軍医療センター)や、原町田通信学校(正式名称は陸軍通信学校、現・相模女子大学ほか)、原町田兵器学校(正式名称は陸軍兵器学校、現・学校法人麻布獣医学園ほか)が開設された。
もともと明治初年には原町田を含む南多摩郡はじめ三多摩は、神奈川県管下にあった。明治26年4月1日東京府に編入されたが、それまでは原町田と座間・相模原は同県であったこともあり、その後も軍関係の管轄区分では座間を含む相模原地域は原町田の一部であった。そのため上鶴間にできた病院を「原町田陸軍病院」、淵野辺にできた憲兵隊を「原町田憲兵分隊」と称し電信電話も町田郵便局の管轄であった。相模が丘の大部分が相模原MAであるのはその名残。
大きな転換点となったのは、前述のとおり臨時東京第三陸軍病院の進出。1938年3月1日の開院に合わせ、小田原急行鉄道が、中和田新開を通過していた小田原線上の座間町と大野村の行政境界に相模原駅を開業し、同駅と同病院を結ぶ辰街道周辺が市街化する契機となった。
新田宿飛地(相模が丘一丁目・五丁目・六丁目)は、他の地域同様、江戸時代末期文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成したが、本村から遠く、通いでの耕作は大変であったので、所有者は割り当てられた土地に植林して松林とした。小田急線が開通して4年後、1931年に長野県から移住した人を皮切りに、旧陸軍士官学校ほか軍用地買収が1936年6月から行われ、建設が始まった1936年10月26日から1943年にかけて、新田宿飛地見分塚(相模が丘一丁目三角地帯・五丁目)に本格的に人が住み着いた。東京市三河島から陸軍関係施設の建設に従事した人、神田の青果問屋の番頭だった人、練馬の大地主で漬物屋だった人は陸軍に土地を買収されたため相模が丘に移ってきた。東林間水道新開から移住した人、様々な理由・所縁で相模が丘に移住して来た。皆、昭和十八年までにこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った。戦時中、高座郡旧相模原町当時から座間分・上鶴間分・新戸磯部分の住民は、小田急相模原駅周辺一帯を相模台と呼んでいた。
戦前・戦中・戦後にかけて、相模が丘・広野台・小松原は幸い軍用地の接収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた。
終戦直後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ。その政策に基づき農業集落として「相模台」とされた。
この地は地下の水脈が約25mと深く、その上関東ローム層という火山灰土の不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので主に桑園として利用され、麦・陸稲・甘藷・大根なども栽培した。戦後の1949年に県営相模原畑地灌漑事業が着工され、1953年、畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)に通水を開始したが、相模が丘の元の大字である座間と新田宿は灌漑用水組合に加入しなかったため、用水の恩恵を受けることができなかった。1955年に町営水道が完成、1958年には新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲され、畑から宅地・準工業地域へと地目変更が急激に進行した。畑地灌漑用水路西幹線は、その役目を終え、1969年度の年度末、1970年3月に通水を終了した。年表
江戸時代/元和年間 : 領主内藤清成は、慶長8年(1603年)、八王子往還を発展させるため、この道筋に内藤家菩提寺宗仲寺を建立し、徳川家康と親しい源栄上人を初代住職に招聘した。慶長13年(1608年)に清成が亡くなったため、その子内藤清次が父清成の遺志を継ぎ、八王子往還付近の開発を更に進展するため、元和年間(1615年~1624年)のはじめに、当時の座間村周辺の集落(長宿・星の谷・皆原・羽根沢など)から農民を移住させ、座間新宿を設けようとした。慶安の頃に至って整備が成ったことから座間村から座間新宿を分村する気運が生まれた。
正保4年(1647年) : 相模野を入会野として利用していた座間村と両・鶴間村(下鶴間村・上鶴間村中和田分)の間で境界をめぐる争い『夏草騒動』起きる。
寛文2年(1662年) : 領主久世廣之大和守の検地の際から、高座郡座間村は座間新宿の地域を分村し座間宿村と座間入谷村が起立。
