郵便番号 629-0341
住所 京都府 南丹市 日吉町殿田
読み方 きょうとふ なんたんし ひよしちょうとのだ
この地域の
公式HP
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地方公共
団体コード
26213
最寄り駅
(基準:地域中心部)
  • 日吉(京都府)駅(JR在来線)
     …距離:1.4km(徒歩16分)
  • 鍼灸大学前駅(JR在来線)
     …距離:3.7km(徒歩46分)
  • 船岡(京都府)駅(JR在来線)
     …距離:4.5km(徒歩56分)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • 殿田トンネル《橋・トンネル》
  • 南丹市立殿田小学校《小学校》
  • 南丹市立殿田中学校《中学校》
  • 京都府 南丹市 日吉町殿田」の読み方は「きょうとふ なんたんし ひよしちょうとのだ」です。
  • 京都府 南丹市 日吉町殿田」の郵便番号は「629-0341」です。
  • 京都府 南丹市」の地方公共団体コードは「26213」です。
補足事項
■f02: 小字毎に番地が起番されている町域。

「日吉町殿田」の概要 from Wikipedia

…(8,702文字)

殿田(とのだ)は、京都府南丹市の地名。以前は、船井郡日吉町殿田(2006年(平成18年)1月1日以前)などと呼ばれていた。明治時代に始まった京都・平安神宮の時代祭で行列の最後尾となる桑船弓箭組列は、初回の1895年(明治28年)から1942年(昭和17年)まで世木村(現在の世木地域:殿田、木住、生畑、中世木、中、天若(うち中と天若は廃村))の住民で構成された中八幡神社の八幡講の男子が中心となり勤めていた。その名残で、今でも南丹市立殿田中学校の校章に三本の矢が使われている。もともと商店街があったことから、近隣の村と比べ農家が少ないことが特徴として上げられる。キャッチコピーは「ダム湖がつなぐ交流の里」。

地理

殿田は、南丹市の西部にある世木地区に位置する。淀川水系の上流・桂川右岸に集落を形成する。
日吉町の地形は左手の手のひらに例えられ、親指が桂川本流、人差し指が中世木川、中指が木住川、薬指が田原川、小指が胡麻川で、これらの川が集まる(合流する)一帯にあるのが殿田。
志和賀との境はアチラで、その語感から二度聞きされることも多いが、列記とした地名。アチラは、殿田住民の新田として開拓された場所で、町筋の車橋や小牧の日吉橋から山を越えた古道を行ったところにある。

河川

桂川 - 区内東部を流れる。殿田では、桂川を大堰川と呼称している。
中世木川 - 区内を流れる、桂川の支流。日吉町中世木の西牧山・東牧山の水を集め西流、中区の府道364号中地日吉線の東で日吉ダム天若湖直下の大堰川右岸に注ぐ。
木住川 - 区内を流れる、桂川の支流。日吉町生畑北部山中の水を集め南西流、木住地区を貫流し、府道364号中地日吉線の東で日吉ダム天若湖直下の大堰川右岸に注ぐ。
田原川 - 区内を流れる、桂川の支流。
胡麻川 - 胡麻平原の分水界で桂川水系の胡麻川と、由良川水系の畑郷川ととに分かれて流下。胡麻川は南丹市立殿田小学校前で田原川と合流する。

大向山 -/行者山 -/上ノ山(上野山) -

殿田活断層

船井郡京丹波町中台付近から南丹市日吉町上世木南方まで約15kmにわたって連続する殿田活断層がある。本断層は西北西走向で直線状に連続し、北側隆起と左ずれの変位で特徴づけられる。横ずれ地形は日吉町志和賀付近で顕著に見られ、左ずれは約200m程度累積している。縦ずれは殿田付近の高位段丘を30~36m、中位段丘を12~15m変位させており、断層変位の累積が明瞭。また、世木林には低位段丘を切る極めて新鮮な低断層崖が発達する点で注目される。殿田断層崖(世木林地区)は、京都府レッドデータブックで「消滅」のカテゴリーになっている。世木林地区で見られた見事な断層地形やトレンチ地点は日吉ダムの完成により水没してしまい、現在は見ることはできない。しかし、殿田断層のはぎとり標本とトレンチ調査 (地質学)の結果がダム堤内の展示室に示してある。

