郵便番号 470-0463
住所 愛知県 豊田市 石飛町
読み方 あいちけん とよたし いしとびちょう
この地域の
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地図

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地方公共
団体コード
23211
最寄り駅
(基準:地域中心部)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • 豊田市役所藤岡支所《役所/役場》
  • 豊田市立飯野小学校《小学校》
  • 藤岡テニスコート《テニスコート》
  • ミニストップ豊田石飛店《コンビニ》
  • 愛知県 豊田市 石飛町」の読み方は「あいちけん とよたし いしとびちょう」です。
  • 愛知県 豊田市 石飛町」の郵便番号は「470-0463」です。
  • 愛知県 豊田市」の地方公共団体コードは「23211」です。

「石飛町」の概要 from Wikipedia

…(1,534文字)

石飛町(いしとびちょう)は、愛知県豊田市の町名。

概要

豊田市の北西部に位置し、藤岡地区(旧西加茂郡藤岡町の町域にほぼ相当する)に属する。
町域南西部を矢作川支流である飯野川が縦貫する。飯野川には石飛川・間山川が注ぎ、合流部付近には採石場、採土場がある。愛知県道33号瀬戸設楽線が飯野川と併走し、人家も県道沿いに集中している。間ノ山と呼ばれる町域北東部は山林の深い地域だが、木瀬町から当地域を下り県道につながる一本の山道は外越(とごし、戸越)道と呼ばれ、小原から戸越峠を経て瀬戸を結ぶ街道のひとつであった。大正期から昭和初期にかけて、陶土材が瀬戸まで運ばれた道筋。

沿革

江戸期- 寛永期の『三河国村々高附』においては「加茂郡石飛村」、天保期の郷帳においても「加茂郡石飛村」という表記が見受けられる。
1635年(寛永12年)当時- 成瀬氏領であった。
1701年(元禄14年)- 幕府領となる。
1868年(明治元年)- 三河吉田藩領となる。
なお文献によっては1705年(宝永2年)頃に三河吉田藩領となったとする記述もある。
1871年(明治4年)- 大区小区制施行により、第4大区第3小区に所属する。
1878年(明治11年)- 郡区町村編制法施行により、加茂郡が西加茂郡と東加茂郡に分割される。これに伴い、石飛村の所属が加茂郡から西加茂郡に変更される。
1884年(明治17年)7月- 戸長役場設置に伴い、石飛村、飯野村(いいのむら)、北一色村(きたいしきむら)、田茂平村(たもだいらむら)、西中山村(にしなかやまむら)、迫村(はさまむら)、深見村(ふかみむら)の7村が同組に組み込まれる。
1889年(明治22年)10月1日- 市制・町村制施行に伴い、石飛村、飯野村、北一色村、田茂平村、西中山村、迫村、深見村の7村が合併して西加茂郡藤河村が誕生し、石飛村は藤河村大字石飛に継承される。
1906年(明治39年)4月1日- 藤河村、高岡村、富貴下村の内3大字が合併して藤岡村が誕生し、藤河村大字石飛は藤岡村大字石飛に継承される。
1978年(昭和53年)4月1日- 藤岡村の町制施行に伴い、住所表示が藤岡町大字石飛に変更される。
2005年(平成17年)4月1日- 藤岡町の豊田市への編入に伴い、住所表示が豊田市石飛町に変更される。

世帯数と人口

2019年(令和元年)7月1日現在の世帯数と人口は以下の通り。

人口の変遷

国勢調査による人口の推移

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。

寺社

石飛須原神社/町域最南部、飯野境と呼ばれる地区の住宅密集地の最深部にあり、白山姫命を祀る。1718年(享保3年)、1861年(文久元年)の二度にわたり再建されている。なお、境内は藤岡飯野町とまたがっている。

古窯

板倉窯- 近現代/飯野境窯- 近世

散布地

高堤遺跡- 縄文・中世・近世/町域西部から上渡合町にかけて、広く分布している。

城館跡

石飛砦跡/お須原山、及び東に隣接する御岳山と呼ばれる二つの丘陵の頂付近にあり、削平地に空堀と土塁が残る。石飛須原神社はここに鎮座している。

日本郵便

郵便番号 : 470-0463(集配局:藤岡郵便局)。

参考文献

「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年3月8日。ISBN 4-04-001230-5。 /有限会社平凡社地方資料センター 編『日本歴史地名体系第23巻 愛知県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4-582-49023-9。 /『豊田加茂7市町村の合併の記録』、豊田市、2005年。
深津重貞 「豊田加茂の地名」、1991年。

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