元禄4年(1691年) : 座間入谷村の村民が、「7ヶ村(座間5ヶ村以外新戸村・磯部村)入会地秣場(新戸・磯部分の区域である現・相模原市南区相武台辺り)」の夏草と冬の「萱」を新戸・磯部2ヶ村の了解なしに刈り取ったことから、座間入谷村対新戸村と磯部村が結束し出入となった。この件について座間4ヶ村の名主や中和田村・谷口村の名主が仲人になって示談にしようとしたが調停不成立で、新戸・磯部両村は老中に訴え裁判となった。翌、元禄5年に老中の申し渡しがあり、座間入谷村名主は始末書を取られ名主他組頭は総辞職した。座間5ヶ村のうち1ヶ村役人の総辞職は後にも先にもこの一件だけ。
元禄12年(1699年) : 幕府は「夏草騒動」の教訓を生かし、元禄年間はじめに相模野を10の区画に分け、区画毎に近隣の村々の共同使用として、正式に入会野の権利を認めることにした。座間地域が所有する芝原(しばあら)が座間野と呼ばれるようになったのはこの頃からで、各区画には、野元(管理権)と呼ばれる入会野を管轄する村を設け入会野の運営に当たらせた。この座間野で、野元の座間宿村・座間入谷村に対し、新戸村・磯部村が「冬草刈」をめぐり訴訟を起こした事件『冬草騒動』起きる。幕府は新戸村・磯部村の訴えを却下する裁定を下した。
享保11年(1726年)11月 : 武蔵国小山村の伝七と与惣左ヱ門という者が座間野を開墾して新たに畑を開きたいと願い出たので、代官日野小左衛門が座間野の検分をし、宿泊所の下溝村名主藤助宅に座間野に関係する各村の代表を集め、意見を聴取したところ、開墾反対の意見であったので開墾は中止されたが、代官日野は座間野(面積400町歩・約400ヘクタール)の検地を行い関係の各村に分割することにした。
嘉永6年(1853年) : 芝原の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し、座間宿村・座間入谷村・新田宿村の各戸に、平等に分割され畑とされ耕作が始まった。不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので桑園として利用されていた。
明治/1868年:高座郡座間村、座間入谷村・栗原村・新田宿村・四ツ谷村・新戸村飛地、神奈川府を経て神奈川県に所属。相模が丘一丁目~四丁目は座間村北広野・中広野・南広野・元広野窪・元広野、座間入谷村小松原。相模が丘五丁目は新田宿村見分塚(小田急線線路境に江戸街道まで)。相模が丘六丁目は新田宿村見分塚(江戸街道から小田急住宅まで)・新畑、四ツ谷村二ツ塚となる。
1877年:中和田新開(小田急相模原駅北口一帯)の開拓が始まる。
1880年:中和田新開に開拓者が移住。
1889年4月1日:町村制施行により、高座郡座間村大字座間北広野・中広野・南広野・元広野窪・元広野、新田宿飛地見分塚・新畑、四ッ谷飛地二ツ塚一部、そして座間入谷飛地小松原のほんのわずかな部分(小松原入口交差点の土地)が相模が丘の区域となる。
1894年:座間中宿出身者1人が、中和田新開の座間村域北広野に居を構え入植に加わる。
昭和(戦前・戦中)/1927年4月1日:小田原急行鉄道小田原線開通。
1937年/9月30日 : 東京府東京市牛込区市ヶ谷台より陸軍士官学校が座間に移転完了。 /12月20日 : 陸軍士官学校の卒業式昭和天皇行幸につき府中道が改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成(未完の士官学校正門~座間上宿ほか全面完成は1938年11月)。
12月20日 : 座間村が町制施行し高座郡座間町となった。人口6,555人。
1938年3月1日:小田原急行鉄道小田原線・相模原駅開業。
1939年11月28日:相武台前駅踏切前起点(高座郡座間町座間字大坂台4515番地) ⇔ 江戸街道 ⇔ 小池窪 ⇔ 鶴間街道 ⇔ 下鶴間(旧国道16号・高座郡大和村下鶴間字乙三号2137番地)の道路、県道座間下鶴間線と認定される(路線認定告示で用いられる整理番号142)。
1941年/3月1日:小田原急行鉄道が小田急電鉄と改称。
4月29日:この当時、人口8,072人の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口48,482人の高座郡相模原町が誕生。座間町の区域は相模原町の一部となる。