世帯数と人口

2024年(令和6年)1月4日現在の世帯数と人口は以下の通り。

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

殿田区自治会

殿田地内の自治は、認可地縁団体法人となっている「殿田区自治会」が治めている。全会員による直接民主制の区民総会と、年6回ほど開かれる代議士制の組長会により住民総意が図られている。
殿田全体のほか、各組(町)で組織を構成し、隣組単位の自治も行われている。

組構成

殿田区内は大きく2つの範囲に分けられ、その中に計9つの組(町)が存在している。
殿田上 - 旭町、旭山町、小牧町、上ノ町、中ノ町/殿田上 - 石橋・下ノ町、天神町、大堰町、東町

殿田区自治会が加盟する組織

日吉町区長会/世木地域振興会

有志活動などの組織

殿田区自治会とは別に、地縁を由来とする有志の活動が盛んに行われている。
草刈り隊/殿田おたすけ隊/大向井営農組合/殿田商友会/消防団(南丹市消防団日吉支団第1分団第1班)/バンジー/パンジー/劇団 殿田の案山子/殿田の歴史を考える会/世木の伝統芸能を守る会/梅若家屋敷跡保存会

沿革

1889年(明治22年) - 町村制の施行により、殿田村・天若村・中村・中世木村・生畑村・木住村の区域をもって世木村が発足。
1955年(昭和30年) - 五ヶ荘村・胡麻郷村・世木村が合併し、船井郡日吉町殿田となる。
2006年(平成18年) - 4町合併による南丹市誕生に伴い、南丹市日吉町殿田となる。
2024年(令和6年) - 南丹市による行政区分であった殿田上区、殿田下区を廃止。行政区分としても殿田に統一された。

世木城

湯浅五郎兵衛家が旭山に構えたとされる城。湯浅五郎兵衛家は1393年(明徳4年)紀伊守護湯浅有重の子孫、宗朝が世木庄を賜って紀伊国阿氏河荘から丹波国旭山(上の山)に移り住んだ、後の木住の郷士。世木城は湯浅家の屋敷と砦(物見櫓)の一群を指すのではないかと考えられている。旭山の山頂には、円形に整地された所が2ヵ所あり、そこからは大堰川の上流と下流、田原川、胡麻川方面の様子がよく見える。だが、一説によれば、世木城は世木林にあったや、明智光秀が曹源寺裏山山頂に築いた殿田城(山の地名も城山になっている)ではないかとも言われている。

丹波猿楽 梅若家

梅若家の系譜は、奈良時代の橘諸兄(たちばなのもろえ)からとされている。橘諸兄から九世を数える友時は梅津氏の元祖とされ、京都の梅津に住居を構えた。友時は朝廷より綾部大志麻を拝領し、承平年間(931-938年)に子孫が移り住んだとあり、一門は綾部周辺から和知、美山、周山、殿田に散在し、室町時代の初期まで丹波守や若狭守などの役職に就いたとされている。丹波に移り住んだ梅津家が猿楽を始めた時期は明らかになっていないが、室町時代の看聞御記の1416年(応永23年)3月9日の条に「仙洞に猿楽あり梅若仕」とある。1481年(文明13年)、三十七世梅津景久が後土御門天皇の前で芦刈を舞って、若の字を賜り、梅津一族はこの時から梅若に改姓した。元は武士で明智光秀の側近。本能寺の変で戦死したが、江戸時代には能楽師として徳川家に召し抱えられた。
梅若家屋敷跡 - 屋敷跡には古井戸が保存されている。屋敷跡周辺は、合併前の日吉町の花であったミツバツツジが植樹されている。屋敷跡の古井戸は園部城や亀山城とつながる抜け穴だという口伝が残っている。
梅若家旧墓所 - 殿田地内に残る梅若家の墓標がある。
殿田山曹源寺 - 殿田地内にある梅若家の菩提寺/梅若稲荷跡 - 上野山トンネルの横、東町踏切そばの坂道を登ったところに梅若家鎮守の稲荷跡の石組みがある。

