郵便番号 831-0045
住所 福岡県 大川市 大野島
読み方 ふくおかけん おおかわし おおのしま
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地方公共
団体コード
40212
最寄り駅
(基準:地域中心部)
周辺の施設、
ランドマーク等
  • 大野島郵便局《郵便局》
  • 新田大橋《橋・トンネル》
  • 大川市立大野島小学校《小学校》
  • 大川トリムランド《スポーツ施設(小規模)》
  • 筑後川総合運動公園《スポーツ施設(小規模)》
  • セブンイレブン大川大野島店《コンビニ》
  • 福岡県 大川市 大野島」の読み方は「ふくおかけん おおかわし おおのしま」です。
  • 福岡県 大川市 大野島」の郵便番号は「831-0045」です。
  • 福岡県 大川市」の地方公共団体コードは「40212」です。

「大野島」の概要 from Wikipedia

…(7,020文字)

大野島(おおのしま)・大詫間(おおだくま)は福岡県大川市と佐賀県佐賀市にまたがる島。筑後川の最下流にある中州。福岡県側と佐賀県側とで名称が異なり、北半分の福岡県域を「大野島」、南半分の佐賀県域を「大詫間」と呼ぶ。本項では島全体について記述する。

地理

東側を筑後川に、西側を派川の早津江川に囲まれ、大詫間の南は有明海に面している。筑後川に新田大橋と有明筑後川大橋(道路専用)、早津江川に早津江橋と川副大橋、有明早津江川大橋(道路専用)と、現在は5つの橋が架かっている。地形は全域で平坦。
標高は大野島で概ね2.5メートル以下で、対岸の大川市川口地区と同程度。すぐ上流には大中島という中州もあり、そちらは佐賀市(旧諸富町)に属する。
筑後川下流部は、多くの土砂のほか、大きな潮汐に伴い浮泥も運搬・堆積することで、過去数百年の間に流れを少しずつ変えてきている。16世紀ごろまでに、筑後川の河口に2つの中州が出現した。さらに堆積が続くと、陸続きの1つの中州になった。2つに分かれていた頃から開拓の手が両岸から及び、柳川藩と佐賀藩の間で領有をめぐる対立が生じるようになった。正保年間の和議により境界が定められたとされている。
廃藩置県の際には藩境がそのまま継承されて、現在は中州の中央を北西から南東に斜めに県境が走り、北が福岡県、南が佐賀県となっている。
『川副町史』『郷土大野島村史』は2つの県にまたがる日本唯一の島としているが、実際には瀬戸内海の大槌島、石島(井島)、甲島など県境のある島はいくつかの例がある。
また、人が住んでいる河川の中州としては日本で唯一県境がある島とされる場合がある。
福岡県の大野島は以下の地区で構成される。
また、佐賀県側の大詫間は以下の地域で構成される。
ただし以下の11の行政区が制定されており、地域名ではなく行政区名を用いることも多い。

観光

(福岡県側・大野島)/大野島開拓発祥地の碑:津村三郎左衛門の開拓の碑/大角桟橋:『嫌われ松子の一生』に登場する桟橋。
筑後川総合運動公園:福岡県側の筑後川河畔の運動公園。散歩に適している。
新田大橋:北側に筑後川昇開橋が見られる他、筑紫平野を一望できる。また干潮時には若津港導流堤(デ・レーケ導流堤)を見ることができる。
(佐賀県側・大詫間)/山口家住宅(国の重要文化財):「じょうご造り」と呼ばれる構造を持つ葦ぶきの屋根の住宅。屋根の中央に集めた雨水を軒下に逃す仕組み。

中州の出現

『大川市誌』(『三潴郡誌』)の記載によると、享禄・天文年間には海面であったが、その後1つの中州が出現し、元亀・天正年間には近くにもう1つ中州が出現した。肥前の者は先に現れた中州を「雄島」、後に現れた中州を「雌島」と呼んでいたという。
また開拓の頃には、北の島は「平尾島」「釜蓋島」「向野の潟」とも呼ばれ、後に「大野島」と呼ばれるようになった。元和2年(1616年)に三潴郡津村から移住が行われると同時に大野島が成立したとされている。柳川藩政初期には三潴郡一木村に属し、後に大野島村が成立した。
一方、南の島は天正年間まで「松枝沖」と呼ばれ、大野島より遅く、正保年間の開拓と同時に大詫間村と称するようになった。
大詫間は、慶長年間の国絵図『慶長年間肥前国絵図』には記載がないが、正保4年(1647年)作成の『肥前一国絵図』には記載され、長さ28町、横13町の注記がある。また、延宝9年(1681年)の巡見使の記録には島の周囲およそ2里(約8キロメートル)、395石余りと記載されている。慶長の国絵図に載っていないのは意図的なもので、絵図が幕府への石高報告の性質を帯びていたことを背景に、年貢を免れるなどの理由があったと類推される。

