郵便番号 497-0031
住所 愛知県 海部郡 蟹江町 須成
読み方 あいちけん あまぐんかにえちょう すなり
この地域の
公式HP
地図

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地方公共
団体コード
23425
最寄り駅
(基準:地域中心部)
  • 蟹江駅(JR在来線)
     …距離:767m(徒歩9分)
  • 近鉄蟹江駅(近畿日本鉄道)
     …距離:2.1km(徒歩25分)
  • 戸田(愛知県)駅(近畿日本鉄道)
     …距離:2.7km(徒歩34分)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • 蟹江駅(JR)《駅(JR在来線)》
  • 蟹江須成郵便局《郵便局》
  • 冨吉建速神社・八剣社《神社》
  • 蟹江町立須西小学校《小学校》
  • 龍照院《全国巡礼名所(尾張三十三観音)》
  • ディスカウントドラッグコスモス蟹江今店《ドラッグストア》
  • 蟹江町観光交流センター《その他文化施設》
  • 愛知県 海部郡 蟹江町 須成」の読み方は「あいちけん あまぐんかにえちょう すなり」です。
  • 愛知県 海部郡 蟹江町 須成」の郵便番号は「497-0031」です。
  • 愛知県 海部郡蟹江町」の地方公共団体コードは「23425」です。
補足事項
■f02: 小字毎に番地が起番されている町域。

「須成」の概要 from Wikipedia

…(3,089文字)

須成(すなり)は、愛知県海部郡蟹江町の地名。

地理

蟹江川の下流域にある。蟹江町には海抜ゼロメートル地帯が広がっており、須成の北端部の標高はマイナス0.66メートル。

河川・池沼

蟹江川 - 日光川水系の二級河川。小学校にプールが普及するまでは子どもは蟹江川で泳いでいた。
御葭橋(みよしばし)は須成祭の2日間のみ可動する跳開橋。

交通

東名阪自動車道蟹江インターチェンジ/愛知県道40号名古屋蟹江弥富線/愛知県道103号境政成新田蟹江線/愛知県道139号須成七宝稲沢線

字一覧

市場(いちば)/井ノ蕪(いのかぶ)/大西(おおにし)/奥ノ坊(おくのぼう)/上惣作(かみそうさく)/川西上(かわにしかみ)/川西下(かわにししも)/北土深毛(きたどぶけ)/操込新田(くりこししんでん)/五右エ渕(ごえぶち)/五明(ごみょう)/佐屋(さや)/下惣作(しもそうさく)/下之割北(しものわりきた)/下之割南(しものわりみなみ)/高畑(たかばた)/敵目(てきめ)/中大鳥(なかおおどり)/長田(ながた)/西市之坪(にしいちのつぼ)/西大鳥(にしおおどり)/西河原(にしかわはら)/西五本田(にしごほんだ)/西須成前(にしすなりまえ)/西中新開(にしなかしんかい)/西矢倉下(にしやぐらした)/西輪庄(にしわしよう)/禰宜新開(ねぎしんかい)/乗田(のりた)/東市之坪(ひがしいちのつぼ)/東大鳥(ひがしおおどり)/東河原(ひがしかわはら)/東五本田(ひがしごほんだ)/東須成前(ひがしすなりまえ)/東中新開南ノ切(ひがしなかしんかいみなみのき)/東矢倉下(ひがしやぐらした)/古苗代(ふるなえしろ)/松下(まつした)/南五本田(みなみごほんだ)/門屋敷上(もんやしきかみ)/門屋敷下(もんやしきしも)/山方(やまかた)/与源太(よげんた)/六白(ろくばく)/脇之田(わきのた)

地名の由来

『尾張国地名考』には地名の由来として「正字沙成(すななり)なるべし」とある。当地は木曽川下流のデルタ地帯であり、開発時には砂や泥の多い土地であったために「砂成」(すななり)と呼ばれ、「須成」の表記となったという。

近世

常楽寺は七堂伽藍を有する大寺院だったが、天正12年(1584年)に羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた蟹江城合戦の際に兵火に遭い、龍照院などわずかな建物が残るのみとなった。江戸時代には尾張国海東郡に須成村があり、尾張藩領で佐屋代官所の支配を受けていた。江戸時代には蟹江川による漁獲の多い集落だった。
寛文年間(1661年~1673年)に編纂された『寛文郷帳』による村高は1373石余であり、同時期に尾張藩によって編纂された『寛文村々覚書』には家数158・人数776とある。寛政年間(1789年~1801年)以後に尾張藩士の樋口好古によって編纂された『尾張徇行記』には戸数240・人数1044とある。天保年間(1831年~1845年)に編纂された『天保郷帳』による村高は1373石余。

