郵便番号 986-2406
住所 宮城県 石巻市 前網浜
読み方 みやぎけん いしのまきし まえあみはま
この地域の
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地方公共
団体コード
04202
最寄り駅
(基準:地域中心部)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • 寄磯荘《民宿》
  • 石巻市立寄磯小学校《小学校》
  • 宮城県 石巻市 前網浜」の読み方は「みやぎけん いしのまきし まえあみはま」です。
  • 宮城県 石巻市 前網浜」の郵便番号は「986-2406」です。
  • 宮城県 石巻市」の地方公共団体コードは「04202」です。
補足事項
■f02: 小字毎に番地が起番されている町域。

「前網浜」の概要 from Wikipedia

…(4,965文字)

前網浜(まえあみはま、まいあみはま)は、宮城県石巻市牡鹿地区にある大字。旧牡鹿郡牡鹿町大字寄磯浜の一部、旧牡鹿郡大原浜大字寄磯浜の一部、旧牡鹿郡浜方十八成組寄磯浜端郷前網浜に相当する。郵便番号は986-2406。住民基本台帳に基づく人口は41人、世帯数は21世帯(2025年4月30日現在)。

地理

石巻市の東部、牡鹿地区の北部、寄磯半島の付け根に位置する大字であり、東で寄磯浜、西南で鮫浦、西北で牡鹿郡女川町塚浜と接し、それ以外は太平洋に面する。
前網浜の中心集落である前網集落は幅100m未満の小砂利の浜にできた狭隘な集落。前網集落は寄磯半島の南側に位置しているため豊かな太陽光に恵まれ牡鹿半島裏浜地区のなかでは最も温暖であるが、くびれた地形をしているため北風が強い。
「前網」の読みは「宮城県町字マスターデータセット」(2025年5月28日時点)にある通り「まえあみ」が標準的であるとされるが、地元では「え」が「い」に変化し「まいあみ」と呼称される。また、1888年(明治21年)に門脇村の須田林三郎によって著された『石巻市街名所並女川湾明細』には当地について「マイアミ」と記しており、前網は往時より「まいあみ」と称されていたことがわかる。

地形

山岳・丘陵/蕪森山(202m)/前網丘陵(83.5m)/湾/前網湾/崎/前網崎 - 海食崖。

小字

仙台法務局石巻支局の「石巻市登記所備付地図データ」(2025年5月28日時点)、デジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリの「宮城県町字マスターデータセット」(2025年5月28日時点)、運輸局公表の「東北運輸局宮城運輸支局住所コード表」(2024年11月1日時点)および石巻地域合併協議会事務局公表の「第9回石巻地域合併協議会資料」(2004年1月22日時点)によれば、前網浜の小字は以下の通り。なお、町字IDは「宮城県町字マスターデータセット」(2024年8月13日時点)に基づく。

行政区

石巻市は世帯数及び人口の調査、世帯台帳の整備、市行政の周知、連絡、通知のための公文書の配布伝達を円滑に行うために、行政区を定めている。石巻市の例規「石巻市行政委員規則」(2024年2月1日施行)によれば、前網浜と対応する行政区は以下の通り。

