「沖縄県 那覇市 泊」について
| 郵便番号 | 〒900-0012 |
|---|---|
| 住所 | 沖縄県 那覇市 泊 |
| 読み方 | おきなわけん なはし とまり |
| この地域の 公式HP |
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| 地図 | |
| 地方公共 団体コード |
47201 |
| 最寄り駅 (基準:地域中心部) |
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| 周辺の施設、 ランドマーク等 |
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- 「沖縄県 那覇市 泊」の読み方は「おきなわけん なはし とまり」です。
- 「沖縄県 那覇市 泊」の郵便番号は「〒900-0012」です。
- 「沖縄県 那覇市」の地方公共団体コードは「47201」です。
- ■f03: 丁目を有する町域。
- 郵便番号を設定した町域(大字)が複数の小字を有しており、各小字毎に番地が起番されているため、町域(郵便番号)と番地だけでは住所が特定できない町域。
「泊 (那覇市)」の概要 from Wikipedia
泊(とまり、沖縄語:トゥマイ)は、沖縄県那覇市の町丁。現行行政地名は泊一丁目から泊三丁目で、郵便番号は900-0012。
安里川下流の北岸から泊港東岸に位置する。琉球王国時代の泊村は現在の泊と前島を合わせた一帯に相当し、現行町域より広かった。古琉球期には周辺地域や奄美群島・宮古島と結ばれた王府の域内港として発達し、近世には王府直轄の町方の一つとなった。現在は住宅、商店、事業所が混在し、国道58号沿道と港湾に隣接する市街地を形成している。地名と範囲
「泊」は沖縄語で「トゥマイ」と発音され、近世の地名は「泊村(トゥマイムラ)」と読まれた。1700年建立の「泊高橋碑」は、中山に用事のある西北諸島の船がこの地を停泊地としたため泊村と称した、という地名由来を記している。これは近世の碑文による説明であり、地名の初出や成立時期そのものを示す同時代史料ではない。
歴史上の泊村は安里川下流から河口の両岸に広がり、現在の泊一丁目から三丁目に加えて前島一丁目から三丁目を含んだ。集落は銀森、黄金森、高真佐理、洋順毛などの丘陵から河口へかけて形成されていたとされる。したがって、王国時代の泊に関する旧跡の一部は、現在の町丁としては前島、上之屋、天久などに所在する。地理
那覇市中心部の北寄り、安里川下流の北側に位置する。南は安里川を隔てて前島・牧志に、北は上之屋に、東はおもろまち・安里に接し、西側は泊港に面する。国道58号が町域西寄りを南北に通り、泊三丁目の大部分は同国道の西側、泊一・二丁目は東側にある。泊一・二丁目の内部には住宅地と商店街を結ぶ泊中通り(泊中央線)が通る。
2020年国勢調査の町丁・字等別境界データによる町域の合計面積は0.39314283平方キロメートル。
安里川河口は古くは現在より広い入り江で、「天久口」とも呼ばれた。1451年前後の長虹堤築造後、堤の周囲に砂泥が堆積して潟原が生じ、のちに前島が形成された。これに伴って安里側は内陸化し、天久口は狭い泊港へ変化したと考えられている。近世の潟原では製塩が行われ、人口増加に伴って宅地化も進んだ。
港湾・漁港施設の名称に「泊」を含んでいても、現行町名の泊に所在しない例がある。泊ふ頭旅客ターミナル「とまりん」は前島三丁目に、泊漁港の鮮魚市場「泊いゆまち」は港町一丁目に所在する。このため「泊港」「泊ふ頭」「泊漁港」と現行町域は一致しない。古琉球期
