郵便番号 252-0321
住所 神奈川県 相模原市 南区 相模台
読み方 かながわけん さがみはらしみなみく さがみだい
この地域の
公式HP
※「相模原市」は、政令指定都市です。
地図

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地方公共
団体コード
14153
最寄り駅
(基準:地域中心部)
  • 小田急相模原駅(小田急電鉄)
     …距離:2.1km(徒歩26分)
  • 下溝駅(JR在来線)
     …距離:2.7km(徒歩33分)
  • 相武台前駅(小田急電鉄)
     …距離:3.1km(徒歩39分)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • 南消防署麻溝台分署《消防分署、出張所》
  • 相模書房《書店》
  • 誠心第二幼稚園《幼稚園》
  • 相模原市立桜台小学校《小学校》
  • カナコー天文台《天文台》
  • 相模原市立相模台中学校《中学校》
  • クリエイトエス・ディー相模原麻溝台店《ドラッグストア》
  • 相模台公園テニス場《テニスコート》
  • トップ相模台店《スーパーマーケット》
  • ユーコープ麻溝店《スーパーマーケット》
  • エネオスDr.Driveセルフ新磯野店《ガソリンスタンド》
  • 神奈川県 相模原市 南区 相模台」の読み方は「かながわけん さがみはらしみなみく さがみだい」です。
  • 神奈川県 相模原市 南区 相模台」の郵便番号は「252-0321」です。
  • 神奈川県 相模原市南区」の地方公共団体コードは「14153」です。
補足事項
■f03: 丁目を有する町域。
郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。

「相模台」の概要 from Wikipedia

…(4,257文字)

相模台(さがみだい)は、神奈川県相模原市南区の町名および同市の地区名であり、座間市相模が丘が住居表示を実施する前の大字名。現行行政地名は相模台一丁目から相模台七丁目。住居表示実施済区域。

概要

相模原市の町名、座間市相模が丘が住居表示を実施する前の大字名。ともに小田急小田原線小田急相模原駅の近隣を範囲とする地名。相模原市の地区名としてはさらに広く、南区の中央部を占める。