歴史

前網浜では貞和5年(1349年)の板碑をはじめとする南北朝時代から室町時代にかけての板碑群13基が存在しており、この頃から前網に集落ができたとされ、寄磯浜本郷(前浜)や後網といった近隣集落より先に集落が形成された。
享保8年(1723年)に渡辺屋勘三郎が記した永代覚帳には/とあり、また同書の「当浜肝入段々相動方」に/とある。
七郎左衛門は貞享4年(1678年)に上方から寄磯に移り住んだ遠藤隼人の末裔であるとされ、寄磯最初の肝入職を与えられた人物。つまり前網浜は、遠藤隼人といった武士たちが移り住んだことで人口が増加した寄磯浜に本郷の地位を奪われ端郷の地位に転落したということがわかる。
明治期になると、国の殖産興業の方針から現在の前網浜釜ノ浜およびオソヒ沢山の辺りの官有地を牧場として牛馬を放牧し、1887年(明治20年)時点でアメリカ産の牡牛5頭、牝牛44頭の計49頭を県から借り受けていた。牧場では主に子牛の生産・販売と乳牛の貸付を行っており、大原牧場会社に吸収された以降もしばらくは事業を継続していた。しかし、1905年(明治38年)に国有林内の放牧が禁止され、牛馬の放牧の歴史は終焉を迎えた。
明治期には政府が従来の慣行・権力を否認して海面国有を宣言し、新規の申請に基づいて漁業を許可し借区料として漁民から使用料を取るという新制度を強行した。そもそも牡鹿半島の各漁浦は古来からの慣行と漁場紛争を経て作られた一定の秩序が保たれていたが、明治政府の新制度により、従来の慣習を再確認する必要が生じた。しかし、この再確認は藩政時代に一切紛争がなかった寄磯浜と前網浜の間で漁場紛争を招くこととなった。1876年(明治9年)、調停の結果、寄磯浜の言い分が概ね認められたが、前網浜の者が字ヨナゴダチ浜峯までの間、薪取りをしても、字内立磯までの間、捕魚しても寄磯浜の者は咎めないという条件が付けられた。
1968年(昭和43年)10月10日、前網漁協が養殖漁場を設定する際に「寄磯・前網・鮫浦三漁協共有漁業権申請書に添付された図面」(1954年8月付)と「昭和41年1月28日付宮城県公報告示第64号」に示されている漁場の境界の相違点が露呈した。この相違点とは前者の「二ツ根基点、泊浜(谷川浜)崎釜崎見通しの線」と後者の「二ツ根基点、泊浜モミノ木下見通しの線」にあった。前者の境界線と比べて後者の境界線は前網の漁場が大きくなるように設定されており、事の重大性に驚いた寄磯漁協は組合長以下8名の役員を県庁に向かわせ異議申し立てを行ったが、県水産課は境界線の告示は1964年(昭和39年)に寄磯漁協代表の合意に基づいたものであるとして異議を退けた。しかし、寄磯漁協は納得せず、前網・寄磯両漁協間で折衝し1977年(昭和52年)に以下の内容で合意した。
2005年(平成17年)4月1日、牡鹿町が石巻市他5町と合併し、石巻市が発足。その際、大字寄磯浜のうち字前網など5字をもって前網浜が石巻市の大字として設置された。
2011年(平成23年)3月11日には東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、防波堤は大破し機能不全に陥り、漁業倉庫や組合所、クレーンといった水産施設が流出ないし損壊した。震災前は狭い平地に住居が密集した漁村景観を成した集落であったが、震災により23戸中18戸が損壊し、かつての景観は失われた。仮設住宅は隣接する寄磯浜五梅沢に設置された。

沿革


※新暦導入以前(明治5年以前)の日付は和暦による旧暦で表記する。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦、1582年以降はグレゴリオ暦。
明治5年(1872年) - 第13大区小18区に属する。
1873年(明治6年) - 鮫浦との地先海面争いが勃発する。
1876年(明治9年) - 寄磯浜との間で漁場の境界争いが起こる。
1885年(明治18年) -寄磯浜との間で漁場の境界争いが起こる。
1889年(明治22年)4月1日 - 近隣の村々と町村制施行。寄磯浜端郷前網浜は牡鹿郡大原村大字寄磯浜の一部となる。
1931年(昭和6年) - 前網浜を含む裏浜一帯に電気が開通する。
1949年(昭和24年)12月 - 前網漁業協同組合成立。
1950年(昭和25年) - 前網大火。16戸全焼、4戸半焼。
1963年(昭和38年)8月1日 - 町道鮫浦寄磯線が開通。
1965年(昭和40年) - 総工事費1,370万円で追分山を原水地とする寄磯前網簡易水道の工事が開始される。
1966年(昭和41年)/3月25日 - 寄磯前網簡易水道竣工。
4月1日 - 寄磯前網簡易水道が開通し、前網浜に給水が開始される。
1971年(昭和46年) - 前網漁協が東北電力女川原子力発電所建設計画に同意。
1973年(昭和48年) - 寄磯浜との間で地先海面争いが再燃する。
1976年(昭和51年) - 牡鹿町営バスが当地に開通。
1977年(昭和52年) - 寄磯浜との地先海面争いが解決する/1979年(昭和54年)/12月 - 前網浜漁民センター完成 。
12月25日 - 東北電力女川原子力発電所建設工事着工。
2005年(平成17年)4月1日 - 牡鹿町が石巻市他5町と合併し、石巻市が発足。牡鹿町大字寄磯浜のうち前網部落をもって石巻市前網浜が成立。
2015年(平成28年)3月31日 - 三陸国立復興公園に含まれる。