船運の発展

角倉了以による1606年(慶長11年)の大堰川の開削で発展した船運によって、千把や柴をはじめとした当地の産品が京の都へ運ばれた。大堰川は、明治時代まで船が運行していた。殿田にも数カ所の船着場(浜)があり、物資を積荷していた。しかし、他の交通機関が発達し、その役目を終えた。今では岩しか残っていない。

殿田駅

殿田駅(現・日吉駅)は、1910年(明治43年)8月25日、園部・綾部間の鉄道開通に合わせて開業された。当初、殿田前田にあった旧世木村役場前につくられる計画だったが、大堰川と田原川の合流点にあたるため見送られ、現在の地に建設された

殿田の大火

1941年(昭和16年)4月27日(日)、当時130軒ほどの殿田で、その大半となる104軒が熱失し600人を超える被災者を出す火災が発生した。出火の原因は、12時38分に殿田駅を出発した京都駅行の蒸気機関車が殿田小牧町を通過した際、汽車の煙突から出た火の粉が路線そばにあった散髪屋の茅葺き屋根に落ち、強風にあおられて燃え上がったとされている。
防火設備の義務化 - 大火を教訓として殿田では家屋を建築する際に「隣家に面する側は防火設備をする」という条件ができ、「1 袖壁(そでかべ)という外壁を両側に付ける」「2 屋根の軒も木に火が付かないよう土で塗り込める」「3 数軒おきに田原川に避難ができて消防車も通れる道を造る」といったことが義務付けられた。
貽訓石(いくんせき) - 大火から一年後の春、小牧町の出火跡に祖先が子孫のために残す教えを意味する貽訓石が建てられた。碑文には「此の火滅すと雖も、且つは放心する勿れ 無災を恃まず、用意の深きを恃め」。
語りべ人形 - 「殿田の大火」の証言を伝えるために作られた高さ50㎝ほどの6体の人形。殿田の歴史を考える会からの依頼で日吉町在住の人形作家・空閑早百合によって制作されたもの。小学6年生で大火を経験した住民の話がモデルとなっている。殿田区では、人形を使った証言朗読会が行われている。

日吉ダム建設に伴う移転

日吉ダムの建設に伴い、天若湖に水没する家など154世帯約500人が1998年に移転した。集団移転先の一つが、ダム下流の殿田の一画。ほかでは、京都府亀岡市千代川町日吉台がそれで、日吉町中村(ダム建設で廃村した村)にあった八幡神社も氏神として一緒に移転し、日吉台から少し離れた大井町小金岐に鎮座している。
天若アートプロジェクト

道路

府道/京都府道19号園部平屋線/京都府道50号京都日吉美山線/市道/殿田の歴史と文化街道「丹波梅若の道」 - 商店街のあった街道沿いの市道区間1.7Kmに付けれた愛称京都新聞社 (2023年10月5日). “京都府南丹市日吉町の市道1・7キロ、愛称は「 丹波梅若の道」に 能の名門にちなむ”. 京都新聞. https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/112280 2024年1月26日閲覧。 トンネル/殿田トンネル

前田橋/曹源寺橋 - 曹源寺門前の田原川に架かる橋。欄干柱には、切り絵風の能の絵が四種類(玉鬘 (源氏物語) 、鵜飼 (能)、田村 (能)、百万 (能))あしらわれている。
大向橋/日吉橋/殿田橋

