「神奈川県 川崎市 高津区 末長」について
郵便番号 | 〒213-0013 |
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住所 | 神奈川県 川崎市 高津区 末長 |
読み方 | かながわけん かわさきしたかつく すえなが |
この地域の 公式HP |
※「川崎市」は、政令指定都市です。
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地図 | |
地方公共 団体コード |
14134 |
最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「神奈川県 川崎市 高津区 末長」の読み方は「かながわけん かわさきしたかつく すえなが」です。
- 「神奈川県 川崎市 高津区 末長」の郵便番号は「〒213-0013」です。
- 「神奈川県 川崎市高津区」の地方公共団体コードは「14134」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「末長 (川崎市)」の概要 from Wikipedia
末長(すえなが)は、神奈川県川崎市高津区の地名。現行行政地名は末長1丁目から末長4丁目。住居表示実施済区域。面積は1.29 km²。
地理
高津区の中央部にあり、北西では下末吉台地に谷戸が入り込んでおり、南東が低地となっている。低地部には富士通ゼネラルの本社があり、周辺も宅地となっている。
東急田園都市線・第三京浜道路・南武線などの交通路が末長を通過し、梶が谷駅や京浜川崎インターチェンジなどが所在する。また、二ヶ領用水の分流である根方堀が台地と低地の境を流れている。
末長は北端で下作延・久本・坂戸と、東端で中原区上新城と、南西端で新作・高津区梶ケ谷と接している(特記のない町域は高津区)。地価
住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、末長1丁目13-7の地点で34万3000円/m²、末長1丁目31-7の地点で29万4000円/m²、末長2丁目33-11の地点は休止、末長4丁目22-39の地点で40万1000円/m²となっている。
古代・中世
当地からは縄文・弥生時代の遺跡が発掘されている。また、田地の地割りが条里制の遺構だと考えられているほか、延喜式の「小高駅」に関係すると思われる「小高谷戸」の地名が付いていたなど、古代からの歴史がうかがえるが、「末長」の名の初出は「小田原衆所領役帳」に、「稲毛末長」として残る。
近世
江戸時代を通して、当地は旗本の国領氏・浅井氏・松波氏による三給の地であった。「新編武蔵風土記稿」では民家71軒。農地は畑より水田が多く、村高は、正保年間の「武蔵田園簿」や「元禄郷帳」では508石あまり、「天保郷帳」では585石あまり、幕末の「旧高旧領取調帳」では587石あまりというように推移していた。水利として、二ヶ領用水からの分流である根方堀のほか、「池の谷」と呼ばれた現在の梶が谷駅あたりに溜池を設けていた。賦役として、溝口宿・品川宿の半高助郷を務めた。品川宿の助郷は負担が重く、何度も免除の嘆願を行なっているが、これが容れられることはなかった。
近代・現代
明治以降、当地は橘村の一部となり、のちに川崎市へ合併した。当地では明治頃から養蚕が行われたり、大正末期からは養蚕に変わり野菜栽培が始まるなど、農村として推移していた。しかし、1940年(昭和15年)に日本光学(現・ニコン)が水田を埋め立て当地に工場を設置し、海軍の光学兵器の生産を始めた。その結果、1945年(昭和20年)には空襲を受けることとなり、工場が壊滅したのみならず周囲にも被害が出たが、日本光学は丘陵に地下壕を作り生産を続けたという。
戦後の1955年(昭和30年)には日本光学の跡地に八欧電機(現:富士通ゼネラル)が進出し、周囲に社宅が建つなど、宅地化が進行していった。地名の由来
地名の由来ははっきりしていない。ただし、いくつかの説が提起されている。
瑞祥地名であるとする説/村域の形状から生じたとする説/丘陵地帯のある地形から生じた「セナガ」が転じたとする説/なお、源義家が後三年の役からの帰途に、当地の奇妙な石を見つけて、弓矢を納めて武運を祈り、この地の民が末永く栄えるように願ったという伝承が、「新編武蔵風土記稿」にも残っている。沿革
1091年(寛治5年)- 源義家が当地に立ち寄ったと伝わる。
1559年(永禄2年)- 「小田原衆所領役帳」に、「稲毛末長」とある。
1681年(延宝9年)- 溝口宿の助郷村となる。
1735年(享保20年) - 溝口宿と品川宿の半高助郷を命じられる。
