「愛知県 豊田市 長興寺」について
郵便番号 | 〒471-0879 |
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住所 | 愛知県 豊田市 長興寺 |
読み方 | あいちけん とよたし ちょうこうじ |
この地域の 公式HP |
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地図 | |
地方公共 団体コード |
23211 |
最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「愛知県 豊田市 長興寺」の読み方は「あいちけん とよたし ちょうこうじ」です。
- 「愛知県 豊田市 長興寺」の郵便番号は「〒471-0879」です。
- 「愛知県 豊田市」の地方公共団体コードは「23211」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「長興寺(豊田市)」の概要 from Wikipedia
長興寺(ちょうこうじ)は、愛知県豊田市にある臨済宗東福寺派の別格寺院。
概要
山号は集雲山(しゅううんざん)。本尊は十一面観音。開山は太陽義冲。
歴史
建武2年(1335年) 三河国衣(ころも)城主中条秀長が菩提寺として太陽義冲を招聘して創建。当時の寺域は南北5丁余り、東西4丁余り、18坊に及ぶ塔頭が建ち並び、地域最大の寺院であった。
室町時代中期、応仁の乱(1468年 - 1477年)後、中條氏の衰退と共に衰退。永禄10年(1567年)には、余りの偉容に城と間違えた織田信長の兵火によって焼失した。天正11年(1583年) 信長の家臣で衣城代の余語正勝が、再興した長興寺で信長の一周忌法要を行った。その際に、日本の歴史教科書にも掲載されている狩野元秀筆の「紙本著色織田信長像」(重要文化財)が寄進された。
元禄年間(1688年 - 1704年) 本堂、庫裏を重建。現本堂は昭和50年代 鉄筋コンクリート造で再建されたもの。長興寺村
長興寺を中心に住民が増加し、寺院への供物を受け持つ地域を東西に分け、「長興寺字供膳(くぜ)寺」という地名が設定された。これが今の地名が寺の地名と同じになった起こり。
江戸時代には長興寺村となり、挙母藩(2万石)の領地の一部であった。城下ではなく、農村集落で約400石ほどであった。
明治時代中頃に、周囲の村と合併して根川村となり、更に1906年(明治39年)、城下と合併して挙母町となった。重要文化財(国指定)
絹本著色仏涅槃図:応永廿八年幹縁比丘義睦とあり(応永28年は1421年)/紙本著色織田信長像:狩野元秀筆/絹本著色無為昭元像
愛知県指定文化財
絹本著色補陀観音像/絹本墨画三十三観音像/絹本著色太陽禅師像
豊田市指定文化財
絹本墨絵釈迦像/絹本著色不動尊像/絹本著色多聞天像/雲版
民話(昔ばなし)
長興寺には、鐘泥棒の昔ばなし「長興寺の鐘」のがある。
泥棒に盗まれた鐘が「長興寺恋しやポンワンワン、返しておくれんポンワンワン」と鳴ったと云う民話が語り継がれている。
詳しくは、外部リンクを参照。交通アクセス
名鉄三河線 上挙母駅から徒歩で約30分。
関連項目
二龍松 - 長興寺に伝わる変身譚/日本の寺院一覧/日本の寺の画像一覧
外部リンク
歴史の香る散歩みち 朝日丘地域 長興寺コース(豊田市:朝日丘まちづくり委員会)/(民話)「長興寺の鐘」 朗読シアター(中京テレビ)
関連ページ
【参考】
町域名に「長興寺」が含まれている住所一覧
都道府県 | 市区町村 | 町域. |
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3岩手県 | くのへぐんくのへむら九戸郡九戸村 | ちょうこうじ長興寺 |
23愛知県 | とよたし豊田市 | ちょうこうじ長興寺 |
27大阪府 | とよなかし豊中市 | ちょうこうじきた長興寺北 |
27大阪府 | とよなかし豊中市 | ちょうこうじみなみ長興寺南 |
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