歴史

当区域は元々「相模野」と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。
江戸末期の嘉永6年(1853年)にこの入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、現在の小田急相模原駅付近は高座郡座間宿村字北広野、新田宿村飛び地字見分塚、上鶴間村、新戸村、磯部村の各村が境界を接する区域となった。
それらの村はやがて1889年(明治22年)の明治の大合併により同郡座間村(大字座間字北広野、大字新田宿飛び地字見分塚)、大野村(大字上鶴間)、新磯村(大字新戸、大字磯部)となった。
この地の将来性に着目した高座郡綾瀬村蓼川の平出富士太郎という篤志家が、1877年(明治10年)頃に私財を投じて、現・小田急相模原駅の周りと駅の北側一帯のこの地、約二十町歩を購入し、当時の座間宿村の人々に開墾を勧め呼びかけた。その後、その熱い呼びかけに応えて座間河原宿の鈴木孫七以下数名が開墾に加わった。まだ一面の萱(かや)が生い茂る不毛の原野で秣場であった「芝原・しばあら」と呼ばれた相模台地区に、初めて人の手が入ったのは1877年(明治10年)であり、原野の開墾が進められた。
元々この地には府中みち(現・行幸道路)という、厚木から当時の武蔵の国、国府が置かれていた府中に通じる古街道が通っており、開墾地もこの街道に沿って耕された。鈴木孫七以下数名は座間河原宿から毎日鍬を担ぎ弁当持参のわらじ履きで通っていた。そのうち1880年(明治13年)新開の中にようやく一戸の家を建てて全員で住み着いた。この時からこの地は中和田新開または蓼川新開と呼ばれるようになった。
然るに農政上、明治時代になってから畑作地として開墾された土地を「新開」と呼び、すでに江戸時代に開墾された畑作地は「新田」と言って区別した。
しかしながら各村の境界域ということもあり、市街地を形成することは困難を極めたが、その後、1894年(明治27年)になって開拓者たちは次々と府中みち(現・相模原市南区南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加った。その人中の内、中和田新開の座間分に最初に住み着いたのは座間上宿出身の耕作者たった一軒だけであった。
1919年(大正8年)には14戸にまでなって府中みちと辰街道の交差する座間分を含めた未開地のなかに小さな集落が出来上がり、これが現在の相模台地区発展の「原点」となった。
大きな転換点となったのは、1938年(昭和13年)の臨時東京第三陸軍病院の進出。新磯村大字磯部字大野に同病院が開設されるのに合わせて、小田原急行鐵道が、同年3月1日に付近を通過していた小田原線上の座間町と大野村との境界付近に病院前驛を開業し、後に同駅と同病院を結ぶ街路周辺が市街化する契機となった。
そののち戦時中の昭和18年(1943年)に座間分の飛び地である当時の高座郡相模原町大字新田宿飛び地字見分塚(現・座間市相模が丘五丁目)に本格的に人が住み着いた。大部分が東京市内から移り住んだ人たち。皆、昭和十八年にこの地に移住してきたので「十八の会(とわのかい)」という親睦会を作った。
1941年(昭和16年)4月29日、大野村、新磯村、座間町は上溝町、麻溝村ほか3村と合併して高座郡相模原町となったが、戦後の1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町が分離独立し、残りの区域で1954年(昭和29年)11月20日に市制施行して相模原市が発足した。
終戦後、臨時東京第三陸軍病院は国立相模原病院となり、旧新磯村と旧麻溝村にまたがって広がっていた旧日本軍陸軍士官学校の相武台練兵場(軍事演習場)が払下げられて引揚者の入植による開墾が行われた。1951年(昭和26年)、相模原町はこの区域に大字新磯野、大字麻溝台の2つの大字を起立している。1950年代に入り、小田急相模原駅周辺および同駅と国立相模原病院間の街路を中心とした区域で市街化が始まり、それは1960年代以降も急速に進行した。その流れの中で高座郡座間町は、終戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間、大字新田宿の小字飛び地である現区域での市街化の進行とともに救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年(昭和34年)4月20日に、小田急相模原駅に近い座間町北部の大きな区域を占める大字座間字北広野・字中広野・字南広野・字元広野一部・字元広野久保一部(座間街道以北)、大字新田宿飛び地字見分塚・同飛び地字新畑・大字四ツ谷飛び地字二ツ塚の座間街道以北これらの各大字小字を統合し、高座郡座間町大字相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。
一方、相模原市では当該区域が合併以前の旧村の境界域に当たり、それを引き継いだ各分室(大野南、新磯、麻溝)の管轄区域に分属していた。この区域の市街化の進行に合わせて、相模原市は1957年(昭和32年)8月1日に国立病院前分室(「国病前分室」と略する)と言う相模原市役所の出先機関を新設して小田急相模原駅付近から大字新磯野、大字麻溝台の各東半部を管轄区域とし、1959年(昭和34年)に相模台分室と改称した(1970年・昭和45年に相模台出張所と改称)。同年1959年(昭和34年)5月1日に相模原市立相模台小学校が開校。以後、相模原市は行政上、同分室(出張所)管内を「相模台地区」等と呼んでいる。
1963年(昭和38年)には、神奈川県立相原高等学校の化学工業科が分離独立する形で、のちのち全国高校ラグビー大会(花園)を1993年と1994年に2連覇し「台工」の愛称で親しまれた神奈川県立相模台工業高等学校が開校し、1966年(昭和41年)には国立相模原病院の南に隣接して日本住宅公団相模台団地が建設され入居が開始、翌1967年(昭和42年)4月1日に相模原市立相模台中学校が開校されるなどされるなど、相模原市側で「相模台」の地名が多く用いられるようになった。相模原市は1969年(昭和44年)7月1日に小田急相模原駅周辺で住居表示を実施した際に大字新磯野および大字磯部の各一部から相模台一丁目〜相模台四丁目を編成し、翌1970年(昭和45年)7月1日には相模台五丁目〜相模台七丁目および相模台団地の各町が編成されたが、高座郡座間町大字相模台と相模原市相模台とが隣接して併存することとなった。
本来、行政上、大字名または町名として「相模台」を先に施行していたのは高座郡座間町であったが、1971年(昭和46年)11月1日市制施行した座間市が、相模原市に遅れて1981年(昭和56年)6月1日に大字相模台地区で住居表示を実施した際、先行した相模原市側の相模台一丁目〜七丁目との同名回避のために相模が丘一丁目〜相模が丘六丁目とした。

