「神奈川県 鎌倉市 玉縄」について
郵便番号 | 〒247-0071 |
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住所 | 神奈川県 鎌倉市 玉縄 |
読み方 | かながわけん かまくらし たまなわ |
この地域の 公式HP |
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地図 | |
地方公共 団体コード |
14204 |
最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「神奈川県 鎌倉市 玉縄」の読み方は「かながわけん かまくらし たまなわ」です。
- 「神奈川県 鎌倉市 玉縄」の郵便番号は「〒247-0071」です。
- 「神奈川県 鎌倉市」の地方公共団体コードは「14204」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「玉縄」の概要 from Wikipedia
玉縄(たまなわ)は神奈川県鎌倉市玉縄地域、および同地域に含まれる地名。現行行政地名は玉縄一丁目から玉縄五丁目。住居表示未実施区域。
地理・歴史
地名の由来は不詳。天養2年(1145年)2月3日の官宣旨案に大庭御厨の四至として「東玉縄御庄堺俣野川」とあり、平安時代末期に同名の荘園があったと確認されている。玉縄荘の位置は、現在の片瀬川を境にして大庭御厨の東側、現在の玉縄付近を中心とした地域と考えられている。
応永3年(1396年)に小山若犬丸の乱に際し、相州玉縄の住人である瀬河兵衛宗泰という人物が活躍した(『鎌倉公方九代記』)。
永正9年(1512年)、北条早雲により現在の城廻に玉縄城が築城される。当初は三浦半島の三浦氏を攻略するために建築されたが、堅牢な城であり、永正15年(1518年)の上杉朝興、大永6年(1526年)の里見実堯、永禄4年(1561年)の上杉謙信の攻撃を撃退している。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で徳川家康軍に包囲され、籠城の末に開城した。
江戸時代には玉縄藩として本多正信が領主となり、その後大河内松平家が領有し、玉縄城跡の麓に玉縄陣屋が置かれるが、3代目の正久の時に上総国大多喜藩へ転封となり、天領とされ玉縄陣屋は廃城となった。
明治22年(1889年)4月の町村制施行により、玉縄村が誕生(現玉縄地域に当たる)。昭和8年(1933年)4月2日、大船町へ編入され、昭和23年に鎌倉市へ編入された。
昭和60年(1985年)の住居表示により、それまで岡本、関谷、城廻のそれぞれ一部分であった地域が、玉縄一-五丁目となった(玉縄城は含まれない)。地価
住宅地の地価は、2022年(令和4年)7月1日の公示地価によれば、玉縄5丁目28番6の地点で17万2000円/m2となっている。
世帯数と人口
2023年(令和5年)9月1日現在(鎌倉市発表)の世帯数と人口は以下の通り。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年7月時点)。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通り。
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
寺社・旧跡
玉泉寺/金剛寺/岡本神社
学校
栄光学園中学校・高等学校
日本郵便
郵便番号 : 247-0071(集配局 : 大船郵便局)。
関連項目
玉縄 (曖昧さ回避)
参考文献
奥富敬之 『鎌倉史跡事典』 新人物往来社、1997年。ISBN 978-4404024527。
鎌倉市教育委員会 1996年(平成8年)~ 『鎌倉の埋蔵文化財シリーズ」』鎌倉市/鎌倉市教育委員会 1996「戦国時代~近世の鎌倉」『鎌倉の埋蔵文化財 1 昭和54年~平成7年分発掘調査選集』p.14/鎌倉市教育委員会 2013「1.玉縄城特集」『鎌倉の埋蔵文化財16-平成23年度発掘調査概要《玉縄城築城500年記念特集号》-』鎌倉市 pp.1-7関連文献
河井恒久 等編 編「巻之三 玉縄村」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、79頁。NDLJP:952770/54。
外部リンク
マイタウン玉縄