「山梨県 上野原市 棡原」について
郵便番号 | 〒409-0111 |
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住所 | 山梨県 上野原市 棡原 |
読み方 | やまなしけん うえのはらし ゆずりはら |
この地域の 公式HP |
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地図 | |
地方公共 団体コード |
19212 |
最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「山梨県 上野原市 棡原」の読み方は「やまなしけん うえのはらし ゆずりはら」です。
- 「山梨県 上野原市 棡原」の郵便番号は「〒409-0111」です。
- 「山梨県 上野原市」の地方公共団体コードは「19212」です。
「棡原」の概要 from Wikipedia
棡原(ゆずりはら)は、山梨県の最東端に位置する上野原市の地名。鶴川の沿川の古代から所在する棡原は第二次世界大戦後の一時期まで山間部の雑穀や菜食中心の自給的な食生活で、肉食は少なかった。これにより旧棡原村は、昭和時代には「長寿村」として知られ、往時には山村集落としてにぎわった。
沿革
1889年(明治22年)7月1日 - 町村制施行に伴い棡原村が成立。
1955年(昭和30年)4月1日 - 上野原町、西原村、島田村、大鶴村、巌村、甲東村及び大目村と合併して、改めて上野原町が発足する。同町大字棡原となる。
2005年(平成17年)2月13日 - 上野原町が、上野原市となる。同市棡原となる。河川
鶴川
行政施設
上野原市役所棡原出張所/上野原市消防署棡原出張所/上野原警察署棡原警察官駐在所/棡原郵便局(08092) - 一時閉鎖中/上野原市立棡原小学校 - 2012年(平成24年)3月31日閉校、上野原市立上野原小学校に統合/上野原市立棡原中学校 - 2008年(平成20年)3月31日閉校、上野原市立上野原中学校に統合
隣接地域
小菅村/上野原市西原地区/上野原市大鶴地区
名勝、旧跡
滝/鶴川沿いに所在する。
寺院/神社/軍刀利神社(ぐんだりじんじゃ) - 参道は、古代の武蔵(現檜原村)へ抜ける三国峠道であり、現在は熊倉山、三国山、生藤山へのハイキング登山口。近郊の施設
小菅の湯
歴史
山と川に恵まれた棡原では、縄文時代早期の遺跡が多く発掘されている。出土品から狩猟生活を営んでいたことから、古代人にとっては豊かな食料を得られた理想郷だった。
旧棡原村の入り口にある記念碑には、次のように書かれている。「古来、村人は健康で人情に篤く、粗衣粗食、耕雲種月の日々を楽しんできた…(中略)…女性は多産且つ母乳豊富、老人は皆天寿を全うしまさに、身士不二(しんどふじ)の桃源郷である」。その関係か、軍刀利神社の第一鳥居の脇には、富士信仰修験道の一形態で、ひときわ大きな浅間大菩薩のな石碑が建っている。古くから村山の浅間(せんげん)神社として修験者が集まり信仰されたよう。江戸時代
江戸時代1624年(寛永元年)には、鶴川の沿川に所在する西原(さいはら)を「才ヶ原」・棡原(ゆずりはら)を「譲原」と呼ばれており、子孫繁栄していた。しかしながら、江戸時代はたびたび全国規模で飢饉が発生し、甲府郡内地域でも多くの被害がでていた。その飢饉対策として、江戸後期の1784年天明4年、代官中井清太夫が種芋を九一色郷から取り寄せて広めたジャガイモを育て、小粒いもを皮のついたまま甘辛く煮付けたせいだのたまじという郷土料理にして食べてきた。
昭和の学術調査