境界争い

境界を定めた正保年間の和議では、互いに譲らなかった両藩の間で、決定を神意に託すことになった。それは、上流から柴に結び付けた千栗八幡宮と高良大社の御幣を流し、その流路を境界にするというものであった。一説には松平伊豆守の調停という。はじめ北の島の右岸を流れた柴は、途中で南の島との間を抜け、南の島の左岸を流れて海に出た。そのため両島の間が国境になり、柳川藩が大野島を、佐賀藩が大詫間を領有することで決着した。しかし、決着後も柳川側にはしばらく不満が燻り、覆そうと謀る者も出た。
この当時の両島の間は帆船が盛んに通るくらいの川幅があったが、やがて島がつながり、かつての川筋には小さな江湖(水路)・縁田(下がり田)と「通り柴」の字名が残るだけになっている。
大野島や大中島の中州ができ始めたころ、中州の西側が筑後川の本流で、これに対して東側を「洗い切り」と呼んでいたが、いつのころからか東側が本流となり、西側は早津江川と呼ばれるようになったという。『疏導要書』(佐賀藩士・南部長恒著)はその原因を道海島の荒籠(石積みの水制)だとした。
久留米藩は東岸若津港の船着きの便を図るため、明暦2年(1656年)西岸上流の道海島に「百間荒籠」と呼ばれる荒籠を築き、水を東に跳ねさせて水勢を集中させ、若津港上流の川床が深くなるようにしている。本流の変化のほか、佐賀藩の諸富港は次第に浅瀬となって船着きが悪くなったり、佐賀江流域の水捌けが悪化し水害が増えたりする影響も出た。そのため、付近の3藩が協議し延享年間に一部が取り除かれたが、作業が困難なため3分の2程度は残された。
時代が下って、若津港の航路確保・大型船導入のためにヨハニス・デ・レーケの設計で築かれ、1890年(明治23年)に竣工したのが若津港導流堤(デ・レーケ導流堤)。長さ約6キロメートルで、大野島及び大詫間と対岸との間の筑後川の中央部に設置されている。

干拓

新田開拓と入植のために干拓が行われ、島の拡大にも寄与してきた。江戸期の大詫間では、最初に行われた50町の干拓地を核として広がるように、佐賀藩域にみられた村受け干拓の方式で、約10町以下の小さな干拓が鱗状に多数造成されていった。明治初年には240町に拡大している。圃場整備による再区画前、干拓地には明治搦(—からみ)、大正搦(面積:22町)、昭和搦(56町余)、元治搦、昭和搦などの名称があった。最後に行われた大詫間干拓(新興搦)は1946年に着工、国から県への事業主体引き継ぎ、災害による中断を経て、1968年に竣工した。造成面積は約70ha(約71町)で、農家186戸へと配分された。
干拓の進行とともに、潮土居と呼ばれる旧海岸堤防はどんどん内陸に位置することになる。こうした旧堤防は均して高屋地(たかやじ)と呼ばれる宅地にしたり、土居田と呼ばれる耕地にしたりした。大野島・大詫間ともに、現堤防に平行に何本も走る旧堤防に沿って、帯状に耕地が分布していた。集落については、大詫間では帯状の街村に似た集落が分布する一方、大野島は小塊村が分散する傾向が強い。なお、帯状の土居田は圃場整備により整然とした区画に変わっている。

