郵便番号 319-2225
住所 茨城県 常陸大宮市 西塩子
読み方 いばらきけん ひたちおおみやし にししおご
この地域の
公式HP
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地方公共
団体コード
08225
最寄り駅
(基準:地域中心部)
  • 玉川村駅(JR在来線)
     …距離:3.4km(徒歩42分)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • マナゴルフクラブ《ゴルフ場》
  • 茨城県 常陸大宮市 西塩子」の読み方は「いばらきけん ひたちおおみやし にししおご」です。
  • 茨城県 常陸大宮市 西塩子」の郵便番号は「319-2225」です。
  • 茨城県 常陸大宮市」の地方公共団体コードは「08225」です。

「西塩子」の概要 from Wikipedia

…(3,974文字)

西塩子(にししおご)は、茨城県常陸大宮市の大宮地区の一地区(字名)。

地理

面積は3348236.638平方メートル、周辺長は11425.065メートル。
土地のほとんどが八溝山地系の山間地で、東の久慈川、西の那珂川に挟まれている。久慈川の支流の玉川は西塩子を水源地とする河川。栃木県の旧馬頭町に通じる国道293号線が地区の東外をかすめるように走っている。那珂川を水運に利用していたため、上流の芳賀郡茂木町などが属する栃木県東部との文化的交流が深かった。耕作地は狭いが、土質が良いため、良質のコメを産した。またタバコの栽培も盛んであった。

歴史

中世の頃は常陸国久慈西郡に属していた。中世期には地区の領主が直接耕作する直営田、すなわち「御正作(ミショウサク)」が地区内にあった。その地は「上の内」という集落の「ミソノ作」という小字名の地。
慶長(1596年から1615年)までは「塩篭村」と呼んでいたといい、その由来は土地に塩気があったからという。
佐竹氏領から水戸藩領に代った江戸時代では那珂郡西塩子村であり、1889年(明治22年)に他村と合併して塩田村となり、その大字となる。以後下表の変遷を経て現在にいたる。

小字

かって存在した地区内の小字名/塩ノ草(しおのくさ)、石ノ根(いしのね)、西タリ(にしたり)、前ノ谷津(まえのやつ)、田代(たしろ)、谷津(やつ)、牛久保(うしくぼ)、塚田(つかだ)、三角田(みすみだ)、登屋(とや)、鶴巻田(つるまきだ)、竹の久保(たけのくぼ)、ノテ久保(うしくぼ)、沼田(ぬまた)、池之入(いけのいり)、岡辺畑(おかべばた)、柿木田(かきのきだ)、北ノ作、山口(やまぐち)、コイジ、間ノ谷津(まのやつ)、吉田(よしだ)、荒地(あらじ)、南沢(みなみざわ)、大谷津(おおやつ)、トウボウシ、明ケ谷津(みょうがやづ)、大作(おおさく)、河内谷津(こうじやづ)、新次郎谷津(しんじろうやつ)、登屋下(とやした)、栗並(くりなみ)、木ノ下、河原田(かわらだ)、冷水場(ひやみずば)、門前平(もんぜんだいら)、寺前(てらまえ)、森前(もりまえ)、滝山下(たきやました)、滝山(たきやま)、河内(こうぢ)、三升発句(さんじょうほっく)、追越(おつこし)、上ノ内(じょうのうち)、上ノ内下(じょうのうちした)、ミソウ作、織石下(はたおりいしした)、北ノ内(きたのうち)、細谷津(ほそやつ)、滝ノ谷津(たきのやつ)、常福(じょうふく)、蟻塚(ありづか)、織石上(はたおりいしうえ)、所貫(ところぬき)、トウカ山、カブ町、エチガ入、所貫谷津(ところぬきやつ)、入道谷津(にゅうどうやつ)、荒田谷津(あらだやつ)

常陸大宮市では市内に区制制度を導入し、更に区の中は20戸程度を目安とした班に分けて地域サービスを行っている。西塩子地区は次の班に区分けされている(2025年現在)。
吉田班/上ノ内班/森前班/牛久保班/登屋班/山口班

人口と世帯数

1891年(明治24年)で戸数63、人口396人。2020年(令和2年)国勢調査では人口145人の内65歳以上は76人で高齢化率52.4パーセント。これは日本全体の高齢化率28.6パーセント(令和2年国勢調査結果)と比べ著しく高い数値。

学校

西塩子地区内には公立の小学校、中学校はない。地区在住の児童は小学校は大宮北小学校(常陸大宮市東野2333番地)に通学する。大宮北小学校は2010年(平成22年)4月に塩田小学校(常陸大宮市北塩子623)と玉川小学校(新設の大宮北小の位置)を統合して誕生した小学校。西塩子地区の児童は塩田小学校に通っていた。
大宮北小学校の児童は大宮中学校に通学する。

病院・診療所

2025年6月時点で地区内に病院、一般診療所、歯科診療所はない。

警察

2025年10月時点で地区内に警察施設はない。西塩子は東富町交番(常陸大宮市東富町641-1)の管轄。

郵便局

2025年10月時点で地区内に郵便局はない。最も近いのは国道293号沿いの北塩子簡易郵便局(常陸大宮市北塩子1786-1)。

スポーツ・レジャー施設

マナゴルフクラブ(常陸大宮市西塩子168)

交通

地区内に鉄道は通っていない。地区外の東を通る水郡線玉川村駅が最寄り駅。
道路は、茨城県道161号門井山方線が地区内を東から南西へ抜けるかたちで通る。
地区内に路線バスの通行はない。国道293号上の茨城交通の旧塩田小学校入口が最寄りバス停。

