郵便番号 904-0001
住所 沖縄県 沖縄市 越来
読み方 おきなわけん おきなわし ごえく
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地方公共
団体コード
47211
最寄り駅
(基準:地域中心部)
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  • 沖縄県 沖縄市 越来」の読み方は「おきなわけん おきなわし ごえく」です。
  • 沖縄県 沖縄市 越来」の郵便番号は「904-0001」です。
  • 沖縄県 沖縄市」の地方公共団体コードは「47211」です。
補足事項
■f03: 丁目を有する町域。
郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。

「越来」の概要 from Wikipedia

…(2,706文字)

越来(ごえく、沖縄語:ぐぃいく)は琉球(沖縄県)の地名や苗字の一つ。

出自

沖縄本島中部、安慶田川流域に位置する地域。地名の由来については、古老の伝えによれば、古来この地がお主加那志前の通い道であり、按司の供を伴って村を越えて来たことに因むとされる。
『明実録』太祖実録には、洪武24年(1391年)条に中山王の使者として嵬谷結致の名が、宣徳2年(1427年)条には魏古渥制の名が見え、いずれも越来按司(ごいく掟)に比定されている。当地は古くから中頭方の中軸をなす要地であり、同方の東側諸間切を差配する拠点であった。地理的と政治的な重要性から、有力な王子や按司が越来城に封じられ城主となり、明国への進貢に際しても越来按司が遣明使として重要な役割を果たしたとされる。
間切としての起源は明確ではないが、史料上では宣徳10年(1435年)に尚泰久が越来間切の按司地頭(越来王子)に任じられたことが記されており、15世紀前半にはその存在が確認されている。
成化13年(1477年)に王位を尚真へ譲った尚宣威は当地に隠遁し、同年8月に没したと伝えられ、その墓とされる古墳が現在も県立中部工業高等学校西側に残る。同年、尚宣威の子である越来王子朝理が越来按司となり、以後この地は尚宣威王ゆかりの一族によって支配された。
『おもろさうし』巻二の『うらおそいおもろ』の節には「こゑくもりくすく」、「こゑくあやみや(越来の綾庭)」「こゑくくせみや(越来の奇しき庭)」「こゑく世のぬし」などの詞章が見え、神事における重要な拠点でもあったことがうかがえる。また、尚泰久や尚宣威など、後に琉球国王となる人物が「越来王子」として封ぜられており、古琉球期において政治と宗教の両面で要衝とされた。

地理

越来間切は、沖縄本島中部の東側に位置し、西は北谷間切、北は読谷山間切、東は美里間切、南は中城間切と接していた。間切内には比謝川が胡屋の丘陵地帯から北へと流れ、中頭方東海道(旧宿道)がほぼ南北に通っていた。
越来城は越来間切内に所在したグスクで、同地名の由来ともなったとされる。
琉球国旧記と球陽によると、越来郡や越来県とも書く。
正保期の国絵図によれば、越来間切の高は4,381石余を記録しており、田畑を中心とする農業地帯であった。間切番所は越来村(かつての南風原村)に設置されていた。
康熙5年(1666年)の行政再編では、越来間切のうち15か村が分離されて美里間切が新設された。以後も中城・北谷間切との間で境界の変更が行われた。
越来間切は「絵図郷村帳」においては21ヶ村を含み、うち赤崎村は1736年時点で既に存在していなかったとされる。記録されている21ヶ村は以下の通りである:後に村の統廃合や改称が進み、近代にはこれらの一部が消滅または別の名称に改められている。
「琉球国由来記」などによれば、後に越来間切の村数は10ヶ村に整理された。以下の通り:その後、河陽村は宇久田村(うくた)に改称されたと考えられており、この10ヶ村をもって近代に至った。
『由来記』によれば、大工廻村の勢頭親部という人物が、初めて木炭・鍛冶炭を焼き、これを国王に献上した功により田地を与えられたと伝わる。木炭の製造がいつ頃から行われていたかは不明であるが、宇久田村および大工廻村は古くから木炭の主産地として知られていた。
道光24年(1844年)には越来間切全体が著しく疲弊していたため、王府は所帯方吟味役を派遣し、間切の再興を図った(『球陽』尚育王十年条)。
越来間切では「地割」が実施されなかったこともあり、首里や那覇の士族が土地を求めて流入し、多数の屋取(士族の分家屋敷)を形成した。
また、村々には御嶽や森13か所、御殿9か所、ノロ火の神3か所といった多くの拝所があり、3人のノロがそれぞれの村の祭祀を管掌していた。
明治12年(1879年)の沖縄県設置以降は沖縄県に、明治29年(1896年)には中頭郡に属し、明治41年(1908年)の島嶼町村制施行により自治体としての越来村が発足した。
現在の沖縄市において、「越来」は越来一〜三丁目や沖縄市立越来中学校などの地名や施設名として継続されている。また、越来村は現在の沖縄市越来・住吉・城前町・八重島・美里・嘉間良・嘉良川などの区域に相当する。

人名

地名にちなみ「越来」を姓とする家系が生じ、異形の護得久(ごえく)もまた同源とされる。
琉球処分前後、越来家の一部は清国に亡命し、いわゆる脱清人となった。これらの人々は中国大陸や東南アジアなどに移住し、その過程で姓を現地の音に近い字に改めたとされる。越来(ぐぃいく)の発音に近いことから、閩東語(福州語)および広東語において発音が類似するや「国」(くゎく・くぉく)の字を用いた例があるという。
越来朝村/越来朝福/越来朝誠/越来賢雄(鬼大城)/越来造船:平安座島(うるま市与那城平安座)を拠点とする越来造船があり、数代にわたり伝統的な木造船建造技術を継承している。マーラン船(山原船)やサバニなど、沖縄固有の木造船を建造しており、2014年には「マーラン船等復元活用事業」により、戦後初となるマーラン船の復元を行った。同船は2015年に実際に航海し、現在はうるま市立海の文化資料館で公開されている。3代目の越來治喜は、2005年にうるま市無形民俗文化財(マーラン船建造技術保持者)に指定されている。
護得久御殿(越来の異形とされる苗字で、護得久御殿は琉球王国第二尚氏王朝の第五代尚元王の長男・尚康伯(久米具志川王子朝通)を元祖とする琉球王族の家系。王国末期には越来間切の按司地頭を務めた。十四世朝維は衆議院議員となり、尚泰王の長女・真鶴金津嘉山翁主と結婚した。)

参考文献

高良倉吉(琉球大学)編集委員代表 編『日本歴史地名大系』平凡社、2002年12月10日。ISBN 9784582490480。 /地名編纂委員会 編『角川日本地名大辞典. 47 (沖縄県)』角川書店、1986年7月。ISBN 9784040014708。 /沖縄県氏姓家系大辞典 編纂委員会『沖縄県氏姓家系大辞典』角川書店、1992年。ISBN 978-4040024707。 /宮里朝光(監修)、那覇出版社(編集)『沖縄門中大事典』那覇出版社、1998年。ISBN 978-4890951017。 /比嘉朝進『士族門中家譜』球陽出版、2005年。ISBN 978-4990245702。

関連項目

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関連ページ