鉄道

西日本旅客鉄道山陰線。最寄り駅は日吉駅。
踏切 - 殿田踏切(42K967M)、東町踏切(42K475M)/トンネル - 新前山トンネル、上野山トンネル。両トンネルともに、アーチ型レンガ積。
橋梁 - 第一殿田川橋梁、第二殿田川橋梁/鉄道開通記念樹 - 日吉橋左岸にある、1910年(明治43年)の園部・綾部間鉄道開通時に記念として植えられたキササゲ(梓)。

路線バス

南丹市営バス/世木線 - 日吉駅前バス停、殿田中学校前バス停、東町バス停、小牧町

外出支援サービス

殿田おたすけ隊による、移動困難者のための外出支援サービスが行われている。

商店

殿田は、もともと商店街地で、今でも多くの商店が軒を連ねている。歴史的には世木庄の中核集落で、若狭街道沿いに町化していったよう。その主な要因は木材の運搬による繁栄で、上流部から伐り出された木材がいったん殿田に集められ、大筏に組み替えられ、下流の船岡・鳥羽・保津・山本などの中継地を経て、木材は嵯峨に送られたことが上げらえる。1799年(寛政11年)の丹波国大絵図にも殿田について「山城嵯峨より殿田まで通船あり」と注されている。

飲食店

キッチン天若 - ビジネスホテルを併設/カフェeco epoch/Cafe Le Jardin Pop/アマンズガーデン/まるやま喫茶店/殿田まちかどの「こしかけ」 - 殿田区自治会による喫茶サロン

その他

昭和堂クリーニング店/サツキ美容室/シスター美容室/総悠館/パン工房みのり/ひだまり/クラウンヒルズ京都GC(ゴルフ場)

学校

南丹市立殿田小学校 - 南丹市日吉町殿田大貝25番地外。略称は「殿小」。
南丹市立殿田中学校 - 南丹市日吉町殿田大貝30番地外。略称は「殿中」。

南丹市が設置する施設

南丹市日吉殿田活力倍増センター - 南丹市日吉町殿田前田11番地8。南丹市日吉殿田活力倍増センターおよび、隣接する「日吉町殿田交流センター」、2階にある「とのだとーくホール」をひとくくりにして、殿田住民は「とーくホール」と呼称する。殿田区自治会が管理運営。
南丹市日吉産業振興会館 - 南丹市日吉町殿田尾崎8番地1/南丹市日吉殿田コミュニティ広場「交流広場 殿田ふれあいパーク」 - 南丹市日吉町殿田前田6番地外。殿田区自治会が管理運営。
南丹市日吉体験の森 - 南丹市日吉町殿田旭山39番地1外/南丹市日吉殿田運動場 - 南丹市日吉町殿田旭山3-2/南丹市日吉殿田水道施設 - 南丹市日吉町殿田大貝20番地2外/南丹市日吉殿田浄化センター - 南丹市日吉町殿田イチバ132

その他の施設

とまり木 - 世木地域振興会運営のお試し住宅/日吉町消防団第一分団第一部倉庫(2階建ての詰所)/南丹警察署殿田駐在所 - 南丹市日吉町殿田前田51-2/みんなの居場所わっかっか! - 農家民泊可能な施設/ヒノ谷墓園/上ノ山墓地

大西堰

殿田前田の大堰川にある大西堰は、園部町内林町、園部町木崎町に続く全町8kmに渡る用水路の起点。堰き止められた水は通称「通し溝」を通り、田原川側の殿田尻堰の水を取り入れたあと、暗渠を経て鉄道のトンネルと並行して勝貫隧道を抜けて船岡にでる。

勝貫隧道

約370mの農業用水を通すトンネル。1941年(昭和16年)に農林省の農用公共施設改良事業として工事が始まり、1945年(昭和20年)に完成した。勝貫隧道の名称は、第二次世界大戦の最中に造られたこともあり、当時の戦意高揚の風潮を受けて付けられたとされている。現在、大西井堰土地改良区が管理運用している。殿田側の水門は毎年4月中旬から9月中旬までの農繁期に開かれる。園部町船岡側は水門が付けられていない。