月日不詳:新田宿飛地新畑(現・相模が丘六丁目、辰街道沿いのマルマン工場がある所)に旧日本海軍の無線電信送信所が完成。高さ40Mの鉄塔3本立つ。1944年ごろ小松原の住民が当時の県議会議長兼相模原開発同盟会長「岩本信行」に陳情し、同年8月16日この海軍送信所から送電し小松原にはじめて電灯が灯いた。
昭和(戦後)/1945年/8月15日 : 終戦。正午、玉音放送。
9月2日 : 日本国政府が降伏文書に調印、大東亜戦争・第二次世界大戦終結(日本の降伏)。連合国軍占領下により日本国の主権が停止。
9月5日 : 日本国政府の降伏文書調印に基づき、陸軍士官学校が米軍に接収されキャンプ座間となる。
1946年月日不詳 : 米軍の軍用道路として相武台新道工事着工。
1953年/10月 : 【相武橋(そうぶばし)】(相武台跨線橋)完成。
12月 : 山王原跨線橋完成。相武台新道全面開通。
1954年/10月15日 : 県道座間下鶴間線廃止、神奈川県から高座郡座間町へ移管。
10月26日 : 相武台新道が県道に認定され神奈川県道50号座間大和線となる(起点:座間町座間字元広野窪5170番地⇔終点:大和町下鶴間字乙三号2137番地)。
1948年/9月1日 : 旧座間町域(座間市域)が相模原町から分離独立し、高座郡座間町が再置される。人口12,032人。
11月4日 : 県営相模原畑地灌漑事業計画樹立。
1949年3月 : 県営相模原畑地灌漑事業着工。
1952年4月28日 : 日本国主権回復/1953年 : 畑地灌漑用水路西幹線(現・相模が丘仲よし小道 さくら百華の道)通水開始。
1955年1月1日 : 座間町営水道給水開始。
1957年1月:「座間町工場誘致の奨励措置に関する条例」制定。座間町が企業誘致を開始。
1958年 : 新田宿飛地(相模が丘六丁目)に小田急住宅が開発分譲される。
1959年4月20日:当該地域の各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。
1960年6月19日:前年新設された高座郡座間町大字相模台、人口急増に伴い、当該区域における町田電報電話局管内の電話、東京23区・八王子局・武蔵野三鷹局・立川局・調布局・武蔵府中局・青梅局間、同年7月31日相模原局間でダイヤル自動即時化。町田局市外局番0274、市内局番なし。
1961年11月5日:全国ダイヤル自動即時化。市外局番変更04274、市内局番なし。
1964年1月30日:市外局番0427に変更、市内局番22を設定。
1969年2月:相模大野分局開局につき市内局番44・42に変更。
1962年4月1日:高座郡座間町立座間第三小学校創立(座間中学校体育館内に併設開校)。
11月19日 - 本館完成により、高座郡座間町座間字元広野5054番地の現在地に移転、新校舎に全児童入校式。
11月25日 - 校舎竣工式、第1回大運動会開催、開校記念日とする。
1965年5月30日:座間電報電話局管内の電話、全国ダイヤル自動即時化。市外局番0462・市内局番51。
1966年/4月4日:相武台歩道橋竣工。
※座間町内初の歩道橋。
7月20日:座間町道相模台中央線(辰街道)の舗装・道路改良工事開始、工期は昭和41年7月20日~昭和41年9月30日(舗装工事)・昭和41年7月20日~昭和41年10月30日(道路改良工事)。
11月14日:座間郵便局(現・座間中宿郵便局)が高座郡座間町相模台250番地(現在地)に移転開設し集配局となる。
1968年/6月1日:大和警察署相模台駐在所(座間警察署相模が丘交番)開設。所在地:高座郡座間町座間字元広野5052番地2。
6月20日:座間町相模台177番地1に忠実屋名店センター小田急相模原店開業。
7月1日:高座郡座間町内の郵便番号(〒228)が付与される。
12月25日:相模台児童館完成。
1969年10月:座間町の人口が5万人を超える。町の花を「ひまわり」と決定。
1971年11月1日:高座郡座間町、市制施行し座間市となる。人口62,740人。
1972年9月1日:相模台児童館の敷地内に座間市役所相模台出張所(現、相模が丘コミュニティーセンター)開設。
1975年3月:相模台歩道橋竣工。
1976年:座間市立相模が丘小学校開校。
1977年4月:北地区文化センター開設。
1979年4月:座間市立相模中学校開校。
1979年9月17日:座間相模台南郵便局開局。
1981年6月1日:座間相模が丘郵便局と改称。
2018年3月13日:イオンモール座間内に移転、イオンモール座間内郵便局と改称。
