郵便番号 708-0601
住所 岡山県 苫田郡 鏡野町 上齋原
読み方 おかやまけん とまたぐんかがみのちょう かみさいばら
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地方公共
団体コード
33606
最寄り駅
(基準:地域中心部)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • 上斎原郵便局《郵便局》
  • クアガーデンこのか《温泉施設》
  • 上斎原温泉《温泉地》
  • 民宿石原《民宿》
  • 岡山県 苫田郡 鏡野町 上齋原」の読み方は「おかやまけん とまたぐんかがみのちょう かみさいばら」です。
  • 岡山県 苫田郡 鏡野町 上齋原」の郵便番号は「708-0601」です。
  • 岡山県 苫田郡鏡野町」の地方公共団体コードは「33606」です。

「上齋原」の概要 from Wikipedia

…(2,669文字)

上齋原(かみさいばら)は、岡山県苫田郡鏡野町の町丁。本町丁のみで上齋原地域を形成する。郵便番号は708-0601。

地理

鏡野町の最北端に所在し、鏡野町羽出、下斎原、越畑、津山市加茂町倉見、鳥取県鳥取市佐治町栃原、佐治町中、東伯郡三朝町中津、神倉、鉛山、木地山に接する。地内は標高の低い所でも標高500mほどであることから大雪の年は積雪量が南部で1mから2m、北部では3mから4mにも達する。

三国山

河川

吉井川 - 三国山山麓を源流とし、上齋原では一般に大川と呼称される。
遠藤川/中津河川/赤和瀬川/木路川/湯の谷川

池沼

恩原貯水池 - 1928年(昭和3年)に完成した。

歴史

恩原貯水池付近の恩原遺跡群で旧石器時代の石器や炉の跡ならびに少数の縄文時代の石鏃や土器が出土している。平地の少ない山間部であったことから条里制の地割は見受けられない。平家の落人伝説や後醍醐天皇が隠岐の島に流される際に人形峠を越えたという伝説が残るが、いずれも伝説の域を出ない。
上齋原神社の神石に北朝の年号が刻まれていることから南北朝時代は北朝方の赤松氏の支配が及んでいたものと考えられる。その後尼子氏、毛利氏、宇喜多氏、小早川氏の支配下を経て津山藩森氏の領地となる。森氏の時代に編纂された作陽誌によると当時の上齋原は伯耆往来の宿場であり、新庄村を越える出雲往来には及ばぬものの駅家も設置されて栄えていた。
江戸前期の寛文年間までは現在の下斎原と共に才原村であったが分村し、それぞれ上才原村、下才原村となった。
1697年(元禄10年)に森氏が改易となった後は松平氏の所領となったが1727年(享保12年)の減封によって幕府領となり久世代官が治めた。明治維新時は津山藩預りとなっていた。
1869年(明治2年)に倉敷県、1871年(明治4年)に北条県の所管となった後1876年(明治9年)に岡山県の一部となった。1883年(明治16年)に奥津村、奥津川西村、長藤村、下斎原村と共に五ヶ村連合戸長役場を長藤村に設置したが1889年(明治22年)6月、町村制の施行の際に離脱し単独で上齋原村となる。戦後の1959年(昭和34年)4月1日に近隣の苫田郡苫田村・羽出村・奥津村の3村が合併し奥津町となった際に合併への参加が検討されたものの最終的に合併を見送り、長らく単独で村政を行っていたが、2006年(平成17年)3月1日に富村、奥津町、鏡野町(初代)と合併し鏡野町の町丁となった。

地名の由来

「齋原」の地名が初めて文献に登場するのは1347年(貞和3年)6月24日の『刑部守延坊舎等譲状』の「サイ原」であり、この「サイ原」の「サイ」は塞の神に由来すると考えられている。江戸前期の寛文年間に才原村が上下に分かれ、それぞれ上才原村、下才原村となった。
『上齋原村史』は地名の歴史から考察するに地名の由来は先出の「サイバラ」によるものであろうとしているが、それとは別に上齋原村では上齋原の由来を「斎」に求め、村社である上齋原神社で大穴牟遅命を斎祀ったことから村の愛称として「いつきの原」を使用していた。
井上文夫は『アイヌ語地名考』でアイヌ語のsai-para(連なった原)に由来すると解している。

年表

1889年(明治22年)6月 - 町村制の施行の際に単独で上齋原村となる。
2006年(平成17年)3月1日 - 上齋原村が富村、奥津町、鏡野町(初代)と合併し鏡野町の町丁となる。

産業

当地では盛んにたたら製鉄が行われていた。文献に初出するのは1704年(宝永元年)のことであるが、近隣の市町村では奈良時代前後の遺構が残されていることから、『上齋原村史』では上斎原のそれも案外古いのかもしれないとしている。砂鉄採取の為濁水が流されたことで下流の村と諍いが生じ、稼業期間など多くの制限が設けられた。それでも耕地に恵まれない当地の農民にとって重要な出稼ぎの場であった。同時期に木地師の活動も見られたが原料の木材がたたら製鉄と競合したことなどで江戸中期以降は次第に見られなくなっていった。明治に入ってもたたら製鉄は行われていたが、大正年間、戦後恐慌によって潰えた。
都市での炭の需要が増加した江戸末期より炭焼きが栄え、県内屈指の生産地であったが1970年(昭和45年)には僅か数トンの生産となり廃れた。炭焼きが衰退した後も林業は盛ん。
明治になると木地師、たたら製鉄の衰退により稲作、和牛の飼育が盛んとなったが、昭和40年代頃より農業不振により和牛の飼育数が激減し、代わりに冷涼な気候を活かした天然のナメコや山菜の生産が盛んとなった。
1955年(昭和30年)11月には人形峠で日本で初めてウラン鉱床が発見されたことでウラン採掘で栄えた。原子燃料公社が民営化され動力炉・核燃料開発事業団となったことで社宅が村外に移転したことで人口は流出したが、その後も長らく電源交付金などが村の財政を支えており、1985年(昭和60年)時点で県内自治体の中でも民力度、成長度が圧倒的に高かった。
昭和30年代のスキーの大衆化により恩原高原スキー場に県内外からスキー客が訪れるようになった。

教育

町立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
かつては地内には鏡野町立上齋原小学校および鏡野町立上齋原中学校が所在したが中学校は2016年度(平成28年度)に鏡野町立奥津中学校、鏡野町立富中学校と共に鏡野町立鏡野中学校に統合された。小学校も2020年(令和2年)に休校となり、2023年(令和5年)3月に鏡野町立富小学校と共に鏡野町立奥津小学校に合併された。

公共交通機関

中鉄北部バス奥津温泉・石越線/上齋原地域トロリンバス/1955年(昭和30年)8月から1985年(昭和60年)3月の間、国鉄バス美伯線が運行されていた。

道路

国道179号/奥津―上斎原バイパス/国道482号

人形峠/辰巳峠

施設

鏡野町役場上齋原振興センター/上斎原郵便局/上齋原文化センター - 1993年(平成5年)12月に完成した音楽ホールを有する多目的施設。
人形峠アトムサイエンス館/上斎原スペースガードセンター

名所旧跡

氷ノ山後山那岐山国定公園/恩原遺跡群 - 岡山県指定文化財(史跡)/上齋原発電所施設 - 国登録有形文化財(建造物)/岩井滝 - 環境省選定名水百選

世帯数と人口

1996年(平成8年)3月末時点での世帯数は322世帯、人口は998人であった。

脚注

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