近代

明治時代初期に編纂された『旧高旧領』による村高は2141石余。1889年(明治22年)、町村制の施行によって海東郡須成村が発足した。1891年(明治24年)の戸数は351、人口は1451だったが、同年10月28日に発生した濃尾地震では住家139が全壊、住家62が半壊、死者2という大きな被害を受けた。1906年(明治39年)、須成村など3村が合併して蟹江町が発足し、大字須成が設置された。

現代

太平洋戦争以前には農業中心の集落だったが、戦後には第二次産業への転換が進んだ。戦前の1938年(昭和13年)には近鉄名古屋線が開業していたが、戦後には須成の東部に住宅団地などが造成され、名古屋市のベッドタウン化が進んだ。1969年(昭和44年)の世帯数は1157、人口は4513。
1980年(昭和55年)、須成の一部が須成西・今西上となった。

施設

蟹江町観光交流センター祭人 - 須成祭に関する展示などがある観光案内所。2018年(平成30年)5月26日オープン。
蟹江須成郵便局/須成公民館/須成保育所/山田酒造 - 日本酒メーカー。1871年(明治4年)創業。蟹江川沿いでは稲作や酒造りが盛んであり、今日の蟹江町では山田酒造と甘強酒造の2軒が営業中。銘柄は吟醸酒の「醉泉」や特別純米酒の「最愛」などであり、BABYMETALメンバーの菊地最愛との関連でファンの訪問が増えている。

祭礼

8月第1土曜・日曜、冨吉建速神社・八剱社の祭礼として、「車楽船行事」と「神葭流し」から成る須成祭が開催される。2012年(平成24年)には須成祭が重要無形民俗文化財に指定され、2016年(平成28年)には「山・鉾・屋台行事」の一部としてユネスコの無形文化遺産に登録された。
「車楽船行事」では8月第1土曜に宵祭、第1日曜に朝祭が行われ、宵祭では提灯をともした巻藁舟が、朝祭では神の人形を乗せた車楽船が蟹江川を上る。蟹江川に架かる跳開橋である御葭橋(みよしばし)は、車楽船が通る2日間のみ跳ね上げられる。「神葭流し」では蟹江川の河岸に茂るヨシを刈り、神体として冨吉建速神社に祀った後、災厄をヨシに託して蟹江川に流す。ヨシを燃やすことで神葭流しは終了する。

名所・旧跡

冨吉建速神社・八剱社 - 旧社格は郷社。二社を総称して須成神社と呼ぶ場合もある。天平5年(733年)に行基によって創建され、寿永元年(1182年)に源義仲によって再興されたと伝わる。天文17年(1548年)には織田信長が社殿を修復したと伝わる。冨吉建速神社本殿、八劔社本殿が重要文化財。
御嶽神社/龍照院 - 真言宗智山派の寺院。冨吉建速神社・八剱社と同様に天平5年(733年)に行基によって創建され、寿永元年(1182年)に源義仲によって再興されたと伝わる。尾張三十三観音霊場13番札所。木造十一面観音立像が重要文化財。大日如来坐像、鰐口が蟹江町指定文化財。須成龍照院のイチョウが蟹江町天然記念物。
善敬寺 - 真宗大谷派の寺院。かつては本證寺の末寺だった。
松秀寺 - 曹洞宗の寺院。蟹江町では唯一の禅宗の寺。2003年(平成15年)に須成西7丁目に移転するまでは須成字市場にあった。

出身者

佐野七五三之助 - 新撰組隊士。須成村の神職の子として生まれた。新撰組内部の思想の違いから御陵衛士への合流を計り、慶応3年(1867年)に切腹した。
神田鐳蔵 - 実業家。須成村市場で紅葉屋という屋号の酒蔵の子として生まれた。証券業で巨額の利益を得て神田銀行を設立した。
加藤高明 - 外交官・政治家。内閣総理大臣。3歳頃から11歳頃まで母の故郷である須成村で育ち、蟹江川で泳いで魚を捕まえるなどして遊んだ。

参考文献

蟹江町史編さん委員会 編『蟹江町史』蟹江町、1973年。NDLJP:9536462。 /飯田汲事『明治24年(1891年)10月28日濃尾地震の震害と震度分布』愛知県防災会議地震部会、1979年。 /愛知県社会科教育研究会尾張部会 編『尾張の文化財とくらし』愛知県社会科教育研究会尾張部会、1988年。 /「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年3月8日。ISBN 4-04-001230-5。 /須成文化財保護部『須成の歴史と文化』須成文化財保護委員会、1994年。

外部リンク

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関連ページ

【参考】
町域名に「須成」が含まれている住所一覧

検索ヒット数:3件
都道府県 市区町村 町域.
23愛知県 なごやしみなとく名古屋市港区 すなりちょう須成
23愛知県 あまぐんかにえちょう海部郡蟹江町 すなり須成
23愛知県 あまぐんかにえちょう海部郡蟹江町 すなりにし須成西
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