日吉神社

日吉町には日吉神社が3社あり、その中でも最も古い日吉神社。小牧山観音堂には、西国三十三所の本尊を模した観音像が安置されている。財産の保有は、殿田区自治会となっている。

日谷山 日ノ寺 成就院

高野山真言宗寺院。殿田区民から「日ノ寺」と呼ばれ親しまれている寺。717年(養老元年)越知山の泰澄国師35歳の時、当日谷山に来て開基。本尊の薬師如来は弘法大師作と伝えられる。両脇に天若より移転の薬師如来(日吉町指定文化財)・十二神将・毘沙門天(日吉町指定文化財)と十一面観音菩薩・愛染明王を奉安。本堂前に修行大師・ぼけ封じ観音を安置し、裏山には新四国八十八ヶ所霊場がある。また、同山内には日吉ダム建設に伴い盛林寺・平尾寺が移築され、ヒノ谷霊園と世木村忠魂碑が隣接ある。
平尾寺 - 日吉ダム建設に伴い上世木から、 成就院に移転された寺院。
盛林寺 - 日吉ダム建設に伴い上世木から、 成就院に移転された寺院。
日谷山新四國霊場 - 成就院の山中にある約1kmの行程で八十八カ所霊場巡りができる場所。1929年(昭和4年)、当時の住職・眞守諦導師の発案と近郷住民の浄財により完成したもので、各霊場の祠には本尊と弘法大師像の二体が安置されている。本尊の光背には霊場の番号、大師像の台座正面には寄進者の名が刻まれている。2010年(平成22年)には祠が修復された。寺の境内には、霊場創設と同時に建立された弘法大師の立像もある。

殿田山曹源寺

曹源寺は曹洞宗の寺院。梅若家の菩提寺。園部町にある竜穏寺二世の海雲桂川禅師に梅若家が帰依し、「殿田は山紫水明の地なれば、この地に隠居されたし」と1546年(天文15年)頃に庵を建立し、先祖の菩提を弔った。徳川時代初期に竜穏寺十七世、月子良桂禅師を開山として曹源寺となった。

水天宮

曹源寺の境内に鎮座している。石柱に「古老に聞くと、殿田に洪水が多く発生したので水難除けの水天宮を建立した」とある。

行者山(岩)

殿田の町を一望できる行者山の中腹の一枚岩に役行者(えんのぎょうじゃ)が彫られている。近くには、行者の滝があり、行者が身を清め一夜、堂に篭り、参りを行った像の前の絶壁から身を差し出し、祈願を行っていたという。

愛宕権現

殿田地内の愛宕山に灯籠が一対あり、祠に愛宕の札が祀られている。祠の横には以前、何らかが祀られていたと思われる石組みがある。

天稚神社

天稚神社(あまわかじんじゃ)は、室町時代初期の貞治年間(1360年頃)に世木の一ノ宮として創建されたとある。日吉ダムの建設により殿田に移転した。

史跡

丹波猿楽梅若家旧墓所/丹波猿楽梅若生家跡/大火遺訓石/世木村忠魂碑

劇団 殿田の案山子

2005年(平成17年)に殿田有志8人からはじまった演劇集団。殿田は、大正時代から住民による地歌舞伎、謡、浄瑠璃が演じられ、昭和になっても青年団による芝居が人気だった。現在の劇団も、こうした伝統が源流となっている。

ミツバツツジの植樹活動

ツツジは日吉町の「町の花」で、もとからミツバツツジが殿田山中に自生していたことから、梅若屋敷跡周辺ではミツバツツジの植樹が続けられている。“ミツバツツジの植樹|梅若家屋敷跡”. かおだすレポート (2022年3月31日). 2024年1月27日閲覧。