1981年6月1日:座間市大字相模台、相模が丘と改称し大字を町丁に改編、同時に住居表示を実施して座間市相模が丘一丁目~相模が丘六丁目となる。
1982年7月:座間市立相模が丘プール開設。
1983年4月:座間市消防署北分署開設。
1985年12月24日:座間市の人口10万人を超える。
平成/2000年:電話番号逼迫に伴い相模が丘の一部、市外局番(0427地域)が042へ3桁化。(東京23区03・川崎044・横浜045と違い桁ずらし3桁化)。0427-44-xxxx→042-744-xxxx。
2001年:電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化。(東京23区03・川崎044・横浜045と違い桁ずらし3桁化)。0462-51-xxxx→046-251-xxxx。
2010年4月1日:相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通り。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通り。
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
鉄道
町内に鉄道駅はない。
バス
神奈川中央交通の路線/(小02)小田急相模原駅 - 小松原入口 - ひばりが丘一丁目 - 南林間駅/(小03)小田急相模原駅 - 小松原入口 - イオンモール座間 - 小松原入口 - ひばりが丘一丁目 - 南林間駅/(小05)小田急相模原駅 -(直行)- イオンモール座間/座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線/Bコース(小松原・病院経由コース)/Cコース(相模が丘コース)
道路
神奈川県道50号座間大和線/東京都道・神奈川県道51号町田厚木線/神奈川県道507号相武台相模原線 - 通称:村富線
難儀した村富線
出典元:『三十周年誌・相武台歴史同好会 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行』p26
※原文ママ/『村富線は相模原市中心部と南部を繋ぐ初めての道路です。相模原台地の東、鳩川筋と西、鳩川沿いには街道がありましたが人家のない台地上には東西を結ぶ道はあっても南北を繋ぐ道はありませんでした。県と市は南北を縦断する重要道路として昭和31年9月24日村富相武台線を都市計画道路として決定、告知しました。昭和33年8月1日首都圏整備法による市街地開発地区第1号に指定されました。
一方道路の方はその後地元説明会、物件調査、用地買収等を経てようやく昭和44年工事施工となりましたがそれ以前の昭和42年1月より入居していた相武台団地住民は団地の真中に1日に何万台も車が通る道路が出来ると初めて聞いて驚きました。当然大反対です。交渉は10年の長期にわたりました。4車線を2車線に変更し、遮音壁を設置し、歩道橋を架け、広場を整備する等で昭和56年5月合意しました。その間付近の住民より団地のエゴだと非難もありました。昭和60年3月24日供用開始しました。今では主要幹線道路として活用されています。』村富線年表
1956年9月24日 - 「村富相武台線」都市計画街路(幅員11m・2車線)として決定・告示。
1958年8月1日 - 相模原市、首都圏整備法に基づく市街地開発区第一号に指定される。
1961年月日不詳 - 新磯野にて神奈川県住宅供給公社による相武台団地建設用地買収始まる。
1962年1月 - 団地用地取得。
1964年7月 - 相武台団地建設着工。 /1965年9月3日 - 都市計画街路「村富相武台線」と団地造成との関連を神奈川県が住宅公社と相模原市と協議(ルートの変更、幅員を11m2車線から18m4車線に変更、街路は団地と出来うる限り平面交差を少くする、美観上からグリーンベルト及び植樹を行う。)。
1966年11月30日 - 団地内部、都市計画街路「村富相武台線」団地内部を協議通り造成。都市計画街路を除く団地内街路と行幸道路・行政道路が接続。
1966年12月15日 - 都市計画街路「村富相武台線」計画変更(1965年9月の協議通りに変更)。
1967年1月17日 - 相武台団地竣工(分譲第1次)。
1968年3月30日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内)事業決定。