年表

1593年-1596年 (文禄年間)- 湿地の北部に筑後の農民が芦を植え、新田開発の準備をする。
1601年(慶長6年) - 津村三郎左衛門が大野島の開拓を開始。後の古賀(渡辺に継承)、今村、中村、長尾、永島、堤、武下、吉川各氏の祖先である同士7人とともに行ったと伝わる。佐賀藩領大詫間は、藩主鍋島氏の親戚鍋島茂賢(深堀茂賢/石井茂賢)の知行地となる。
1616年(元和2年) - 平尾島を大野島と改称。
1633年(寛永10年) - 40年前の準備が実り(釜蓋島=大野島に)新田が開かれる。
1644年(正保元年)- 佐賀城下白山町の武富太郎兵衛(武屋)が大詫間の島を初めて干拓。藩庁の許可で埋め立てた50町歩のうち、正税として25町歩を藩庁に、13町歩を国老深掘氏の采地としてそれぞれ献上した。残り12町歩を私有地とし、妻の父下村利由の采地にいた農民をここに移し開墾させた。領有について佐賀藩と柳川藩が長く争っていたが、この年(正保年間とする資料もある)、大詫間は佐賀領に決定。
1716年-1736年(享保年間) - 大野島に庄屋が2人置かれるようになる。それまでは一木村の枝村扱いだったが、実質的にこのころから北大野島村、南大野島村に分村した。正式な分村は1871年(明治4年)となっている。
1812年(文化9年)10月17日-18日 - 伊能忠敬が大野島を測量。
1872年(明治5年) - 江南小学校設立/1876年(明治9年) - 北大野島村と南大野島村が合併し、大野島村が成立。
1885年(明治18年) - 大野島小学校が設立。五家に校舎が設置された。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、福岡県三潴郡大野島村、佐賀県佐賀郡大詫間村が成立。
1896年(明治29年) - 大野島小学校が現在位置(潟島)に新築/1951年(昭和26年)6月18日 - 早津江橋が開通し、大野島が本土と陸続きになった。なお新田大橋開通までの間、大川市との車の往来は回り道を要した。
1953年(昭和28年)4月 - 大野島中学校の独立校舎が竣工。1960年5月に大川南中学校に統合され、校舎は大野島教場としてしばらく使用され、1962年から1963年にかけて段階的に新校舎に移転した。
1954年(昭和29年)4月1日 - 大野島村が三潴郡大川町・川口村・田口村・木室村・三又村と対等合併し、大川市が発足。大野島村の区域は大川市大字大野島となる。
1955年(昭和30年)4月1日 - 大詫間村が佐賀郡南川副町・中川副村と合併し、川副町が発足。
1959年(昭和34年)3月31日 - 大詫間中学校が廃校。
1973年(昭和48年)4月25日 - 新田大橋が開通。
1974年(昭和49年)2月5日 - 大詫間の「山口家住宅」が国の重要文化財に指定される。
1983年(昭和58年)12月10日 - 川副大橋が開通し、大詫間地区への上水道送水を開始。
1996年(平成8年)3月28日 - 山口家住宅公園が落成/2007年(平成19年)10月1日 - 川副町が佐賀市に編入される。大詫間の区域は佐賀市川副町大字大詫間となった。

人口

大野島・大詫間の人口・世帯数は次のように推移してきた。
国勢調査による1995年から(各年10月1日時点)の人口の推移は以下のとおり。

農業

大川市域では米やイチゴなどの生産が盛んで、大野島も同様。大詫間も米を主体とする農業が盛ん。春から秋は島全域に広がる水田で米が栽培される。
昭和後期時点ではイグサの栽培も盛んだった。
大野島・大詫間ともに、農業用水はかつて、上流からの用水ではなく雨水や筑後川からのアオ(潮汐作用で押し上げられる淡水)を利用していた。アオは干ばつで水位が低くなると取水困難になるため、農民は干ばつ被害に悩まされてきた。1998年に完工となった国営用水事業によって、筑後川から筑後大堰を通じて取水し、佐賀東部導水路・大詫間幹線水路を経由して送水される設備ができ、農業用水は安定して確保できるようになっている。

水産業

大川市・佐賀市では海苔の生産が盛ん。大野島・大詫間も海苔養殖の拠点となっている。農業・漁業の兼業がみられるのも特徴。漁業集落では、海苔の乾燥機械を置き作業を行う乾燥小屋をもつ家がみられるが、協業化も進みつつある。
泥の堆積によりすぐ埋まってしまう特性のため、漁港は川岸に設けられている(河港)。
大野島では川岸の3地区に漁港があり、「大野島漁港」として第1種漁港に指定されている。1995年の資料では、漁業従事者214人、登録漁船193隻を数えた。
大詫間では西岸の海路端と東岸の三軒家に漁港がある。両港は佐賀市域の対岸の漁港と併せ、「戸ヶ里・寺井津漁港」として第2種漁港に指定されている。

交通

最寄り空港は福岡空港または佐賀空港。佐賀空港からは、タクシーで10 - 15分。

道路

福岡県道・佐賀県道18号大牟田川副線が島の北部を横切っている。早津江橋と新田大橋はこの路線の橋。島を縦貫する佐賀県道・福岡県道140号大詫間大川線もある。佐賀県道285号大詫間光法停車場線は大詫間から佐賀県側に架かる川副大橋を含む路線。
大牟田・柳川方面と佐賀方面を結ぶ自動車専用道路の有明海沿岸道路が島の北部を横切っており、大野島インターチェンジが設けられている。
古くは島外との往来に渡船が利用されていた。大野島の大角渡船場と対岸の川口村を結ぶ渡船は、1893年(明治26年)に村営、1905年(明治38年)に郡営に移管されている。1901年(明治34年)には大角渡船場に桟橋が築造されている。
また早津江の渡し(大野島 - 早津江間)、上新田の渡し(上新田 - 大野島大角間)は、1925年(大正14年)に福岡県営に移管され、無料化の措置が執られてきた。橋の開通により、1951年と1973年にそれぞれ廃止となっている。