1950年ころから35年間に渡り、棡原で毎年調査を続けてきた岩手大学教育学部名誉教授・鷹觜テル(1921年-2000年)は、棡原は全国でも珍しく皆記憶力が優れ応答は早く確かで、老人性痴呆の人がいない。動脈硬化が少なく、脳卒中や心筋梗塞になる頻度は極めて低いと報告している 。
1968年(昭和43年)東北大学医学部衛生学名誉教授・近藤正二と古守豊甫は、棡原は全国でも珍しい夫婦そろった長寿村であることを報告した。両博士は、過去30年以上にわたって全国990の町村を実地調査し、長生きの研究を集大成した「ふるさと長寿館」に建つ行幸啓碑
1996年(平成8年)4月25日、今上天皇・美智子皇后が行幸の折に「ふるさと長寿館」を訪問した。
バス路線の開通
1954年(昭和29年)にかつて陸の孤島であった棡原にも念願のバス交通が開通した。
「逆さ仏」
1970年ころから長寿の村と全国に知りわたった棡原では、民宿が盛んになり現金収入が多くなって、高たんぱく・高脂肪・高カロリーと村の食生活・生活様式の急変を受け、健康な70代に対して40代〜50代の中高年層では成人病などが増加し、早死になることが重なり、親が子の葬式を出す「逆さ仏」で、「長寿村・短命化の教訓」のモデルとなった。
大月駅まで運転開始
1986年(昭和61年)11月1日 JR東日本は、快速電車の運転区間は、高尾までだったのを、大月駅まで運転開始されたことなどを受け、下流の桂川流域には団地が造成されるなどの変化があった。都市一極集中政策が続いていたこともあって、住民が人や商店の密集した上野原市の市街地に転居してしまい、住民の高齢化が進んだ。1991年度には、児童数128名、生徒数65名だった
バス路線の大幅減便
2006年 当地も過疎化を免れず、唯一の公共交通機関である富士急バスの路線バスも採算悪化などから大幅減便され、学童の送迎にスクールバスが運行されるなど生活に不便が生じている。
道路施設
トンネル/甲武トンネル/棡原トンネル/道路/上野原あきる野線 - 甲武トンネル見晴台へ経て、笹尾根を貫いて東京都檜原街道に通ずる。
山梨県道18号上野原丹波山線 - 上野原あきる野線から分岐する。
棡原藤野線 - 上野原あきる野線から分岐する。
市道大垣外(おおがいと)用竹(ようだけ)線鉄道
村内には通っていない。中央本線上野原駅からのアクセスとなる。
穀菜食の村
棡原は山間地にあり、斜面の畑ばかり。このため穀物とイモ類、豆類、野菜の食事が長寿を生んだという。自米や肉はほとんど食べない。このような麦を中心に据えた穀菜食で、魚肉卵、牛乳、小魚、海藻類控えめ文化で長寿者を輩出した棡原。1938年(昭和13年)に古守豊甫(こもりとよすけ)は/棡原小学校の代用教員、後に医師として甲府市から棡原に通い、棡原は全国でも珍しく、村人に夫婦揃って長寿者が多いことを発見したの。この功績により1976年(昭和51年)に日本医師会最高優功賞を受賞された。
「長寿村棡原」の碑
受賞を記念する「長寿村棡原」の碑は、棡原大橋のたもとの小さな広場に建つ。
脚注
報道関係資料/学術論文/上野原市資料/環境庁・農林水産省関係資料/公益社団法人資料/協会と神社庁、協同組合資料
外部リンク
長寿の村 棡原を紹介するための公立ホームページ全3頁 - 上野原市観光協会公式サイト/棡原小学校は棡原のお子さんのための公立小中学校 - 上野原市立棡原小学校公式サイト 作詞 秋山春時、作曲 保坂梅芳の校歌に棡原の想いを込めた”ふるさとの遠い歴史を ゆずり葉のゆずり伝えて"と歌詞がある。
棡原中学校は棡原のお子さんのための公立中学校 - 上野原市立棡原中学校公式サイト/上野原市立ふるさと長寿館 - 公益社団法人やまなし観光推進機構公式サイト/ふるさと長寿館 - Just another WordPress site参考文献
角川日本地名大辞典 19 山梨県