1968年3月31日 - 都市計画街路「村富相武台線」(団地内南側)舗装新設160m、配水管工430m敷設。
1968年9月20日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路村富相武台線の一部設計変更の請願」を行う。昭和43年9月20日受理。
1968年9月24日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の設計変更についての請願」を行う。昭和43年9月25日受理。
1968年12月12日 - 上記請願二件「不採択」。
1969年月日不詳 - 村富相武台線団地内4車線で着工。1967年1月より入居していた団地住民が大規模なバイパス反対運動起こす。工事途中中断。
1970年9月11日 - 相武台団地自治会、「相武台団地内道路の路線変更についての請願」を行う。昭和45年9月14日受理。
1971年3月8日 - 上記請願「不採択」。
1971年9月17日 - 「相武台団地の交通公害についての請願」を行う。昭和46年9月17日受付・受理。
1971年12月7日 - 上記請願「採択」。
1976年3月30日 - 工事中断中の「村富相武台線」、神奈川県道507号相武台相模原線と認定される。神奈川県告示第247号・248号・整理番号139。
1981年5月 - 所轄官庁と住民が合意。
1985年3月26日 - 村富線全面開通。施設
座間市立相模が丘小学校/座間市立相模中学校/座間市民球場/相模台病院/座間郵便局/コジマ×ビックカメラ 座間店/相模が丘コミュニティセンター/座間市役所 北地区文化センター/座間市消防本部 座間市消防署北分署/座間市立北地区児童ホーム
総本山別院寺院
総本山善通寺関東別院 - 真言宗善通寺派
日本郵便
郵便番号 : 252-0001(集配局 : 座間郵便局)。
参考文献
『座間市史第4巻』/『土地宝典』「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和3年12月25日刊行/『土地宝典』「神奈川県高座郡新磯村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和4年3月5日刊行/『土地宝典』「神奈川県高座郡麻溝村地番反別入図」大日本市町村地番反別入地図刊行会/編 昭和9年4月28日刊行/『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行/『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』発行:昭和61年/『座間むかしむかし第1集』発行:昭和32年10月15日 発行者:座間町教育委員会/『座間むかしむかし第3集』発行:昭和49年5月20日 発行者:座間市教育委員会/『座間むかしむかし第6集』発行:昭和57年1月16日 発行者:座間市教育委員会/『座間むかしむかし第7集』発行:昭和58年3月31日 発行者:座間市教育委員会/『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会/『広報ざま縮刷版 第1巻』/『広報ざま縮刷版 第2巻』/『相模原市史第2巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和42年3月/『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日/『相模原市史現代資料編』発行者:相模原市史編さん室 発行日:平成20年3月25日/『ふるさと~相模台地域の移り変わり~』平成12年8月発行 小山德孝/著/『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行/『大和市史研究 第9号』鶴間新町のルーツを探る —座談会—(岩崎房吉・小松一男 ・杉崎貴重・関水義治・高橋治作・高橋冨蔵・市史編さん事務局)…昭和58年3月発行/『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行/『小松原開拓百年史』総著者/大塚喜代治・小松原稲荷神社氏子一同 平成16年10月吉日発行/『三十周年誌・相武台歴史同好会』 発行者:相武台歴史同好会 平成22年12月発行
関連項目
南台/麻溝台/南区/大野村/麻溝村/新磯村/高座郡/原町田との合併問題