18世紀に編纂された王府史書『中山世譜』『球陽』は、1266年に「大島等」が入貢し、泊に公館の泊御殿と公倉の大島蔵が置かれたと伝える。しかし、この記述を裏付ける同時代史料は確認されておらず、『中山世鑑』には両施設の記述がない。2025年の研究は、1266年の施設設置を史実とみなすには根拠が不足し、記事自体の信憑性も低いと評価している。
泊御殿の存在をうかがわせる比較的早い伝承として、1390年に宮古島の与那覇勢頭豊見親らが中山へ入貢し、言語習得のため泊に3年間滞在したというものがある。ただし、これも後世の碑文や伝承に基づく。研究上は、泊御殿は14世紀末までに、大島蔵は琉球王府による奄美支配が進んだ15世紀中葉までに成立した可能性が指摘されている。
1451年前後に首里と那覇を結ぶ長虹堤が築かれると、安里が陸路の要衝となり、河口部の堆積と前島形成も進んだ。15世紀後半には、泊御殿・大島蔵を備えた泊が、天久・安里・安謝・銘苅など周辺地域と連動し、奄美群島や宮古島に開かれた域内港として機能していた。
1466年、喜界島遠征から帰還した尚徳王に泊里主宗重(呉弘肇)の妻が水を献じ、宗重が泊里主、妻が泊大阿母志良礼に任命されたという話が呉姓家譜などに伝わる。これは後世の家譜伝承であるが、泊里主が泊と奄美諸島からの年貢を管掌し、泊大阿母が泊・天久・安謝などにまたがる祭祀を担ったことは、泊が港湾、行政、祭祀の各面で周辺地域と結ばれていたことを示す。近世
1609年の琉球侵攻後、奄美群島が薩摩藩の支配下に入ると、泊の役割も変化した。奄美の年貢を納めた大島蔵は廃され、その跡地付近に聖現寺が移されたと考えられている。一方、泊里主は泊町奉行、泊地頭と名称や職掌を変えながら琉球処分まで存続した。
近世の泊村は、首里三平等、那覇四町、久米村と並ぶ町方の一つで、那覇四町には属さない王府直轄の行政単位であった。村の士族は「泊村士」または「泊士」と呼ばれ、王府行政に携わった。歴史上の泊村の人口は、1746年の1,677人から1880年の6,038人へ増加した。増加率は260パーセントで、同じ町方の首里・那覇・久米村を上回った。この数値の泊村には、現在の前島に相当する地域も含まれる。
安里川河口の泊高橋は当初木橋であったが、1699年に石橋への改修が始まり、1700年に竣工した。橋は船の往来を可能にする高いアーチを備え、泊村と対岸の泊兼久を結ぶとともに、水運と陸運の結節点となった。1934年に交通量増加へ対応するコンクリート橋へ架け替えられたが、沖縄戦で破壊され、戦後の1952年に再架設された。
泊港は漂着者や来琉外国人の受け入れ地にもなった。泊外人墓地は、当初は琉球に漂着して泊村で死亡した中国人を葬る場所で、現存する墓碑では1718年のものが最古。1816年には、バジル・ホール率いるイギリス船の死亡乗組員が、琉球側役人も参列する葬列を経て葬られた。
19世紀にイギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどの艦船が来航すると、王府は薩摩藩在番奉行所などが集中する那覇への入港を避けさせ、泊港沖を投錨地とした。このため泊は外国人の上陸地となり、1844年以降はフランス人宣教師が聖現寺に滞在した。1853年5月26日にはペリー艦隊が那覇港に入り、6月6日にペリーが上陸して首里城へ向かった。泊外人墓地には上陸を記念する碑が建つ。近代
1879年の沖縄県設置に伴い、泊村は久米村・久茂地村とともに那覇の行政区域へ編入された。同年設置の親見世役所が那覇四町、久米・久茂地、泊を管轄し、翌1880年に那覇役所と改称した。1896年に那覇区、1921年に那覇市となった。