葬儀

香典返し禁止のルール - 旧日吉町内の人からの香典については、香典返しをせず、礼状のみとする申し送りがある。

天気予報

阿保(あほ)が喜ぶ十時あかり - 午前10時ごろにやんだ雨は午後に再び降ることが多いという意味で殿田住民が使っていることわざ。
朝雪は日和の花 - ちらちら雪が降る朝は天気がよくなるという意味で殿田住民が使っていることわざ。
辰巳(南東)から雲が流れたら雨が確実に降る - 東南は大向山の方角。
羊申(南西)から雲が流れると雨が降ったり止んだり - これを「エテコのだふり」とも言う。南西は行者山の方角。
行者山が曇ると雨が近い -/丑寅(北東)は荒れる(北東から雲が流れたら台風が来るという予測) - 北東は成就院(日ノ寺)の方角。
戌亥(北西)から雲が流れると寒くなる - 北西は日吉神社の裏山がある方角。西高東低の冬型気候時には、風の動きを表している。

大道法師の山

大道法師はダイダラボッチとも呼ばれ、富士山や琵琶湖を作ったなどと伝わる伝説の巨人。南丹市立殿田中学校の裏山の山頂にある広く平らな所があり、大道法師が踏んだ足跡と伝わる大きな窪みがある。

仏坂の阿弥陀石

山賊に殺された人を悼んで村人が建てた「南無阿弥陀仏」の石碑。石には殺された人が化けて出たと思い山賊が刀で切りつけた跡が残っている。

世木の関助

「世木の関助(かんすけ)」こと山口関助廣政は慶安年間(1648~1652年)に殿田に生まれ、身長六尺二寸余り(約190cm)の大男で、怪力で知られ渡っていた。志和賀の山口村で山口熊太郎の先祖の家に白炭運搬の人夫として居候、その時に娘を嫁にして山口姓をもらったとある。関助に関する逸話がいくつも残っている。
俵を背負った牛を持ちあげた - 園部藩主小出侯が参勤交代で江戸から帰途、園部町内を通っていた時、五斗俵2個を背負った牛を農夫が牽き進んできて立往生となった時の話。殿様の同心役が大声でしかるも牛は徘徊するだけのところ、関助が進み出て俵を負ったままの牛を両手で持ち上げ道端に避けて行列が通れるようにした。これには関助が雄牛に米俵2俵を積んで園部へ出る際に立壁で厄神参拝の小出侯と出会った時に起こったできごととしての言い伝えがある。関助18歳、これによって関助は小出侯に仕えることになったとある。
竹を引き抜いた - 園部藩で竹藪を開墾する際、各地から多くの人足が集められが、殿田からは関助ただ一人。しかも、他の人足が働いている時も一向に仕事せずにいたことから、人々が不思議に思って咎めたところ、やおら身を起こして竹藪の竹を難なく引き抜いた。これには役人や周りの人も大変驚き、これを聞いた小出侯が、関助の怪力を愛でて藩のお抱えにしたという。
紀州侯からの申し出 - 江戸で力競べが行われた際も関助の右に出る者はなく、これを見た紀州侯が小出侯に関助を譲り受けたいと申し出たという話もある。
関助の長刀奉納 - 関助の没後、嫡子山口勘兵衛門は1723年(享保8年)3月に関助が所持していた三尺五寸(約110cm)の長刀一振りを園部の生身天満宮に奉納した。その刀は現在も生身天満宮蔵に保管されている。また、殿田の日吉神社の観音堂と行者山にも各一振り、長刀を奉納したとあるが、今では見ることができない。

共有林

1973年(昭和48年)時点、日吉町では、財産区を除いてすべて私有林であり、これは、1872年(明治5年)の地券発行以後、官有林を出来る限り拡大するという方向での一連の官民有区分政策に対して、民有林であることの証拠を有していた故のことであり、明治初期において共有林に対する権利意識も一般に高かったと考えられる。京都府農業会議の資料によれば、1964年(昭和39年)の世木財産区は6.3町、殿田区有林は6.0町とある。

日本郵便

郵便番号 : 629-0341(集配局:園部郵便局)。

関連項目

日吉ダム/殿田駅/南丹市立殿田小学校/南丹市立殿田中学校/南丹市/日吉町/船井郡/殿田-神吉-越畑断層/龍の森プロジェクト

関連ページ