「滋賀県 甲賀市 信楽町多羅尾」について
郵便番号 | 〒529-1821 |
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住所 | 滋賀県 甲賀市 信楽町多羅尾 |
読み方 | しがけん こうかし しがらきちょうたらお |
この地域の 公式HP |
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地図 | |
地方公共 団体コード |
25209 |
最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「滋賀県 甲賀市 信楽町多羅尾」の読み方は「しがけん こうかし しがらきちょうたらお」です。
- 「滋賀県 甲賀市 信楽町多羅尾」の郵便番号は「〒529-1821」です。
- 「滋賀県 甲賀市」の地方公共団体コードは「25209」です。
「信楽町多羅尾」の概要 from Wikipedia
信楽町多羅尾(しがらきちょうたらお)は、滋賀県甲賀市の町丁。本項では前身である甲賀郡多羅尾村(たらおむら)についても記す。
地理
甲賀市の南西端の山間部に位置し、北で信楽町小川、北・東で信楽町神山、東で三重県伊賀市諏訪、南で同市西高倉・西山・島ヶ原、西で京都府相楽郡南山城村北大河原・野殿・童仙房および同和束町湯船に接する。北西から南東に滋賀県道・三重県道138号信楽上野線、北東から南西に滋賀県道334号多羅尾神山線が通過する。江戸時代には多羅尾代官所が所在した。家来の家も立ち並び、江戸や地方から訪れる人で賑わいを見せたという。
山間に位置する特性から旧信楽町の他の地域と比べても寒冷で、この気候を生かして水稲、シイタケ、トマト、三度豆が栽培されている。河川
神有川/滝川/流谷川
歴史
地名の由来として、つぎのような伝説がある。
もともとこの地には、たらが自然に大量に生えていて、たらほとか、たら野などと呼ばれていたが、平安時代のはじめ(814年ごろ)空海が真言宗の本山、金剛峰寺をどこに建てようかと近畿地方を歩き回っていたとき、ここにも来て、村主にこう示唆した。
「印度の国では、多羅という大きな木が、たくさん植えられていて、むかし、まだ、紙がなかった時代は、この木の葉を干して、乾かし、これに、小刀のようなもので、経文を彫った。これを、多羅葉経といって、たいへん貴重なものとされた。多羅と、たらは、木の種類が違うが、発音が同じだから、今後、この、ありがたい多羅の字を用いて、多羅尾と改めるがよい。」/。
幕末時点では甲賀郡多羅尾村で、多羅尾氏による支配であった。「旧高旧領取調帳」の記載によると旗本領。
明治3年(1870年) - 大津県の管轄となる。
明治5年1月19日(1872年2月27日) - 大津県が改称して滋賀県となる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、近世以来の多羅尾村が単独で自治体を形成。
1953年(昭和28年)8月15日 - 多羅尾豪雨発生。土砂災害により住民44人と家屋269戸が土砂の下敷きとなった。
1954年(昭和29年)9月1日 - 多羅尾村が信楽町・雲井村・小原村・朝宮村と合併して信楽町が発足。同町大字多羅尾となる。
2004年(平成16年)10月1日 - 信楽町が水口町・土山町・甲賀町・甲南町と合併して甲賀市が発足し、同市信楽町多羅尾となる。世帯数と人口
2019年(令和元年)8月31日現在の世帯数と人口は以下の通り。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
路線バス
甲賀市コミュニティバス/多羅尾線/信楽駅 - 信楽地域市民センター - 栄町 - 江田 - 小川出 - 近江小川 - 茶屋出 - 近江中野 - 多羅尾 - 多羅尾上出/信楽駅 - 信楽地域市民センター - 栄町 - 江田 - 小川出 - 近江小川 - 茶屋出 - 六呂川 - 信楽温泉/信楽駅 - 信楽地域市民センター - 栄町 - 平和堂 - 小川出 - 近江小川 - 茶屋出 - 六呂川 - 信楽温泉/信楽温泉発着は「江田経由」と「平和堂経由」に分類される。なお、多羅尾上出発着は「平和堂」を経由する便の設定が存在しない。
道路
滋賀県道・三重県道138号信楽上野線/滋賀県道334号多羅尾神山線
施設
多羅尾簡易郵便局/甲賀市立多羅尾小学校/JAこうか多羅尾/浄顕寺/里宮神社/信楽温泉多羅尾之湯/タラオカントリークラブ/デイリー信楽カントリークラブ
出身・関連著名人
森川温子、ミュージカル俳優
日本郵便
郵便番号 : 529-1821(集配局:信楽郵便局)。
参考文献
「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』角川書店、1979年4月。ISBN 978-4-04-622935-9。 /信楽町『信楽 信楽町50年の軌跡』信楽町、2004年。 /旧高旧領取調帳データベース
関連項目
滋賀県の廃止市町村一覧/美杉町太郎生
外部リンク
甲賀市