路線バス

大野島方面/西鉄バス久留米により以下の2路線が、それぞれ1時間に1本程度運行されている。
大野島 - 西鉄八丁牟田駅 - JR羽犬塚駅/早津江 - 大野島 - 北間 - 沖端 - 西鉄柳川駅/これらのバスを使って駅から行く場合は、以下の3通りの行き方がある。
西鉄天神大牟田線西鉄柳川駅から西鉄バス早津江行きで、大野島小学校前、大野島農協前、外開下車(27分390円)。
西鉄天神大牟田線八丁牟田駅から西鉄バス大野島農協行きで大野島小学校前、大野島農協前下車(41分540円)/JR鹿児島本線羽犬塚駅から西鉄バス大野島農協行きで大野島小学校前、大野島農協前下車(24分390円)/大詫間方面/佐賀市営バス/大詫間 - 犬井道 - 片田江 - 県庁前 - 唐人町 - 佐賀駅バスセンター

廃止路線

佐賀市営バスによって、早津江橋経由で以下の路線が運行されていたが、20年以上前に廃止された。
大詫間 - 大野島 - 早津江 - 佐賀駅バスセンター

寺社

(大野島)/勝楽寺:宝暦5年(1755年)創建、浄土真宗本願寺派。辻仁成の小説のタイトルである「白仏」が安置されている。
厳島神社:旧称竹生島神社。宮前(大上)地区に所在。慶長19年(1614年)竹生島からの勧進により創建。境内社として、稲荷社および、開拓期に祀られたものに起源をもつ竜神宮がある。
厳島神社:神社。旧称竹生島神社。潟島地区に所在。元禄4年(1691年)竹生島からの勧進により創建。
(大詫間)/松枝神社:佐賀藩主が大詫間の領有を主張するため、元和9年(1624年)中州に八大竜王の祠を建立させたのが起源で、正保4年(1647年)に現在地に移転して神社が設けられた。秋祭りでは、佐賀市の重要無形民俗文化財「松枝神社奉納浮立」(1981年指定)である民俗芸能の天衝舞浮立(てんつくまい ぶりゅう)が奉納される。
正傳寺:1681年(天和元年)大詫間の領主深堀鍋島家により建立。
オンガンサン:かつて存在した御髪信仰に基づく神屋敷。高潮など海辺の鎮護を司ったほか、干ばつの折には雨乞い神事も行われた。圃場整備事業に伴い1972年に撤去されている。

小説

辻仁成『白仏』文藝春秋、のちに文春文庫収載。
山田宗樹『嫌われ松子の一生』、幻冬舎、2003年、のちに幻冬舎文庫に収載。

映像作品

映画『嫌われ松子の一生』、2006年、東宝(配給)。主演中谷美紀、監督・脚本:中島哲也/テレビドラマ『嫌われ松子の一生』、2006年、TBS。主演内山理名

コミック

山田宗樹(原作)、空知周太郎(作画)『嫌われ松子の一生 : 幻冬舎文庫「嫌われ松子の一生」より』〈幻冬舎コミックス〉、2006年。

参考文献

武下一郎「大詫間村年表」『郷土大野島村史:大川市大字大野島』村史出版大野島校区後援会、1976年、219-226頁。NDLJP:9769512。 /佐賀市史編さん委員会 編『佐賀市史 地理的環境・原始・古代・中世編』 1巻、佐賀市、1977年7月。全国書誌番号:77008406、NDLJP:9769997。 (参考:佐賀市 佐賀市史第一巻)。
大川市誌編集委員会 編『大川市誌』大川市、1977年12月。全国書誌番号:78005009、NDLJP:9770143。 /川副町誌編纂委員会 編『川副町誌』川副町誌編纂事務局、1979年2月。全国書誌番号:79016375、NDLJP:9770524。 (参考:佐賀市 川副町誌)/「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 41 佐賀県、角川書店、1982年3月。ISBN 4040014103。 /諸富町史編纂委員会 編『諸富町史』諸富町、1984年3月。全国書誌番号:85006433、NDLJP:9774899。 (参考:佐賀市 諸富町史)/「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 40 福岡県、角川書店、1988年3月。ISBN 4040014006。

関連項目

筑後川/中州/県境

外部リンク

大野島コミュニティセンター/大詫間公民館

関連ページ

【参考】
町域名に「大野島」が含まれている住所一覧

検索ヒット数:4件
都道府県 市区町村 町域.
11埼玉県 さいたましいわつきくさいたま市岩槻区 おおのじま大野島
18福井県 よしだぐんえいへいじちょう吉田郡永平寺町 おおのじま大野島
36徳島県 あわし阿波市 いちばちょうおおのじま市場町大野島
40福岡県 おおかわし大川市 おおのしま大野島
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