地名の由来

前網の「マエ」とは物理的な前後を表す「前」ではなく、新旧の時間的な関係を表す「前」であるとされる。「アミ」については複数の解釈が存在しており、「網場を表す」という説や「上代日本語で海を表すミに接頭辞のアを加えた」という説が存在する。

産業

前網浜の主産業は往古より漁業。かつて前網浜には上瀬とよばれる鮫浦湾随一の大網の瀬があったとされる。また、前網浜は小魚や貝藻類が多く生息する。これは前網湾が遠浅の海で、コンブやカジメ、赤褐藻などの生息に適した地形をしており、そういった海草・藻類に小魚などが卵を産み付けることによる。小魚が多ければ根付魚や回遊魚も多く、マグロといった魚も湾内の大網で捕獲することができた。

人口

2025年(令和7年)4月30日現在の世帯数と人口は以下の通り。

施設

前網浜第一復興住宅(前網浜オソヒ沢山1番地)/前網地区振興会集会所(前網浜オソヒ沢山1番地38)/前網浜第二復興住宅(前網浜田鳥3番地197)

バス

牡鹿地区住民バス/寄磯から鮎川線

道路

宮城県道41号女川牡鹿線

小・中学校の学区

小・中学校の学区は以下の通り。

寺社・仏閣

五十鈴神社 - 集落東側の丘陵中腹の林の中に立地している神社で天照大御神を祭神とする。旧社格は無格社。例年5月に漁の安全を祈願する例祭が実施される。
三国神社 - 彦火火出見尊を祭神とする。

人物

鈴木修二 - 1886年生誕、1909年没。前網浜出身。第11代から第13代大原村長を務めた人物であり、戦中・戦後の食糧難の時代に村民の食糧確保に尽力した。政治家としての一面のほかに漁業家としても活躍し、輪採法により前網浜のアワビ資源の保護を図りながらイワシ揚繰網を導入、また節約を行って漁協への貯蓄を奨励、漁協の体質を強化して経営安定を図った。また、遠洋漁業組合を組織して遠洋大型漁船安波丸を就役させ漁業の転換を図った。

苗字

前網浜内の姓氏は往古より鈴木姓と渡辺姓が多数を占めており、1887年(明治20年)と1906年(明治39年)に実施された調査では全世帯が鈴木姓・渡辺姓、1985年(昭和60年)時点では25世帯のうち16世帯が鈴木姓、6姓が渡辺姓となっている。

石巻市

『第7回石巻地域合併協議会』石巻市、2013年2月26日。https://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/10102000/1696/09siryou.pdf。2025年2月12日閲覧。

牡鹿町

牡鹿町企画課 編『おしか30年のあゆみ : 町村合併30周年記念』牡鹿町、1985年12月。https://dl.ndl.go.jp/pid/9775825。 /牡鹿町誌編纂委員会 編『牡鹿町誌』 1巻、安住重彦、1988年11月20日。https://dl.ndl.go.jp/pid/13322407。 /牡鹿町誌編纂委員会 編『牡鹿町誌』 2巻、木村冨士夫、2005年3月1日。

震災関連

一般社団法人アーキエイド 編『浜からはじめる復興計画: 牡鹿・雄勝・長清水での試み』彰国社、2012年4月30日。 /谷謙二「小地域別にみた東日本大震災被災地における死亡者および死亡率の分布」『埼玉大学教育学部地理学研究報告』第32号、埼玉大学教育学部地理学研究室、2012年、1-26頁、doi:10.24561/00016186、ISSN 0913-2724、NAID 120006388016。

その他

東北電力40年史編集委員会 編『東北電力株式会社40年のあゆみ: 1951-1991』東北電力、1991年10月。https://dl.ndl.go.jp/pid/13098711。 /小野寺豊 編『石巻古地図散歩』石巻アーカイブ地図研究会、2017年5月。 /加藤幸治 編『津波とクジラとペンギンと 東日本大震災10年、牡鹿半島・鮎川の地域文化』社会評論社、2021年1月20日。ISBN 9784784517503。

官報

「環境省告示第53号」『官報』号外第74号、独立行政法人国立印刷局、2015年3月31日。https://search.kanpoo.jp/r/20150331g74p14-10。2025年2月23日閲覧。

出典

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