1881年6月1日、泊村学校跡に教倫小学校が開校し、のちの那覇市立泊小学校となった。1914年に開業した那覇・首里間の路面電車(沖縄電気軌道)は、泊高橋、崇元寺、坂下を経由したが、バスとの競合による経営悪化から沖縄戦前に廃止された。戦災と戦後の市街地再編
1944年10月10日の空襲で那覇市域の約90パーセントが焼失し、翌年の沖縄戦で市街地は壊滅した。崇元寺は第一門と石牆の一部を残して焼失し、泊港を含む那覇港の施設も空襲で使用不能となった。戦後、那覇港と泊港は米軍に接収・改修され、泊港には3,000トン級船舶が接岸できるようになった。1954年に泊港が那覇市へ返還され、1972年には那覇港北岸、泊港、新港を一元化した現在の那覇港となった。
占領下では旧市街地への帰住が制限され、旧泊の土地が開放されたのは1955年であった。これに先立つ1954年には泊埋立地が竣工し、1955年には垣花地区から120戸が同埋立地に割り当てられた。1963年には泊・安謝の埋立てが始まった。
戦災復興土地区画整理事業の工事は1960年までに終わったが、換地処分は1971年11月15日に確定した。この町界・町名整理で、旧崇元寺町が泊一丁目、旧高橋町が泊二丁目、泊港北岸が泊三丁目となり、現在の泊一丁目から三丁目の骨格が成立した。一方、市当局が当初「泊一丁目・泊二丁目・泊新町」とする案を示した安里川南側の区域は、審議を経て前島一丁目から三丁目となった。1999年10月12日の住居表示実施では、泊一丁目東部の一部がおもろまち二丁目へ編入された。人口
2026年5月31日現在の住民基本台帳による世帯数と人口は次の通り。
泊手
泊は、沖縄空手の系譜の一つである泊手(トゥマイディー)の地として知られる。内閣府の沖縄空手紹介では、宇久嘉隆と照屋規箴をその元祖とされる人物とし、親泊興寛、山田義恵、松茂良興作ら泊の士に継承された武術と説明されている。松茂良は泊手を代表する人物とされ、その系譜は長嶺将真の松林流へ継承され、喜屋武朝徳らにも影響した。
泊地バーリー
泊地バーリーは、泊の新屋敷(現在の泊三丁目)に伝わるハーリーの模擬競漕芸能。那覇・久米・泊の3地区で行われたハーリーは1879年以降に一時途絶えたが、1922年に新屋敷の青年たちが復活させた。海上競漕を毎年続けることが困難であったため、龍頭・龍尾の間に鐘打ち、歌い手、漕ぎ手を配し、陸上で競漕を表現する「地バーリー」が考案された。海上のハーリーでは歌わない「唐歌」を伴うことを特徴とし、生年祝い、敬老会などで演じられる。
1991年7月15日に那覇市の無形民俗文化財に指定され、泊地バーリー研究会が保存・継承を担う。現在の那覇ハーリーでも、那覇・久米・泊に伝わるそれぞれのハーリー歌が歌われている。泊阿嘉
地名を冠する琉球歌劇泊阿嘉(トゥマイアーカー)は、我如古弥栄作の悲恋物語。1910年に沖縄座で初演され、112日間連続上演を記録した。作中では、久茂地村の阿嘉の嫡子・樽金が、泊村の伊佐殿内の娘・思鶴を思って泊高橋へ通う。
崇元寺跡
泊一丁目の崇元寺跡は、琉球王国歴代国王の位牌を祀った国廟の跡。山号を霊徳山とする臨済宗寺院で、15世紀から16世紀初めごろの建立と考えられている。冊封使が先王を弔う諭祭に参列し、新王の冊封後には国王が祖霊への報告のため参詣した。1982年と2021年の発掘調査で正廟、東庁、西庁、前堂、庫裏、神厨などの基礎や回廊石敷きが良好な状態で確認され、2025年9月18日に5,236.17平方メートルが国の史跡に指定された。