神社

羽黒鹿島神社(常陸大宮市西塩子330)/県道161号から分岐した脇道に面した尾根のふもとから伸びる113段の石段の先に鎮座する西塩子地区の氏社。
羽黒権現、鹿島神社の2社合一の神社で、羽黒は1574年(天正2年)に羽黒権現から勧請し、鹿島は1614年(慶長19年)に鹿島神宮の分霊を祀った。言い伝えでは鹿島分霊の1614年に現在地に社殿を造り両神社を祀り氏社とした、という。神社には”慶長九年九月"(1604年)の棟札が現存することから、おそくとも17世紀初頭には創建されていたと考えられる。
現在地の前は、現在地より約70メートル南西の地に在った、という。この地は「元宮」と呼ばれており、また西塩子館の主郭があった所でもある。
除地4石8斗9合。1873年(明治6年)4月、村社に列格され、1912年(大正元年)12月2日に神饌幣帛料供進社に指定された。1947年(昭和22年)12月、宗教法人化する。
祭神は木花開那姫、大名持命、塩筒翁、武甕槌命。
境内社は以下のとおり。
七竜神(鳴雷神)/八竜神(七色雷神)/鍬神社(天照皇大神)/素鵞神社(建速素戔嗚命)/鷺森神社(月夜見命)/稲荷神社(倉稲魂命)/十二社(天神七代 地神五代)/熊野神社(伊弉冊命)/天満神社(菅原道真)

寺院

2025年時点で地区内に寺院はない。かっては”光明寺”という真言宗の寺もあったが廃寺となった。

史跡

西塩子館跡/羽黒鹿島神社がある、南西から北東に半島状に突き出した尾根の先端部にある館跡。全長150メートル、館の最高地標高は101メートル。主郭は現在の神社の地より約70メートル南西のところにあった。主郭の北側に腰曲輪、南側に堀切がある。尾根の先端方向には上小屋館(別名:北塩子館)と北塩子城(別名:北塩子向ノ入館)がある。西塩子館、上小屋館、北塩子城は西塩子から北東の照田へ抜ける「照田街道」の道筋にあり、西塩子館から上小屋館までは約700メートル、上小屋館-北塩子城間は直線で約500メートル。西塩子館は尾根の先端方向にあった敵、すなわち上小屋館、北塩子城への対抗としてあったことも想定されるが、この館の主が誰であったかは判明していない。

文化財・名勝

西塩子の回り舞台/西塩子地区で受け継がれてきた廻り舞台付の組み立て式の農村歌舞伎舞台。国内に現存する組み立て式の農村歌舞伎舞台としては最古級のものと見なされており、その貴重性から茨城県の有形民俗文化財に指定されている。1997年(平成9年)に半世紀ぶりに組立てて地芝居の公演を行って以降、ほぼ3年毎に組み立てて公演を行っている。その文化財を活かした地域活性化の取り込みが評価され「ふるさとイベント大賞」、「サントリー地域文化賞」、「ティファニー財団賞伝統文化振興賞」などを受賞している。
織石(機織石)/羽黒鹿島神社近くの田んぼにある縦約3メートル、横約2メートル、高さ約2.5メートルの長方形をした巨石。石に耳をあてると、「ヒューッ、ヒューッ」という機織りに使う杼の音が聞こえることから、「織石」、「機織石」と呼ばれている。
この石には次のような伝説がある。
西塩子のある家に美しい娘がいた。村の若者たちは娘の気を引こうと娘につきまとった。
たまりかねた娘の母は、娘を家の中に閉じ込め機を織らせた。
すると若者たちは娘の家の前にたむろするようになった。
困った母親が夫に相談すると夫は「ならば、名を呼ばれても聞こえぬような石倉の中で機を織らせるしかあるまい」と言った。
だが家には石倉などない。母親は村の鎮守様に「どうか石倉をお授けください、どうか石倉をお授けください」とお祈りをした。
祈りが続いたある日、野良仕事をしていた母親の頭上が急に暗くなったかと思うと、稲光が轟音とともに家の方へ落ちた。
慌てて母親は家に戻ったが、家も娘の姿もなく、代わりに大きな石が現れていた。
その石の中から機織りの音が聞こえる。母親は石に縋り娘の名を呼び続けた。
返事はなく、ただ機織りの音があるだけだった。
また、村に疫病が流行って多くの死者が出たとき織石は音を出すのを止めた、という。その後、村では織石の音が止むのを恐れまつりを行った、という。
音の原因は石の下を流れる水の音が反響しているためと思われる。
蟻塚の松/羽黒鹿島神社近くにあった2本の松。枝振りが互いを抱くように拡がっていた。
この松に関して次のような言い伝えがある。
西塩子が塩篭と称していたころ、この地にどこからか蟻の大群が現れ巣を造り始めた。そして蟻が掘り出した土で大きな塚ができあがった。村人たちは小さな蟻たちがこのような大きな物を作ったことに感心し、これは何か良いことが起きる前兆ではと思い、この塚を「蟻塚」と呼んだ。
そうすると、蟻塚から2株の松が芽吹いた。成長し大木となった松は互いを抱くように枝を広げ、その根元には蟻が住み着いていた。この夫婦松を村人は「蟻塚の松」と名付けた。
また蟻塚の松について詠んだ次の古歌がある。
この蟻塚の松は一度枯れたが、再度別の松が生えた。今は1本が残っている。

脚注

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