郵便番号 610-0201
住所 京都府 綴喜郡 宇治田原町 禅定寺
読み方 きょうとふ つづきぐんうじたわらちょう ぜんじょうじ
この地域の
公式HP
地図

地図を表示

地方公共
団体コード
26344
最寄り駅
(基準:地域中心部)
  • 京都府 綴喜郡 宇治田原町 禅定寺」の読み方は「きょうとふ つづきぐんうじたわらちょう ぜんじょうじ」です。
  • 京都府 綴喜郡 宇治田原町 禅定寺」の郵便番号は「610-0201」です。
  • 京都府 綴喜郡宇治田原町」の地方公共団体コードは「26344」です。
補足事項
■f02: 小字毎に番地が起番されている町域。

「禅定寺(京都府宇治田原町)」の概要 from Wikipedia

…(1,544文字)

禅定寺(ぜんじょうじ)は京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺庄地にある曹洞宗の寺院。山号は補陀洛山、院号は観音妙智院。開山は平崇。本尊は十一面観音。宇治田原町の郊外、滋賀県境に近い位置にある。近世以降は曹洞宗の禅寺となっているが、元は東大寺の末寺であり、平等院や藤原摂関家ともゆかりの深い寺院で、本尊十一面観音立像をはじめ、平安時代にさかのぼる仏像群を有する。

歴史

禅定寺は、宇治方面から宇治川の支流田原川に沿って近江(滋賀県)の石山方面へと向かう道沿い、滋賀県境に近い山里に位置する。この地域は平安時代中期以前には久和利郷と呼ばれ、禅定寺の前身にあたる桑在寺(くわりじ)という寺があったという。
寺に伝わる『禅定寺造営年次目録』によれば、この寺は東大寺の別当(寺を統括する最高位の僧)などを務めた僧・平崇によって創建されたもの。平崇は藤原兼家(藤原道長の父、関白、太政大臣)の帰依を受けて永延元年(987年)より造営を開始、正暦2年(991年)に本堂を建て始め、完成したのは長徳元年(995年)であるという(この間、正暦元年・990年には兼家が没している)。それから数年後の長保3年(1001年)の日付をもつ「禅定寺領田畠流記帳」によると、禅定寺は地元の田原郷に一千町歩の杣山や田畑を有し、その他の地方にも寺領を有していた。この禅定寺領は延久元年(1071年)、平等院に寄進され、禅定寺は平等院の末寺となった(それ以前は東大寺に平崇が建てた正法院の末であった)。
このように、禅定寺は平安時代を通じて藤原道長、藤原頼通(道長の子、平等院の建立者)らの貴族の帰依を受け、広大な寺領を背景に栄えた。寺の運営は寄人(よりうど)と称される、寺に所属する領民によって支えられていた。
寺に残る文書によると、中世の禅定寺は近隣との境争論をたびたび起こしており、中でも九条家領(最勝金剛院領)の曽束荘(そつかのしょう、現大津市大石曽束町)との山堺争論は中世から近世末期まで延々と争われたことで著名。
寺は戦国時代には衰微したが、近世に入り、延宝8年(1680年)に加賀・大乗寺(金沢市)の中興である月舟宗胡が入寺し、加賀藩老本多家の援助を得て再興している。これ以来宗旨を曹洞宗に改めて現代に至っている。

重要文化財

木造十一面観音立像 - 像高286cm。量感のある体躯表現に平安時代初期様式の名残がうかがえるが、表情は和風化し、衣文の彫りもおだやかで、禅定寺が創建された10世紀末頃の作と思われる。以下の諸仏も平安時代中期~後期の作。
木造日光・月光菩薩立像/木造四天王立像/木造文殊菩薩騎獅像/木造地蔵菩薩半跏像/禅定寺田畠注文(1巻)・流記帳追記(1巻)/禅定寺文書(140通)10巻、7冊

利用情報

拝観時間 - 9時~16時/拝観料 - 大人500円(30名以上は400円)、中学生以下は200円

アクセス

JR奈良線宇治駅・京阪宇治駅または近鉄新田辺駅より京都京阪バス維中前行き、または緑苑坂・工業団地方面行き維中前(いちゅうまえ)または岩山下車、徒歩30分(岩山に停車するのは緑苑坂・工業団地方面行きのみ)。維中前バス停にはタクシーが待機していることが多く、待機していない場合も電話で呼び出しができる。
維中前からは宇治田原町の福祉バスも運行されている(1日5往復、運賃無料、全区間自由乗降、土日祝、お盆、年末年始などは運休)。「北ルート」にて終点の「禅定寺」下車。

参考文献

『日本歴史地名大系 京都府の地名』、平凡社/『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店/『国史大辞典』、吉川弘文館/毎日新聞社編『仏像めぐりの旅5 京都(洛北・洛西・洛南)』毎日新聞社、1993

外部リンク

禅定寺

関連ページ