「大阪府 交野市 郡津」について
郵便番号 | 〒576-0053 |
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住所 | 大阪府 交野市 郡津 |
読み方 | おおさかふ かたのし こうづ |
この地域の 公式HP |
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地図 | |
地方公共 団体コード |
27230 |
最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「大阪府 交野市 郡津」の読み方は「おおさかふ かたのし こうづ」です。
- 「大阪府 交野市 郡津」の郵便番号は「〒576-0053」です。
- 「大阪府 交野市」の地方公共団体コードは「27230」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「郡津」の概要 from Wikipedia
郡津(こうづ、こおづ)は、大阪府交野市の地名。1丁目から5丁目ま。郵便番号は576-0053。
地理
交野市の北部に位置する。北から東にかけて枚方市・幾野、南に私部、西に京阪交野線を挟んで梅が枝・松塚と隣接している。
河川
がらと川/免除川
歴史
室町時代、河内国交野郡の郷として郡戸郷があった。
長禄2年(1458年)9月、『経覚私要抄』に「コウツト云里ヲハ悉被焼払了」とあり、郡津が焼き払われている。石清水八幡宮の神人が下知に従わず新関を設けるなどしたため、幕府の命で神人の地が焼き払われており、郡津も同様に焼かれたとみられる。
天正11年(1583年)8月の豊臣秀吉判物には「河州交野郡郡戸村五百三十三石六斗」と記されており、片桐貞隆が郡津などに知行を与えられていることが分かる。
江戸時代の村名は郡津村といった。なお、村名の表記について、文化元年(1804年)に大坂町奉行の命で「郡津」に改めるまでは郡門村と書いたともされる。
郡津村は、寛永年間(1624–1644年)以降、大和小泉藩片桐氏と山城淀藩永井氏の相給で、正保年間(1644–1648年)の村高783石のうち、550石が小泉藩領で、233石が淀藩領だった。小泉藩領は延宝2年(1674年)より旗本下条氏領(下条氏は寛保3年〈1743年〉に片桐に改姓)となっており、淀藩領は万治元年(1658年)に旗本永井氏領、貞享4年(1687年)に幕府領、元禄7年(1694年)に相模小田原藩の大久保氏領となっている。
郡津の集落を南北に東高野街道が通り、貝原益軒の『南遊紀行』に「香津の茶屋」と出てくる。また、『五畿内志』には「郡門」という表記が見られる。
1881年(明治14年)、郡津村は大阪府の所属となり、1889年(明治22年)、交野村の大字郡津となった。地名の由来
古代交野郡の郡衙の門前の村だったことに由来するという。当初は「郡門村」と書いて「こうど村」と読んだとされ、その後「こうづ」に変化した後、表記も「郡津」に改められたとされる。
沿革
1889年(明治22年) - 交野村の大字となる。
1939年(昭和14年) - 交野町の大字になる。
1968年(昭和43年) - 一部が梅が枝・松塚となる。
1974年(昭和49年) - 一部が幾野1–6丁目となる。
1976年(昭和51年) - 住居表示が実施され、郡津1–5丁目が成立。郡津2丁目は倉治、郡津4丁目は私部だった場所を含む。
1977年(昭和52年) - 一部が松塚に編入される。
1979年(昭和54年) - 一部が梅が枝に編入される。世帯数と人口
2024年(令和6年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通り。
学区
市立の小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
郡津1丁目1–3番、37–43番は、2025年(令和7年)4月より郡津小学校区となる。施設
交野市立交野みらい小学校(1丁目) - 旧長宝寺小学校敷地。
交野市立郡津小学校(4丁目)/学校法人寺西学園 交野幼稚園(5丁目)/交野女子学院(2丁目)/郡津神社(1丁目)/明遍寺(1丁目)/極楽寺(5丁目)鉄道
京阪交野線 - 郡津駅(5丁目)
バス
おりひめバス - 2024年9月より実証運行中。
道路
大阪府道18号枚方交野寝屋川線
参考文献
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 27 大阪府』角川書店、1983年。全国書誌番号:83052043。