正門に当たる「旧崇元寺第一門及び石牆」は、石造三連アーチ門と左右計66.3メートルの石牆、脇門からなり、1527年以前の建造とされる。沖縄戦で損傷したが1952年に復旧され、1972年5月15日に国の重要文化財に指定された。泊外人墓地
泊三丁目の泊外人墓地は、泊港北岸に設けられた外国人墓地で、通称「ウランダー墓」と呼ばれた。中国人漂着者の墓地として始まり、のちに欧米人も葬られた。1718年の中国人墓碑を最古とし、1816年に来琉したイギリス艦隊の乗組員、19世紀のフランス人宣教師、ペリー艦隊の乗組員らの墓を含み、琉球王国の漂着者救護と外国船来航の歴史を伝える。1987年8月10日に那覇市の史跡に指定された。墓地内にはペリー提督上陸記念碑がある。
このほか、町内には坂中樋川など旧泊村の信仰と生活を伝える地域遺産が残る。那覇市の都市計画では、崇元寺跡、泊外人墓地などを結ぶ歴史散策環境の形成が方針に掲げられている。教育・施設
那覇市立泊小学校・那覇市立泊こども園(泊二丁目)— 泊小学校は1881年創立。旧校舎玄関が校内に移築保存されている。
沖縄県立泊高等学校(泊三丁目)— 午前・夜間の定時制課程と通信制課程を置く県立高等学校。
崇元寺公園(泊一丁目)— 崇元寺跡を整備した公園。
泊郵便局(泊二丁目)。道路
国道58号 — 町域西部を南北に通り、泊三丁目と泊一・二丁目側を分ける主要幹線。安里川には泊高橋が架かる。
沖縄県道29号那覇北中城線 — 泊交差点から崇元寺方面へ通じる。
泊中通り(泊中央線) — 泊一・二丁目の住宅地と泊小学校周辺を通る生活道路。
国道58号上に泊高橋・上之屋停留所、町内道路に中之橋・泊小学校入口などの路線バス停留所がある。最寄りの沖縄都市モノレール線(ゆいレール)の駅は、町域南東側の美栄橋駅。出身・ゆかりの人物
仲地紀仁(1789年–1859年)— 泊村出身の王府医師。ベッテルハイムから牛痘接種法を学び、沖縄で初めて実施したと伝わるが、確証史料を欠くことも指摘されている。
松茂良興作(1829年–1898年)— 泊村出身の空手家。泊手を代表する人物。
金城紀光(1875年–1967年)— 泊村出身の医師、政治家。沖縄県病院長、沖縄県医師会長、那覇市長、衆議院議員などを歴任した。
真喜志康忠(1923年–2011年)— 那覇市泊出身の俳優、劇作家。シベリア抑留から帰還後に「ときわ座」を結成し、戦後沖縄芝居を代表する俳優の一人となった。関連項目
泊港/那覇港/前島 (那覇市)/安里川/泊手/崇元寺
外部リンク
泊港および周辺の旧跡 - 那覇市歴史博物館
関連ページ
【参考】
町域名が「泊」の住所一覧
| 都道府県 | 市区町村 | 町域. |
|---|---|---|
| 1北海道 | しままきぐんしままきむら島牧郡島牧村 | とまり泊 |
| 2青森県 | かみきたぐんろっかしょむら上北郡六ヶ所村 | とまり泊 |
| 16富山県 | ひみし氷見市 | とまり泊 |
| 16富山県 | しもにいかわぐんあさひまち下新川郡朝日町 | とまり泊 |
| 18福井県 | おばまし小浜市 | とまり泊 |
| 26京都府 | よさぐんいねちょう与謝郡伊根町 | とまり泊 |
| 31鳥取県 | とうはくぐんゆりはまちょう東伯郡湯梨浜町 | とまり泊 |
| 40福岡県 | いとしまし糸島市 | とまり泊 |
| 47沖縄県 | なはし那覇市 | とまり泊 |
| 47沖縄県 | なかがみぐんなかぐすくそん中頭郡中城村 | とまり泊 |
- 同じ町域内で複数の郵便番号がある場合、別々にリスト表示しています。