1868年(明治元年)- 明治維新。当地は神奈川県の所属となる。
1872年(明治5年)- 学制施行。当地では明鏡寺に末長学舎が開かれる。
1874年(明治7年)- 大区小区制施行により、当地は第5大区第4小区に属する。
1889年(明治22年)- 町村制施行に伴い、橘村が成立。末長はその大字となる。
1912年(明治45年)- 村内の神社が杉山神社に合祀される。
1914年(大正3年)- 末長小学校が統合により橘小学校となり、当地からなくなる。
1937年(昭和12年)- 橘村が川崎市に編入され、当地は川崎市末長となる。
1940年(昭和15年)- 日本光学(現・ニコン)の工場が開設される。
1944年(昭和19年)- 川崎市立高津高等女学校(現・川崎市立高津高等学校)が当地に移転(1954年に転出)。
1945年(昭和20年)- 空襲を受ける。
1955年(昭和30年)- 八欧電機(現・富士通ゼネラル)の工場が設置される。
1958年(昭和33年)- 川崎市立末長小学校が開校。
1964年(昭和39年)- 杉山神社が火災で焼失(1972年再建)。
1965年(昭和40年)- 第三京浜道路が全通。当地に京浜川崎インターチェンジが設置される。
1966年(昭和41年)- 東急田園都市線の溝の口駅 - 長津田駅間が開通。当地に梶が谷駅が設置される。
1969年(昭和44年)- 一部が梶ケ谷に編入される。
1972年(昭和47年)- 川崎市が政令指定都市に移行する。当地は川崎市高津区末長となる。
1977年(昭和52年)- 高津郵便局が当地へ移転。
2013年(平成25年)/9月24日 一部が末長一丁目として分立し、住居表示が実施される。
11月18日 一部が末長二丁目として分立し、住居表示が実施される。
2014年(平成26年)10月20日 大字としての末長から末長三丁目・末長四丁目が起立し、住居表示が実施される。これをもって大字としての末長は消滅した。町域の新旧対照
末長のうち住居表示が施行された区域について、施行前の字は以下のようになっていた。
小字
住居表示施行前の末長には、姿見台・久保台・向台・富士見台・中原・大谷(おおやと)・宗田町・中の町・高の面という小字が存在した。
世帯数と人口
2024年(令和6年)6月30日現在(川崎市発表)の世帯数と人口は以下の通り。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年10月時点)。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通り。
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
鉄道
当地を通る路線は東急田園都市線と南武線の2路線がある。東急田園都市線は当地で丘陵地を通り、梶が谷駅が設置されている。南武線は当地の低地を通るが、駅は設置されていない(南方の武蔵新城駅が利用可能である)。
路線バス
当地で路線バスを運行しているのは東急バスと川崎市交通局の2事業者であるが、両者とも梶が谷駅を拠点として丘陵上を結ぶバスと、溝の口駅を拠点として平地を結ぶバスを運行しており、末長の丘陵地と平地を直接結ぶようなバスはない。
道路
国道466号第三京浜道路 京浜川崎インターチェンジ/神奈川県道14号鶴見溝ノ口線/南武沿線道路
施設
高津郵便局(ゆうちょ銀行高津店を併設)/富士通ゼネラル 本社/杉山神社/神奈川県警察高津警察署末長交番/JAセレサ川崎 梶ヶ谷支店/川崎信用金庫 梶ヶ谷支店/川崎フロンターレ 本社
教育施設
川崎市立末長小学校/川崎市立東高津中学校/南武朝鮮初級学校/末長こども文化センター
日本郵便
郵便番号 : 213-0013(集配局 : 高津郵便局)
警察
町内の警察の管轄区域は以下の通り。
参考文献
『川崎の町名』日本地名研究所 編、川崎市、1995年。 /『川崎地名辞典(上)』日本地名研究所 編、川崎市、2004年。 /『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』角川書店、1984年。 /「稲毛領 末長村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ62橘樹郡ノ5、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763983/89。
関連項目
末長(曖昧さ回避)
関連ページ
【参考】
町域名に「末長」が含まれている住所一覧
- 同じ町域内で複数の郵便番号がある場合、別々にリスト表示しています。