地理

以下の節では、相模原市南区相模台一丁目〜相模台七丁目の区域について述べる。
相模原市南区のほぼ中央に位置し、小田急小田原線の小田急相模原駅を最寄とする。区域は同駅と国立病院機構相模原病院とを結ぶ街路と神奈川県道507号相武台相模原線(「村富線」と呼ばれる)にはさまれた部分を領域とする。敗戦前は陸軍士官学校演習地の一部であったが、戦後に開放されて当初は農地として開墾が進められた。しかし、小田急相模原駅に近いことから、東部から順次市街化が進行し、1980年代までにほぼ全域が宅地化している。ただし、この宅地化は全域にわたって計画的に行われたものではなく、各区画で無計画に虫食い状に進められた(スプロール化)。元の開墾農地の地割を反映して街路網自体は直線的だが全体の統一性はなく、袋小路も多く存在する。
小田急相模原駅と相模原病院の間の街路は隣接する南台五丁目・六丁目との境界をなし、街路に沿って商店街が形成されている。小田急相模原駅前および東側、さらに座間市側の商店街と合わせて、地域の商業中心を構成している。

地価

住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、相模台2-17-8の地点で21万8000円/m2、相模台3-10-10の地点で18万9000円/m2となっている。

世帯数と人口

2020年(令和2年)10月1日現在(国勢調査)の世帯数と人口(総務省調べ)は以下の通り。

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2018年2月時点)

事業所

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通り。

事業者数の変遷

経済センサスによる事業所数の推移。

従業員数の変遷

経済センサスによる従業員数の推移。

鉄道

区域内を通過する鉄道はない。近くを通過する小田急小田原線小田急相模原駅が最寄。

道路

神奈川県道507号相武台相模原線(村富線)

相模台まちづくりセンター

1957年(昭和32年)8月1日 - 相模原市役所国立病院前分室設置。
1959年(昭和34年)5月1日 - 相模原市役所相模台分室と改称。
1970年(昭和45年)10月1日 - 相模台出張所と改称。
2010年(平成22年)4月1日 - 相模原市の政令指定都市移行、区制実施により南区の一部となり、相模台まちづくりセンターと改称。
管轄区域は以下の通り(いずれも南区)。南台一丁目〜六丁目、相模台一丁目〜七丁目、相模台団地、桜台、御園四丁目・五丁目、双葉一丁目・二丁目、麻溝台一丁目(東半)・二丁目〜六丁目・七丁目(大部分)・八丁目、北里二丁目、新磯野二丁目(一部)、大字上鶴間、大字麻溝台(一部)、大字新磯野(一部)

日本郵便

郵便番号 : 252-0321(集配局 : 座間郵便局)。

脚注

関連ページ

【参考】
町域名に「相模台」が含まれている住所一覧

検索ヒット数:2件
都道府県 市区町村 町域.
14神奈川県 さがみはらしみなみく相模原市南区 さがみだい相模台
14神奈川県 さがみはらしみなみく相模原市南区 さがみだいだんち相模台団地
  • 同じ町域内で複数の郵便番号がある場合、別々にリスト表示しています。